【書評】『カルチュラル・スタディーズへの招待』
(本橋哲也著、2002.2.20.発行、大修館書店、2300円)
「カルチュラル・スタディーズ」(文化研究)と「スタディ・オヴ・カルチャー」(文化の研究)はどう異なるのか。本書は、この問いより始まる。そしてその答えは、次のように語られる。
「〈文化の研究〉と言ったときに前提とされるのは、そこで対象とされている文化が、文学や芸術のようないわゆる『高級文化』ないしは『支配的文化』であろうと、あるいはマスメディアやマンガ(中略)といった『サブカルチャー』あるいは『抵抗的文化』であろうと、文化をある本質的な、あらかじめ与えられた実体としてほかの『非文化的なもの』と区別して想定する態度ではないだろうか?」
「ところが、それに対して〈カルチュラル・スタディーズ=文化研究〉の根本にあるのは、文化を特定の歴史や社会状況における構築物としてとらえる問題意識である。つまりそこで焦点となるのは政治性、言い換えれば、異なる権力関係のなかでいかにして、ある〈文化〉が〈非文化〉を排除し、〈自己〉が〈他者〉を周辺化して、2つのあいだに境界線を引いていくかの過程なのだ」。
ここに見られるように、カルチュラル・スタディーズとは、さまざまな文化の探究ではなく、文化が形成される過程そのものを対象とし、そこにおける権力構造の存在を問題とする。それは、現在のところ世界を席巻し、余りにも当然のこととして考えられている近代社会(ヨーロッパ近代社会)の原理をも一定の歴史状況において形成されてきたものと見なす。その構え(スタンス)は、①ひとつの独立した学問分野の形成を目指さない。むしろ「さまざまな議論の空間を結合し広げていく場ないし接点として」領域横断的、折衷的である。②言葉の持つ力への問いを重視する。すなわち「意味とはつねに特定のコンテクストに縛られ、特殊な言説の編成や発話の戦略に依存していることを重視する」。具体的には、「ある発言は、いったい誰がどんな場で、誰の利益や関心のために行い、それがどんな効果を持ち得ているのか、いないのか?」等々を検討する。③「『起源』や単一のアイデンティティを創造する『物語』に懐疑的である」。すなわち文化的意味の生産におけるテクスト性の役割に注目する。④知識人論として、広い社会的文化的コンテクストに根差す。そして「文化と、知識、意味を取りまく関係が、いかに発話の場の力関係と関係しているかにこだわる」。
以上のスタンスを一言で表わせば、カルチュラル・スタディーズは、「文化の政治学」を目指すということである。すなわち「広い意味での人間同士の権力関係」の分析がその目的であり、われわれにとって不可避な政治的力関係(それは国政から個人の立場にまでいたる)こそが問題にされねばならないのである。
このようなスタンスから、カルチュラル・スタディーズは、他者、言語、メディア、SF、都市、スポーツ、マンガ、性、民族、歴史等権力関係の存在するあらゆる領域、対象を探究する。そしてそれぞれに、われわれが日頃目にしているのとは全く異なる側面が存在していることを確認する。以下、二三検討してみよう。
「第1章、他者──文化の力学(岡真理「文化という抵抗、あるいは抵抗という文化」を読む)」では、ソマリアへの旅行エッセーを検討しつつ、その本質に迫る。
すなわちこのエッセーでは主な出来事として、女性の性器手術が取り上げられているが、これについて重要なことは、「当事者自身が語ることと、それについてわたしたちが解釈すること、その2つのあいだに横たわる差異」であり、「その差異こそが、政治であり、権力関係を生む」ということである。具体的には「『私たち』にとってアメリカ合衆国やフランスなどの『等身大の人間たち』と出会うことが、映画やテレビを通じてきわめて容易である一方で、『(略)私たちの理解可能な、多元的で真に人間的な存在としてのアフリカ人、あるいはアラブ人と私たちが出会う』ことが阻まれている」状況にわれわれが気付くかどうかということである。
換言すれば、われわれの日常(想像力)の構造が、上のようなアフリカ人像、アラブ人像との出会いを困難にしているとき、われわれの側では、彼らについて「無知の真空状態」が生じる。そしてこの状態が孕む危険の顕現、すなわち「それをいきなり引き起こすのが、たとえば『女性の性器切除』といった出来事である」。この結果としてわれわれに、アフリカ文化・アフリカの人々に対する暴力的で差別的なイメージが生み出されるのだ、との原著者の指摘に本書は同意する。
「著者(原著者のこと──引用者、以下同じ)がここで問うているのは、当事者は誰なのか、という問い、より正確には当事者と観察者との区分けを誰が決めているの
か、という問いかけでもある」。
「性器手術の暴力と、植民地主義やその延長線上にある文化否定の暴力と、どちらがより残酷で、野蛮であるのか、誰がいったいそんなことを決められるのか?──著者がするどく投げかけるのは、そうした問だ」。
