【書評】『デジタルデバイドとは何か─コンセンサス・コミュニティをめざして』

【書評】『デジタルデバイドとは何か─コンセンサス・コミュニティをめざして』
             (木村忠正、2001.1.25.発行、岩波書店、2,000円)
 
 「工業化社会」から「脱工業化社会」への移行が言われて久しい。現代はその真っ只中にあるとされる。しかしそれとともに、さまざまな問題も指摘されており、「情報化」をめぐる議論は、技術進歩の面にとどまらず、社会的経済的な広がりを見せている。

 この中で注目されている「デジタルデバイド」(digital divide:情報格差)に焦点を合わせて、「情報化社会」の本質を解明しようとしたのが、本書である。「デジタルデバイド」という言葉は、99年7月の米財務省報告『ネットワークからこぼれ落ちる──デジタルデバイドを定義する』で提起され、2000年7月の九州・沖縄サミットでのいわゆる「IT憲章」で広く知られるようになったが、その内容については未だ明確な理解が行き渡っているとは言えない。

 そこで著者は、「デジタルデバイド」に関する議論をこうまとめる。
 「情報ネットワークへのアクセスを『もつ』『もたない』が、社会階層(国家)により大きく異なり(つまり『デジタルデバイド』が社会階層〈国家〉と密接にリンクしており)、しかも、そうした階層(国家)間の経済的格差、社会的格差が拡大する傾向にある」。

 しかしこの論理構成では、二つのレベルでの議論が混在しているとされ、さらに次のように区分される。すなわち「①世帯(個人)のアクセス手段(非)保有が一定の社会階層における(非)保有と密接に結びついているという個人レベルでの情報行動、消費行動の問題。②情報ネットワークの利活用が競争優位性をもたらし、経済的格差、社会的格差に結びつくという企業・組織・社会レベルでの産業経済活動の問題」である。

 これらに関して、前者は個人レベルの問題であり、後者は社会レベルの問題であって、これまでの財、サービス、産業経済活動では異なる水準とされてきた。しかしデジタルデバイド論では、これらが結び付けられている、と著者は指摘する。つまりデジタルデバイド論は「二枚舌」であり、「個人レベルにおける、情報ネットワーク利用と社会経済的属性の相関から、『情報エリート』ともよびうるような固定した既存の階層があることを措定し、それと企業・組織・社会レベルとの競争優位性に関する議論が接木されてしまうのである」。

 著者は、この「二枚舌」、「接木」が何故生じるかを問い、デジタルデバイド論には、狭義と広義の二つのものがあるとする。

 「狭義のデジタルデバイド」とは、情報ネットワークへのアクセスが制限されている社会集団に対しての環境整備、利用施策の問題であり、社会内での問題と南北間の問題に分かれる。そしてこの「狭義のデジタルデバイド」論が、これまでの産業社会で再生産されてきた枠組みを前提にしているのに対して、「広義のデジタルデバイド」は、高度成長期以降の高度消費社会を総体的に再編成していく過程で生み出されている情報ネットワークと、それが引き起こす経済的社会的格差を問題にする。

 そして著者は、日本社会で情報ネットワークへの対応のできていない深刻な現状から、後者のデジタルデバイドこそが問題にならねばならないとして、次のように強調する。

 「だとすれば、日本社会内での格差よりも、世界システムの総体的再編成における日本社会の相対的位置づけがむしろ問題だ。南北問題としてのデジタルデバイド(狭義の国際的デジタルデバイド)ではなく、世界システム再編成における日本社会が直面するデジタルデバイドの可能性を問わなければならない」。

 この問題を先行して経験したアメリカにおいては、企業組織についての考え方の変化(「コーポレイトガバナンス」〈企業統治〉)の概念が出てくるとともに、80年代には所得格差が拡大して、サービス産業の対象が垂直方向へと広く分散化した。この状況下に登場したのが「インターネット」で、そして「ネット隣接性」によりつながれたサイバースペースに価値を見出した人々が互いに付加価値を生み出しあい、IT産業の発展を促している。

