【書評】「株式会社はどこへ行くのか」
(上村達男・金児昭著 日本経済新聞出版社)
福井 杉本達也
2006年5月から「新会社法」が施行されたが、how-toものの解説書は多いものの、会社法の本質を抉り出すような著書にはほとんど出くわさない。本書は早稲田大学の上村達男氏と経済評論家の金児昭氏の共著の体裁を取っているが、もっぱら上村氏が理論を展開し、金児氏が聞き役に回るという形で話が進められる。
1.危険がいっぱいの「新会社法」
株式会社はいま危険な領域にある。経済産業省が主導し、市場経済論者がからんで作られた「新会社法」はとんでもない代物となった。株式を公開している大規模な株式会社とこれまでの有限会社のような小規模な閉鎖会社を同列に扱うこととなってしまった。株式会社の資本金が1円でもよいというように、まさに、「なんでもOKの株式会社」ができあがるのである。元々はベンチャー企業用の会社形態で、1円企業も企業再編の自由も緊急時の時限立法のはずであった。それを一般化することによって、民法に近い会社法を作ってしまい、「株式会社とはもっともルーズな有限会社である」ことになってしまった。日本経済の社会的共通資本というべき会社法が徹底的に破壊され、法律条文に禁止事項として「書いていないことはやってよい」という「契約と所有といった古典的な民法理論に近い発想」になってしまった。その結果、「めちゃめちゃな交換比率で投資事業組合が株式交換」をするライブドア事件のような、財産の“収奪”が日常的に行われるような社会になると警告する。
2.株式会社の本質とは
会社がつぶれた場合、お金を出した出資者は債権者に対しどこまで責任をとるのかであるが、無限責任の場合には限度がなく、出資者が持っている全ての財産を債権者から差し押さえられる。だが、有限責任の場合には出資額の範囲内であり、自分の個人財産を切り離すことができる。債権者が路頭に迷おうが、出資者は知らん顔でいられる大変な特権がある。しかし、無限責任では危険すぎて大きな資本を集めることができない。有限責任にして、投資家個人=生身の人間(ヒト)との関係を切ったものが証券化=株式(モノ)である。ヒトとの関係を切ったモノはそれ自身で自由に売買でき、大きな資金を集めることができる。これが株式会社の利点である。他方、ヒトと切り離されたため投機の対象となり、暴走することになる。これが、株式の危険な側面である。したがって、「会社と証券市場という幸福と不幸が表裏一体となった取扱危険物を市民社会がどうやってコントロールするのかという問題」が浮上する。
米オハイオ州で11月中旬に、ドイツ銀行は、 地元の14世帯のサブプライム住宅ローンの借り手を相手に起こした裁判に敗訴した。銀行は以前、オハイオ州の金融機関が貸し出した無数のサブプライムローンを束ねて輪切りにした債券を購入したが、債券の価値が急落したため、もともとのローンの担保となっていた債務者の住宅を競売にかけて債権の一部を取り戻そうとした。裁判では住宅の担保権(抵当権)をドイツ銀行が持っていることを示す証書の提出を命じられたが、権利関係を証明できず、敗訴してしまったのである。銀行が買ったのは、オハイオ州の金融機関が融資した無数のローンを集めてミンチにした「挽き肉」であり、もともとのローンの貸し借りの担保権とは関係の切れた商品である(2007.12.5:田中宇)といった状態が生まれてくる。
そこで、相手の顔が見えないモノの関係で資金を集めようとする場合、一定の社会的ルールが必要となる。ルールによってようやく「予測可能性が確保される」。そのルールが「会社法」や「金融商品取引法」であり、上村氏の提唱する「公開株式会社法」などであるとする。
3.会社は株主のものか?
「会社は株主のもの」という理論がまかり通っているが、そこでいう株主とはグローバル市場においては欧米の金融資本・ヘッジファンドである。「会社は株主のものだ」という考え方は、「お金さえ持っていれば、借金する力さえあれば株主になることができる」・究極的にはマーケットで大量の資金を持っている者が主役だということに行き着く。結果としてヒト自身が「人間のつくったモノの世界に支配される」ことになる。たとえば、英ヘッジファンドのTCIは電力という我国の最重要な社会的共通資本を運営するJパワーの筆頭株主となり、Jパワーに大幅な増配の要求を突きつけているが(日経:2007.12.5)、会社が生み出す価値を体で感じることができない金融資本やファンドは株価を1円でも高く、配当を1円でも多くということにしか関心を抱かない。しかし、「会社はステークホルダーのものである」・従業員、顧客、取引先といった生身の人間・地域社会のものであるという考え方こそ重視されるべきものである。
契約自由に任せておくと最適な状態が生まれるというのは空理空論であり、市民社会の規範意識などといった視点には関心が払われない。アメリカでは経済活動は自由放任だといわれるが、筆者はそうではないという。「アメリカは連邦会社法を持たない珍しい国です。会社法は各州にあります。…それぞれの州政府は雇用や地域社会の問題に対してひじょうに敏感で、各州には外部から州内企業を守るための反テークオーバー法があります。…日本からみれば明らかに『ダブルスタンダード』ですが、このように、自国の国益や企業をしたたかに守りながら、攻めるときは資本の論理を駆使していくのがアメリカの姿」であると上村氏は明確に述べている。こうした事実を我々日本人は知らされていない。法律を作った当時の小泉首相も経済産業省も市場経済論者も、また、その経済理論に影響された法律家や現在の政府の審議会のメンバーもマスコミも意識的に隠し通したのである。その結果、ルールのないところで自由だけが拡大し「ステークホルダーの大半を占める日本人を犠牲にして、グローバルな無国籍な資本に貢献する…日本人はよく理屈もわからないのに、じつにお人好しのグローバル優先人種になっている…日本の企業は外国人に貢献することを目的とする企業なって」いくのである。「株主が誰だかわからない株式会社というのはありえない…匿名でかつ支配に影響をもちうるようなのは単なる投資ではありません…おカネを借りられたから株を買えたという事実だけで、せいぜい数十人の人間が数千万の人間を支配できる。こういう構図こそまさに企業と市場と市民社会という観点からいえば、日本人が懸命になって戦わなければならない」ことなのである。
サブプライム問題で金融資本の危機がいよいよ深まり、12月6日、米ブッシュ政権は、「小さな政府」を信奉する共和党の反対を押し切り、住宅ローン金利の5年間の凍結という“徳政令”を出し危機の沈静化に懸命となっているが、本書は「会社法」の改正という法理論から金融資本の実態に迫ろうとする好著であり、是非一読を進めたい。
【出典】 アサート No.361 2007年12月15日