ここから本書は、「文化を理解するとは、『私たち』自身が『当事者』になることによって、〈他者の文化〉にレッテルをはったり、評価したり、否定したりすることを拒否することではないのか?」と語り、このエッセーにおいては、「一枚岩的な、『植民地主義的な』文化の捉え方の問題点」が、批判されると結論付ける。
「それは〈良い文化〉と〈悪い文化〉──その良さ・悪さは、言うまでなく、それを決めるものにとっての、都合の良さ・悪さでしかない──との単純な二項対立とし
てしか文化を考えようとしない、知の怠惰、もっと言えば、政治を忘れた文化解釈の結果である」。というのも、「文化」と「暴力」は錯綜した要素を含んでいるからこそ、「人々の誇りとして、恥として、伝統として、歴史として生き延び、生き続けている」からである。
そしてそれ故にこそ、原著者の文化に対する姿勢が、「抑圧を批判し、同時にその同じ抑圧を生み出す力の源泉から、抵抗と解放の契機をつかみとること」を可能にする、と本書は指摘する。ただしこの場合でも、「注目すべきなのは、著者が、決して自分を、安全地帯に、高みに、外部に置いて、教え諭そうとすることなく、そうではなくて、自分に何ができるかを繰り返し問おうとし、私たちひとりひとりに問いてほしいと誘う、あくまで個に、パーソナルに徹しようとする姿勢である」。
一つの例の説明が長くなってしまったが、上の観点からの文化への探究が、例えば、「第8章、性──『弱者』への応答(田崎英明「思考の課題としての『慰安婦』〈問題〉」を読む)」では、「〈マイノリティ〉の発言をいかに聞くことができ
るか」という問題提起となり、「植民地支配のような特定の力関係によって規定された自己と他者、その問いかけと応答の力関係は均衡していない」との指摘になる。
このことは、〈マジョリティ〉であるわれわれの応答の可能性に対して、「圧倒的な力関係によって、被害者であることを余儀なくされている者たちは、そのような自由に応答する権利を奪われている」という構造を認識することにつながる。そしてここから、「このような応答の可能性における差異を、応答する責任の有無にどのように転換するのか」という核心の問題が出てくる。
同様の指摘は、「第9章、民族──断絶を超える掛け橋(徐京植「断絶」、『プリーモ・レーヴィへの旅』所収を読む)」にもあらわれる。
「『なぜ、どうして』という問い方の持つ暴力性。語ることのきわめて困難な受難と被害の体験を、なぜ被害者のほうが無知な傍観者に説明しなくてはならないのだろう?
説明責任を弱い立場にある他者に押しつけることで、自分の応答を避ける狡猾
さ」。
「『足を踏まれている者の痛みは、踏まれた者にしかわからない』というのは本当だろうが、問題はそのような発言が、誰によって誰に向かってされているかということだ」。
この問題に対する一つの回答は、「第10章、歴史──過去と未来の連接(高橋哲哉「『戦後責任』再考」を読む)」の「応答可能性」で提示される。
応答可能性(responsibility)とは、「他者からの呼びかけ、あるいは訴え、アピールがあったときに、それに応答する態勢にあること」を意味している。そして「私たちはそのような呼びかけに応えることもできれば、無視することもできるという意味では『自由』だが、いったん他者の呼びかけを聞いてしまえば、応えるか応えないかの選択を迫られることになる。その意味で私たちは、責任、すなわちレスポンシビリティ=応答可能性の内に置かれる」。
すなわち応答可能性が存在するからこそ、罪責としての戦争責任とともに、「応答可能性としての責任」として戦後責任が存在するのであり、さらに国境や国籍や社会的地位を超えての責任が発生せざるを得ないとされる。しかしこのことはまた、現在のわれわれに、過去が現在につながっていることの積極的な意義を確認させながら、他者である東アジアの人々との間に相互の信頼関係を作り出す契機ともなり得るのである。
カルチュラル・スタディーズは、以上のようなスタンスで、われわれ自身の生きる文化状況を分析する。そして、①「歴史の『一国史』から『世界史』への解放」、②「文化の本質主義からの解放」(文化を政治的権力関係、経済的生産関係という発生と受容の視点から理解する)、③「知識の学問領域的専門性からの解放」、④「理論を海外から輸入し、それを現地の実例で検証するという植民地主義的生産構造からの解放」という4つの問題系における解放を試みる。そしてこれは、われわれの「日常性」に直接関わる問題として取り上げられるのであり、「『平凡な日常』という『非政治』の神話を解体」し、「日常の政治性」への関心を呼び起こすものとなる。
本書は、このような意識と関心への入門書である。その領域が多岐にわたり、しかもそのそれぞれが深刻な問題を抱えていることが、初めての読者には重過ぎる嫌いもなしとしない。しかし現実の問題からの呼びかけにどう応えるかがカルチュラル・スタディーズ自身の問題提起である以上、やはり一読を薦めたい書である。(R)
【出典】 アサート No.294 2002年5月25日