【書評】レッドアローとスターハウス—もうひとつの戦後思想史—

【書評】レッドアローとスターハウス—もうひとつの戦後思想史—
          (原 武史著 新潮社 2012年09月30日 2000円+税) 

 1960年代、それは高度成長期の真っ只中であり、経済の拡大は大量の労働力を必要とした。地方から大量の労働力が都市へと移動した時期である。昭和で言えば35年から45年だが、この時期都市部の関東ではひばりが丘団地や、関西では千里ニュータウンなどの大規模団地が、これら都市へと移動する労働者に対して、住宅を供給したのである。
 本書は、都市圏の大規模団地建設と労働者の移動、それを支えた私鉄資本の戦略、そして団地自治会に代表される住民運動と社会運動の発展、そして現在、それらが高齢者住宅となりつつある現実を、西武鉄道(池袋線と新宿線)とひばりが丘団地他に焦点をあて、「もうひとつの戦後思想史」として、描き出そうとしている。

 1915年4月、西武池袋線の前身の武蔵野鉄道(池袋-飯能間)が開業、1927年に旧西武鉄道(現・西武新宿線 高田馬場-東村山間)が開業している。そして、1945年9月二つの鉄道と食料増産という三社が統合して、西武農業鉄道となり、1946年に西武鉄道となった。
 首都圏は、全国と比較して鉄道利用が圧倒的に多く、西武鉄道は、都内から埼玉県を結び、JR(国鉄)との競合もなく、沿線開発を一手に進めることができた。鉄道・バス・百貨店・スーパーなどまさに西武の一元支配地であった。書名のレッドアローとは、西武鉄道の座席指定特急電車の愛称であり、団地から都心への労働者の通勤を支えた。スターハウスとは、日本住宅公団建設の星型住宅の愛称である。
 
 ひばりが丘団地は、現在の西東京市と東久留米市にまたがり、建設当時は総戸数2714戸の賃貸団地である。最盛期には9000人が暮らした団地人口は、2008年には、2300人に落ち込んでいる。結核病院である多摩全生園も1200人以上の患者が住んでいたが、2008年には323人に激減、いずれも高齢化などが要因という。
 
<赤い病院と患者同盟>
 清瀬周辺には、田園地域や赤松の林の中に、結核病院が数多く建設されてきた。人口の半数が患者と言う時期もあったという。戦後、患者達は権利主張を強め、それは日本共産党の影響下にあった。患者同盟の活動である。患者の中には文化人・知識人も多い。
 清瀬地域は、そんな影響もあって1950年年代、共産党の支持率、得票率は高かった。石堂清倫も、1954年に清瀬に居を移し、共産党離党後も、ここを拠点に活動を続けた。
 
<不破・上田兄弟と中野区>
 西武新宿線に野方と言う駅がある。旧野方村は現在中野区である。中野区も共産党の力が強く、1949年の総選挙では、22.5%が共産党に投票したという。この地域も、西武線の開通によって人口が急増した。著者は、1950年代以降、団地を中心に共産党が力を付けていく以前に、西武沿線で市民活動が盛んであったことを記すため、不破兄弟も関わった「中野懇談会」について頁をさいている。中野区出身に、不破・上田兄弟がおり、学齢期を過ごしている。父親が教育論者であったこともあり、高校時代に共産党に入党している。 中野懇談会の活動に上田は参加している。中野懇談会は、1953年のサンフランシスコ講和条約に反対する市民組織として発足し、左右を問わず、市民組織として平和運動・原水禁運動にも取り組んだ。当時上田は人民戦線的組織と位置づけ、共産党居住細胞に所属しつつ、地域の活動にも精をだしていた。当時の所感派と一線を画しており、「戦後革命論争史」もこの頃と同時並行の所産であろう。もちろん、上田はその後自己批判し、「幅広主義」を放棄することになる。
 
<社会主義と集合住宅>
 著者は、集合住宅の歴史についても触れている。ドイツで1920年代に集合住宅が作られ始め、規格化された住宅群が現する。ソ連でも多数の労働者のための集合住宅が造られる。1960年代に西武沿線に日本住宅公団による集合住宅が多数建設され、「西武的郊外」風景となる。(東急沿線では、大泉田園都市などのような1戸建住宅群が開発された。)
 ソ連の集合住宅と日本のそれが、よく似た風景を持っていると著者は指摘する。ヨーロッパ・ソ連で1戸建は贅沢として「社会主義的」な集合住宅が建設された経過はあるようだが、日本の場合、検証は難しいと著者は言う。私も、思想・イデオロギーの問題と言うより、不足する住宅を安く提供する方法として、集合住宅(団地)が大量に建設されたというのが真相だろう。
 
