【書評】 『父さんのからだを返して–父親を骨格標本にされたエスキモーの少年』
(ケン・ハーパー著、鈴木主税・小田切勝子訳、2001.8.20.発行、早川書房、2,500円)
題名からして少々センセーショナルな物語であるが、原題もこの通りである。ただ副題に「ミニックの生涯、ニューヨークのエスキモー」とある。
ミニック・ウォレスは、北極探検家ロバート・ピアリーが1897年にニューヨークに連れてきた北極エスキモー(現在ではイヌイットと呼ばれることが多い)6人のうちの最年少の少年であった。
さて探検家ピアリーは、何故北極エスキモーをニューヨークに連れてきたのであろうか。これについて本書は、こう推測する。
「ピアリーは、科学的な人間であることを自慢にしていた。著書や講演ではよく、北極探検は科学の探究だと述べている。北へ遠征するたびに科学的な標本を持ち帰り、その多くは、しばしば回り道をして、アメリカ自然史博物館にたどりついた。おそらく、この6人のエスキモーも、それまでにピアリーが収集した頭蓋骨や人骨と同じように、ただの標本だったのだ。しかも、まだ血管に血が流れているのだから、さらに興味をそそるものだったろう」。
さらに「ピアリーは、名前を知っているほかのエスキモーの遺体にも不健全な親近感を抱いていた」。つまり「ピアリーは、1896年に、前年の冬に伝染病で死んだエスキモーたち(中略)の頭蓋骨や遺体をせっせと墓から掘り出して、遺体をニューヨークへ運んだ」というのである。
これに付け加えるならば、このような標本、特に生きたエスキモーの連れ帰りについては、博物館の一人の人類学者(フランツ・ボアズ)博士がピアリーに吹き込んだようである。またわれわれは、探検家ピアリーの位置・姿勢と自然史博物館およびそのパトロンであるМ.K.ジェソップ──彼はまた「ピアリー北極クラブ」の会長でもあった──との関係を理解するであろう。すなわちピアリーは探検を続けていくためには、パトロンの援助に頼らざるを得ず、その歓心をかうためにさまざまな標本(もちろん輸入税は課せられていない)を持ち帰っていたのである。これらの標本は、世間的にはピアリーから博物館へ無償で寄贈され、資料とされたが、実際にはこれらの多くは、その後「ピアリー北極クラブ」に放出された。このような仕組みの中で、6人のエスキモーたちも連れてこられたのである。そして環境の激変の中で4人が病死した後(一人は後に帰郷している)、彼らの脳が取り出され、解剖が行なわれ、自然史博物館の骨学部門へと運ばれた。さらにミニックの父キスクの骨格が標本としてガラスケースの中に展示されることとなった。
当時19世紀末の人類学は、科学としてはまだ出発したばかりの時期で、昔の骨相学の痕跡をとどめていた。このため世界中の人間の頭蓋骨や骸骨の収集・測定比較が主な仕事であると考えられていた。しかもそこには人種差別と性差別という偏見が抜きがたく根差しており、この視点からエスキモーも研究されたのである。
「彼らは、世間一般の人々と同様、人類学者であっても、男性は女性よりもすぐれていて、白人は黒人よりもすぐれているときめつけていた。エスキモーは科学者のあいだにも強い関心を呼び起こしたが、それは彼らが世界中で最も厳しい環境の中でなんとか暮らしを立て、同時に豊かな文化をはぐくんでいたからである。エスキモーは、注目に値するが、白人ではなかった。そしてその事実だけで、彼らもやはり劣ったものとして位置づけられたのである」。
さらにこれら科学者たちの姿勢を端的に示す事実としては、キスクが死んだとき(1898年)に、「ミニックのために、偽の葬式」が計画・実行されたということであろう。この件について本書は、こう記している。
1909年、当時コロンビア大学の人類学部に所属していた「ボアズの主張によれば、埋葬の目的は、『少年をなだめること、父親の死体が切り刻まれ、その骨が博物館の収蔵物に加えられていることに少年が気づかないようにすること』だった」と。
つまりこの一件は、意識的なものにせよ無意識的なものにせよ、これにかかわった人々の放漫さを表わしている。
しかしキスクの骨格標本の件は、約10年後に若者になったミニックが父親の葬式の真実を知ったとき、大きな問題を引き起こすことになる。すなわち1907年にニューヨークの《ワールド》紙の特集板が、「父さんのからだを返して」という見出しとともに、この件を掲載して、ミニックの父親の遺体の返還を求めた。また続いて《ワシントン・ポスト》紙もこの件を報じた。しかし自然史博物館は言葉を濁し、諸般の政治的事情も絡んで、結局この件はうやむやのうちに、その後100年近くも放置されることになった。
その後ミニックは、絶望のまま一時グリーンランドに帰郷したこともあったが、再度アメリカにまいもどり、最後はニューハンプシャー州ピッツバーグ(当時は木材の町として成り立ちはじめの辺境の地であった)で木材伐採夫として労働中に、スペイン風邪で死亡し、その地のインディアン共同墓地に埋葬された(1918年)。
本書は、ミニックに焦点を合わせて、近代アメリカ極北部の探検の模様とその当時の自然科学者たちの姿勢を描いたものであり、ミミックの比較的短い人生にかかわった諸問題・諸個人は、はからずもアメリカ社会の近代を裏側から映し出す鏡となっている。しかし著者の「あとがき」によれば、「1986年にこの本が最初に出版されたとき、アメリカ自然史博物館は困惑した」。というのも「ミニックやキスクと仲間のエスキモー遺体をどんなふうに扱ったかを長年にわたってうまく隠してきたのだが、問題の出来事から一世紀近くたったいまになって、その一件が再び博物館を悩ませはじめた」からである。「だが、世間の関心は薄れ、キスクの骨はその後も受けいれ番号99/3610として、(中略)博物館のケースに横たわっていた。父親の骨を博物館から取り戻してきちんと埋葬してやりたいというミニックの願いは実現しなかったのだ」。そして「博物館は、この唾棄すべき一件とのかかわりを否定するために、必要とあらば嘘をつきつづけていた」。
しかしその後、1990年にアメリカ先住民の墓および埋葬に関する法律が成立し、1992年に本書が2人の新聞記者によって「再発見」される時期になると、事情は変わった。そしてようやく1993年になって、キスクと他のエスキモーの遺体は、博物館から出されて、グリーンランドの埋葬されたのである。
以上のように本書は、近代社会・近代科学の波に巻き込まれた北極エスキモーの状況を伝えてくれる。これによってわれわれは、「近代社会」が「科学の研究」のためであるとしてきた事柄の身勝手さと高慢さの一部を垣間見ることができるであろう。しかしこの身勝手さと高慢さが現在のわれわれ自身には無縁であるとして否定できないところに、近代社会の構造の問題があるように思われる。
本書にはドキュメントとしてはやや無駄な部分も散見されるが、近代社会・近代科学の視点そのものが問いなおされている時代にあって、人類学という舞台で繰り広げられた「科学」の意味を象徴的に問うている。(R)
【出典】 アサート No.229 2002年10月26日