【書評】「憎まれるアメリカの正義-イスラム原理主義の闘い」

【書評】「憎まれるアメリカの正義-イスラム原理主義の闘い」
                     (小山茂樹・立花亨 講談社+α新書)

 このところ米国では、9・11テロの情報を政府が事前に知っていたのではないかという疑いで、ブッシュ大統領が改めてやり玉にあがっている。
 今回のテロは、いくつかの際だった特徴のために、全世界に衝撃を与えたが、オスロ合意が何たるかも知らずに「派兵」を決断した小泉首相の危うさは論外としても、一般には中東問題の正確な理解はすすんでいないのではないだろうか。
 本書は、中東問題の専門家である著者が、今回のテロとその背景としての中東問題について「しっかりとした分析と本格的な読み物を提供する必要」を感じて著した本で、センセーショナルなタイトルとは裏腹に、じれったいくらい時代考証にページを割き、つとめて冷静に今回のテロの背景を探ろうとする姿勢がみられる点で、大変好感を持てた。
 私は「テロとの戦争」の美名の下で実行されたアフガニスタンへの軍事行動については、納得しがたいのだが、著者は国際社会と周辺関係諸国が米国の軍事行動を何故黙認し、協力するにいたったかについて、以下の点を指摘している。
 第1に、何千という民間人を「一瞬にして問答無用の死へと導いたテロの特異性」の下で、「ブッシュ政権に疑問を呈することすら許さない状況」があったこと。第2に、「国内に反政府勢力との武力紛争を抱える国」にとっては「反テロ連合への参加は、対内的な弾圧姿勢を正当化する契機と認識されたこと」第3に、「武力行使に躊躇を捨てた唯一の超大国に対する怖れと遠慮」が蔓延していることである。
 この指摘にも端的に表れているように、「テロとの戦争」を国際社会が追認したのは、小泉首相が力説するような「テロの根絶」という人道主義の立場からみて、反論の余地がない要求に従ったというわけではなく、この「新しい戦争」の中に、「テロを手段に体制への攻撃を繰り返す勢力に対し、権力の側が軍事力をも動員して鎮圧に当たるという構図」を見い出したという、冷徹な国際政治の現実があったというのが実態ではないか。
 さらに、著者は、この「新しい戦争」は単に、かつて「国を単位に戦われていた植民地戦争が米国の政治経済的な突出という状況下、国境を越える規模に拡大された」にすぎず、「米国を頂点とする世界の疑似植民地的構造を浮き彫りにしている」と指摘する。
 ブッシュ大統領は、当初この軍事作戦を「無限の正義」と名付け、世界からひんしゅくをかい、イランの穏健派、ハタミ大統領はこれについて「力を持つ人間は傲慢になり、自ら善と悪を区別することができると思ってしまう」と述べた。そもそも、「テロとの戦争」については、テロの定義そのものがむずかしく、米国自身、80年代のニカラグア反政府勢力へのテコ入れのため、国連の反テロ決議(87年)に「自決と自由、独立の権利」は「テロとの戦い」と矛盾しないとして、イスラエルと共に反対している。
 著者は、中東問題についても折りにふれて発揮された、こうした米国の二重基準=ダブルスタンダードが、結果として湾岸戦争を誘発し、中東和平を暗礁に乗り上げさせ、米国へのアラブ、イスラム世界の憎悪をかきたてているのではないかと考察する。
「最終的には軍事力を頼りに、問題を自国に有利な方向に持っていくことができる米国は、他国との調整や協力のなかで国際的な正義を模索する姿勢が欠如している」のではないか。「アフガニスタンへの軍事行動に関しては、この点が一層際だっていたように思われる。そうした点に起因する米国への不信と怒りが、とりわけ中東のイスラム諸国でビンラディンの行為を支持するような動きを生じさせた」
 そもそも「テロとの戦争」は、議論の余地のない「正戦」なのであろうか。この点についても、著者は国際基督教大学の最上敏樹教授の正戦と無差別戦争観についての論(『人道的介入-正義の武力行使はあるか』岩波書店)を紹介しつつ、踏み込んで考察する。
「20世紀に発生した二つの世界大戦は技術的進歩にともなう人的、物的被害の飛躍的拡大をもたらし、以後、自衛のための戦争を例外として、国家による戦争を否定する」に至ったが、皮肉にもそのことが「戦争という行為にまつわる複雑性や曖昧性を無視し・・・、自衛以外の戦争を国家に禁ずることによって・・・自衛目的を唱えることにより、真の動機を隠して戦争を仕掛けることも可能となった」
 本書が明らかにしているように、アフガニスタンの内包していた各部族間の軋轢とそれを支援する周辺国の利害関係にしても、中東におけるアラブ諸国、イスラム原理主義勢力、イスラエル間の紛争の歴史とそれに関わる米国などの利害関係にしても、単純に「無限の正義」だの「米国かテロか」だのといった絶対的正義や2者択一ではすまされるはずのない、「複雑性や曖昧性」を有していることは明らかである。
「すべてに明確な勝利を追求するとき、アフガニスタンにおける対ソ勝利の代償がオサマ・ビンラディンであったのと同様、我々は必要のない敵を生み出してしまうのではないか。(「テロリズム-強者の兵器」マサチューセッツ工科大学のノーム・チョムスキー教授)」
「米国かテロか、中立の立場はない」と二元論をふりかざし、自らビンラディンが設定した「イスラムと米十字軍の戦い」という「文明の衝突」の枠組みを受け入れてしまったブッシュ政権は、「テロに対する文明の勝利」の代償として、再び高いツケを支払うことにはならないか。
 正義を行うとはどういうことか。その答えはやはり複雑なものにならざるを得ないのである。(遠藤 誠) 

 【出典】 アサート No.294 2002年5月25日

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