<続々建設される集合住宅>
 1958年には、荻窪団地(875戸)、武蔵野緑町団地(1019戸)、多摩平団地(2792戸)、大阪では枚方市香里団地(4881戸)など、日本住宅公団による大規模団地建設が始まる。1958年から62年にかけて、新宿線久米川駅周辺に、総戸数1970戸の都営久米川団地が建設される。さらに、59年9月新所沢団地の入居が始まり、総戸数は2455戸であった。都内の木賃アパートから、人々は競って公団住宅に殺到した。
 そして、西武池袋線沿線最初の大規模団地、ひばりが丘団地も1959年に完成している。総戸数は2714戸。4階建が76%となった。この時期、皇太子の結婚、そして安保闘争の時期でもある。大団地が次々と出来ていく時代はまた、政治の時代と重なっていく。
 
<子育て世代が大量入居>
 皇太子が見学に訪れたこともあり、ひばりが丘団地は有名になった。子育ての若い世代が続々入居したが、住んでみると問題も多かった。それは、保育所がない、バスが不便だ、等々、その声は団地自治会結成に繋がっていく。公団や西武鉄道・バスと交渉して改善策を出していく。60年の第二団地完成とともに、当時鉄鋼労連の書記だった不破哲三(上田健二郎)もひばりが丘団地に入居し、団地自治会に関わっている。69年に衆議院選挙に初立候補するまで、ここに住んだという。
 西武の運賃値上げ反対運動や横田基地に反対する運動など、団地生活改善の運動の中、政治意識の高まりを背景に、団地住民を中心にした政治参加は盛んだったという。
 それは、共産党への支持増大となった。60年代の久留米町では、衆議院選挙のたびに共産党の得票率が増えていった。60年6.8%、63年8.7%、67年12.4%、69年21.3%であった。
 共産党も、67年4月には独自の団地政策を発表している。赤旗まつりも、1962年第4回から西武線の狭山公園で開催された。(75年まで)
 
<世代交代とコミュニティの薄れ>
 しかし、集合住宅第一世代の高齢化、クルマ社会への変化、そして更に大規模なニュータウンの建設の中で、団地コミュニティは薄れ始める。60年代の高度成長を背景とし、比較的均質な居住者・労働者意識により形成された団地住民の共産党と結びついた運動は停滞していったという。創価学会が、団地対策に取組みだしたことも関係している。
 「89年から91年の東西冷戦の終結とソ連の崩壊、それに伴う社会主義の凋落は、日本における社会主義勢力の退潮を招いたばかりか、首都圏の私鉄郊外の住宅地にもじわじわと影響をもたらした。その最も鮮やかな対照は、共産党の支持基盤となっていた西武沿線の団地人口の減少や高齢化、分譲価格の下落と、新自由主義の支持基盤となる東急沿線の住宅地における若年層を含む人口増加、地価上昇ということになろうか。」
 
 私も仕事柄、同様の公団団地の自治会史を読んだことがある。昭和40年前後に、大阪府の郊外に数千戸を有する団地群が出現したが、周辺の整備は追いつかず、買い物もできない。自治会活動が活発になり、行政交渉や盆踊りなど、地域活動も盛んになった。公団団地に入居してきたのは、大企業の労働者が多く、組合活動の経験もある。勢い、共産党系住民が自治会の中心となり、自治体選挙などにも介入した。しかし、現在、市内でも飛び抜けて高い高齢化率の地域となっている。
 ニュータウンの再生が言われて久しいが、夫婦と子どもの3,4人家族を想定した団地が、過去の社会状況の中では意味を持ったのだろう。安定した雇用環境にある労働者は少なくなった。駅の近くにワンルームマンションが増え、高齢者向けの賃貸住宅が増え続けている。時代の変化の中で、新たな住宅政策、社会政策が求められている。
 私は関西の人間だが、東京の西武線に焦点をあて、社会構造の変化と、政治・意識の変容を丹念に紐解く本書は、読み物としても大変面白い内容である。一読されたい。(2013-02-17佐野秀夫) 

 【出典】 アサート No.423 2013年2月23日

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