【本の紹介】高橋哲哉著「靖国問題」(ちくま新書 2005年4月)

【本の紹介】高橋哲哉著「靖国問題」(ちくま新書 2005年4月)

 日中韓をめぐって、焦点の一つとなっているのが、「靖国神社」問題である。本書は、この靖国問題を「感情の問題」「歴史認識の問題」「宗教の問題」「文化の問題」「国立追悼施設の問題」に切り分けて、靖国神社そのものの本質、そしてこれらの「戦死者追悼施設」そのものが持つ政治との関係を明らかにする。大変明快な内容となっている。

 著者は、まず「感情の問題」から解き明かそうとする。
 「靖国神社は、大日本帝国の軍国主義の支柱であった。たしかにそうなのだが、この問題のポイントの一つは、靖国信仰がかつての日本人を「軍国主義者」にしたかどうか、というレベルにおいてだけではなく、より深層において、当時の日本人の生と死そのものの意味を吸収し尽くす機能をもっていた点にあるのではないか、と私は思う。」と著者は述べている。
 出征し、天皇のために戦死した夫、子供をもつ「靖国の母」達の、悲壮なまでの靖国信仰発言と、日本に植民地化され、皇軍に徴用され戦死した台湾の人々が「靖国神社に合祀されている」事を知った台湾の人々の感情。靖国を巡る国内外の感情の有様を明らかにしつつ、著者は、戦前は国家宗教としての靖国神社とその儀式が、戦死を悲しむのではなく、「天皇に捧げた命」という方向に導き、「靖国の妻」「靖国の母」「靖国の遺児」など国民全体の生と死の意味を吸収しつくす機能をもっていたことを明らかにしていく。「感情の錬金術」として、戦争執行国家の不可欠な機能を果たしてきたわけである。
 靖国の発端は、日清戦争・台湾征討における膨大な戦死者への顕彰から始まっている。凱旋した将校・兵士には名誉が与えられたが、戦死した兵士に対してどうのように処するべきか。1895年11月の「時事新報」に掲載された「戦死者の大祭典を挙行す可し」と言う論説のなかに著者はその答えを見出すのである。
 日清戦争の戦死者1万3619人、「台湾征討」1130人に対して、国家的名誉を与え、明治天皇による祭典を挙行すれば、「名誉の戦死」に続く兵士を確保できる。そうでなければ、引き続くであろう戦争に軍隊を送りつづけることができない、というのである。
 天皇のための戦争を継続するためにこそ、国家装置としての靖国神社の祭典が必要とされたのであった。死を悲しみから切り離し、名誉とするための装置として。
 
 つぎに、著者は「歴史認識の問題」について展開する。
 戦死者を追悼する場合、その戦争の性格をどう理解するのかという問題を抜きに語れない。「国のために斃れた」とは言え、他国に侵略し、蹂躙し、戦闘員を一般市民を殺戮した戦争責任について、歴史認識の問題が現れるのである。
 特に、中国韓国が、A級戦犯を合祀している靖国を首相が参拝することを強く非難している問題である。
 ただ、著者はA級戦犯合祀問題を中心に据えることは、逆に靖国問題を矮小化させる危険性があると警鐘を鳴らしておられる。
 A級戦犯として、東条英機元首相はじめ14名が、靖国神社に合祀されたのは1978年10月である。BC級戦犯として刑死した1000名以上は、1970年までに合祀を終えていた。国際的批判はまだ起きていない。そして1985年戦後政治の総決算を掲げる中曽根首相が「公式参拝」を行った時点で、中国政府は、「公式参拝は、日本の侵略戦争を正当化するもの」と強く反発し、政治問題化してくる。
 戦争遂行者としての兵士については、日本軍国主義者の犠牲になった人民として捉え、戦争責任者としてのA級戦犯の合祀についてのみ言及するという中国政府の姿勢について、著者は、あらかじめ「政治的妥協」を前提としたものであって、それならば合祀を止め、分祀すれば事は済むというような論調に対して批判されている。
 「私が強調したいのは、A級戦犯分祀論は靖国神社問題における歴史認識を深化させるものではなく、むしろその反対にその深化を妨げるものだということである。・・・今仮にA級戦犯が分祀されたとしてみよう。そのとき何が起こるだろうか。・・・日本の首相が公式参拝する・・・そして次にA級戦犯合祀が公になってから今日まで途絶えている天皇の「御親拝」が復活する。・・・」A級戦犯をスケープゴートにして戦争責任論が東京裁判とおなじように曖昧にされていくであろうと。
 さらに、靖国が日本帝国主義の植民地支配のための戦争に斃れた軍人を「英霊」としてきた歴史そのものも明らかにされる。靖国神社に合祀されているのは、明治維新7,751柱にはじまり大東亜戦争2,133,915柱まで合計2,466,532柱であるが、(靖国が公表している戦争名、数字)1935年9月20日発行の「靖国神社忠魂史」全5巻によれば、「そこに靖国神社の戦争のもう一つの歴史が、つまり日中戦争とアジア太平洋戦争以前の無数の戦争の歴史が、それらをすべて「聖戦」とする靖国神社の立場から記述されているからである。・・・『靖国神社忠魂史』全5巻は、植民地支配のための日本の戦争を栄光の戦争として顕彰し、靖国神社の「英霊」たちを、植民地帝国確立のための「尊い犠牲」として顕彰している点で貴重な資料である。」と。
 続いて、著者は、憲法の政教分離条項に関連して「宗教の問題」を、そして、死者を追悼することを日本文化の問題だとする論調に対して「文化の問題」を取り上げ、最後に靖国問題の「解決策」として提起されている、靖国に替わる「国立追悼施設」について、「国立追悼施設の問題」を展開される。紙面の関係で、詳しい紹介はできないが、新たな国立追悼施設を造ったとしても、「第2の靖国化」の危険性を否定できない。自衛隊が海外での活動を行い、「国のために」斃れた場合、またしても同じ問題が生起して来るのである。国のために斃れた兵士(一般市民も含まれる可能性はあるが)を追悼し、天皇が、首相が儀式に参加していけば、第2の靖国になっていく。
 こうして靖国をめぐる歴史、国内外の感情問題などを分析して、分祀問題・国立追悼施設問題について、著者の結論とされるのは「・・・決定的なことは、施設そのものではなく施設を利用する政治であることにほかならない。・・国の政治にとりこまれ、「靖国化」することがありうることを忘れてはならない」と。
 そして、おわりの項では、靖国問題の解決として、「政教分離の徹底、国家機関としての靖国神社の廃止、天皇・首相の参拝など国家と神社との関係性を絶つ」「合祀取り下げを求める遺族の要求に靖国神社が応じること」これが、実現すれば
靖国は、「そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る一宗教法人として存続することになるだろう」と。
 本書は、2005年4月に初版が出ているが、私が手にした時は、既に7版、直近では9版になっており、話題の本となっている。思想の問題として靖国を解明するものとして、是非一読をお勧めしたい。(佐野秀夫)

 【出典】 アサート No.332 2005年7月23日

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