【本の紹介】『宮本常一という世界』

【本の紹介】『宮本常一という世界』
       佐田尾信作著、みずのわ出版、2004/1/30発行、3000円+税

<<もちはなぜまるいか>>
 宮本常一という人については、初めてこの本を通じて知らされた。しかし何かのある懐かしさを感じてもいた。それが何かがよくわからぬままに読み始めてすぐに気づいたのは、すでに故人となって久しくなってしまった志賀義雄氏の『もちはなぜまるいか』という著作を思い出したからである。戦前の軍国主義下の十八年の獄中生活を経て、戦後再建、再刊された日本共産党の機関紙アカハタに、志賀さんは1947年1月から「もちはなぜまるいか」を連載し始めた。「科学の新しい発展のために」という副題のついたはしがきの中で、「もちはなぜまるいか」そんなことはどうだっていい、闘争には関係ないという人が、元旦にもちを食わなければ、まだしもつじつまがあっている。またそのもちくいを迷信だと労働者を説得しても、だれもそれにしたがわない事実に当面したら、なぜかを考えるとよろしい。むろんわれわれすべてが民俗学の研究にうつつをぬかす必要はない。おのおのその努力に応じてするしごとは多いからだ。だがそうした研究の成果を活用するだけの心がけは必要だ。・・・と書いている。志賀さんの側で仕事をし、ともに生活をしていた時期、毎月のように柳田国男と折口信夫の著作を買い込んでいた志賀さんの姿が彷彿としてよみがえってきたのである。

<<柳田民俗学>>
 志賀さんはこの著作の中で、「柳田氏はその専門が、日本の天皇制にとって、もっとも致命的な領域にわたっていた。それは日本人民の日常生活の歴史的現実性を対象とするものであるから、その現実性が明らかにされればされるほど、天皇制の神的支配の秘密が暴露される。だが革命的核心を神秘的形態につつんだ弁証法をドイツにはやらさせたヘーゲルがプロシャ国立大学の哲学教授としてホーエンツォルレルンの神権をまもる最良のイデオロ-グと思われたように、農林省の勅任官から貴族院の書記官長となり、退官後は日本の民俗学の組織者として、天皇主義者から自由主義的俗物まで、官学からディレッタントにいたるまでの尊敬と愛読の的となってきた柳田国男氏も、その学問の対象の内的必然性から、革命的核心を神秘的形態でつつんでいたのだからおもしろい。そしてまのぬけた天皇主義者は津田左右吉博士を目のかたきにしたが、津田博士とほぼおなじときにその労作をつぎつぎに発表していた柳田氏の方がはるかに「危険思想」へみちびく研究を進めていたのだ。だが天皇主義者は柳田民俗学の神秘的形態にくらまされて、まるでそれが天皇制の永遠化を証明してくれるものであるかのようにおもいこんだ。」と指摘している。実に核心をついているといえよう。

<<『宮本常一の伝説』>>
 この機会にもう少し宮本常一という人をよく知ろうと、『宮本常一の伝説』(さなだゆきたか著、阿吽社、02/8/15発行)を読むと、はたして「橋川文三は柳田国男のもとに出入りしたマルクス主義者として、志賀義雄・中野重治・浅野晃・水野成夫・石田英一郎などの名前を上げている。そして柳田の『昔話と文学』・『木綿以前の事』などが「民俗学になじみのうすい一般読者層にもひろく読まれ、青年・学生層の間にファンというべきもの」が生まれていた、と語っている。また、その理由として二点を指摘している。第一は「社会科学的なものが権力によって抑圧されたのち、観念的な歴史学の横行するのに反感をいだいた人々にとって、その文学的なかおりと実証的な調査との魅力が、ある心の安らい場所となった」こと、第二は「フォークロアが、そのブルジョア的起源にもかかわらず、やはり十九世紀の実証科学としての本質を失わず、民衆の生活実態に対する関心を保持していた」ことであるという。」という記述に出くわした。やはりそうだったのか、なるほどとうなずけるのではあるが、いくつかの気にかかることもこの『宮本常一の伝説』では明らかにされている。
 その一つは、「柳田が戦争に、好意的ではないが、しだいに協力していった」という現実、そしてその門下生や協力者が、西洋文化に対する日本回帰的、ナショナリズム的な方向を強め、戦争協力へと傾斜し、とりわけ共産党からの転向者といわれる人々が大東亜民俗学からナチス民俗学へ傾倒し、宮本常一氏もその時代の波に翻弄されざるを得なかったということである。

<<国分一太郎氏のこと>>
 もう一つは、志賀義雄氏とともに、核実験停止条約に反対するような日本共産党の独善的でセクト主義的な態度を批判して除名された国分一太郎氏について、戦前のあの時代に宮本常一氏が言及していることも初めて知ったことである。国分さんは何度かお会いし、その人柄のにじむお話も聞いたことがあるだけに思わずほっとさせられたのである。というのは、国分氏は戦前の生活綴り方運動を代表する人物であり、国分氏にとっては宮本氏が属する「垣内・芦田の線は、ぼくたち山形県に住むものにとっては、思想善導のためにしかれた権力者の旗じるしのようなものであった」のであり、「ぼくたちの生活綴方運動は、しだいに警戒と弾圧を加えられていった。山形県は、小学校教師が「中央公論」・「改造」などを読むことも禁止した。」という状況であった。宮本常一氏はそうした状況の中で「かつて生活派の綴方盛なりし頃我々の心をうった作品は東北に多かった。それは子供として、波荒い世を生き抜こうとする姿であった。宮城の仲間、今いづこ、秋田の仲間今いづこ、独り山形の国分一太郎氏の精進が、関西の我々の眼にも入る。派とか主義とかを越えて、只管に精進する者に対しては、お互尊敬してよいのではないかと思ふ。」 (「東北雪の旅日記」)と述べているのである。

<<生活者の視点>>
 宮本常一氏の民俗学が独自のスタイルを持ち、宮本民俗学と称されるゆえんについて、先ごろ亡くなられたばかりである網野善彦(神奈川大学教授/日本中世史)氏は、宮本常一氏の名著『忘れられた日本人』岩波文庫版の解説で、「多少とも『中央的』な権威の匂いのする既製の民俗学に抗して、泥にまみれた庶民の生活そのものの中に、人の生きる明るさ、たくましさをとらえようとする自らの『民俗学への道』」に自信を固め、「そうした野心的な宮本氏の歩みのなかで書かれた」と述べている。それは言い換えるならば、宮本民俗学の原点にあるのは、資料・文献を中心とした分析学的視点よりも、「旅を愛し」、「家へ村へ役立つ」、生活者の視点に重きをおくという立場でもあろう。
 佐田尾氏の『宮本常一という世界』は、まさにその点で出色であり、現実に存在し、生き続けている日本全国の「宮本常一という世界」を生き生きと活写し、問題を投げかけてくれる。宮本常一が対馬に残したメッセージに始まり、「周防猿まわしの会」に至る実に楽しく意義ある旅を提供してくれる。
(生駒 敬) 

 【出典】 アサート No.319 2004年6月26日

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