デジタルデバイドの「二枚舌」の問題は、このような文脈で考えられねばならない。
 つまり「『ネットワーク原理』にもとづく『情報工業化』のゲームに参加し、付加価値を享受できるのは、産業国であろうが途上国であろうが、『ネットワーク隣接性』により互いに結び付けられた社会であろう。それとは対照的に、たとえ産業国内であっても、情報ネットワークに接続されず、ネットワーク隣接性をもたない社会は、社会経済的水準が相対的に低下していくことを甘んじて受け入れなければならない」。換言すれば、「世界システムにおける富=付加価値の産出と分配構造が『ワイヤード/アンワイヤード』(wired / unwired)によって再編成され、その意味における『デジタルデバイド』が現実にその姿を現わしつつある」のである。

 このような世界システムの岐路に直面して、それでは日本社会はどう進めばよいのか。しかしこの点で著者の懸念は一気に高まる。

 「現代日本社会の問題は、こうした『情報化社会』や『情報化社会における主体』についての洞察が深められ、繰り返し提起されているにも関わらず、変化を拒み続けているように思われる点である。それは産業構造の転換、ネットワークを利活用するための情報リテラシー育成、人材育成、教育の情報化(中略)など多岐にわたる」。

 「日本はたしかにITハードウェア産業では世界に冠たるものであるが、『ネットワーク隣接性』を構築し、人々が日用品として情報ネットワークに接するという点では、予想以上に世界の後塵を拝しているという事実を私たちは認識すべきだろう」。

 そして著者はこの状況の原因として、①日本社会の「現状に対する高い満足感」と「未来に対する悲観的予測」から生起する「変化を拒む社会心理」、②「再分配経済が相対的に低いという政治経済的構造要因とそれに伴う『わたしごと(私事)化』『パブリックなもの(公)に対する判断停止』という社会文化的態度の拡大」を指摘する。

 すなわち①については、各種のアンケート調査より、日本社会が「縮み社会」であることが示される。そして②については、「実は、日本社会が集合的というのは幻想であって、私たちは、再分配経済を大きくせず、これまで消費欲求産業を中核として発展してきたのではないだろうか」と問いかけ、「理念としての集合主義」と「実際の判断や行動としての利己主義」との「ねじれ」が、「公的なもの」という概念を消失させてきたとする。

 それ故ここからの脱出口は、「社会に対して私たちは共同出資者であり、リスクと利益を共有するという意味での集合主義を、理念ではなく実体として実現する」以外にはなく、著者は、その可能性を、情報ネットワークによる「共創社会(コンセンサス・コミュニティ)」の形成に見る。これは、社会学者エスピン・アンダーセンによる福祉国家の分類では「北欧型の社会システム」に近く、「個人を基本的な単位とし、育児から老後まで、社会全体が再分配経済で支えることにより、リスクと機会を共有する文化である」と特徴づけられる。つまり「高い付加価値を生み出す産業とそれを担う人材を育成し、互いに再配分経済に寄与することで、ケアサービス産業を中心としてイネイブル(enable)サービス産業(エネルギー、通信、医療、教育、公務、ITサービス業などの分野──引用者)を維持し、個々人が豊かで安心のある生活を送ることができるようにすることを社会的価値として共有」する社会である。「コンセンサス(consensus)」とは、「感覚・意識・意味(sense)」を「共有(con)」することであり、この社会を「共創社会(コンセンサス・コミュニティ)」と名づけるのである。

 そしてこのための方策として、デジタルデバイドの問題に関して日本社会で立ち遅れの目立つ「情報リテラシー育成」と「教育の情報化」があげられる。

 「情報リテラシー」とは、狭義では「情報通信器機操作能力」のことであるが、しかしこれのみにとどまるのではなく、「情報を取り扱う上での理解、さらには情報及び情報手段を主体的に選択、収集、活用、発信するための能力と意欲」といったものが含まれており、これらの開発が急がれるとされる。この視点からすれば、日本の情報ネットワーク環境は貧弱であり、著者は「その貧弱さは、インターネット接続に関して、『パソコン+モデム』と『i-mode系携帯電話』とが、『代替関係』として捉えられる傾向があることにも現われている」と指摘する。著者によれば、i-modeはポケベル文化の延長であり、「自己誇示する道具としてのファッション」に過ぎず、情報ネットワークがもたらす可能性、「ネットワーク隣接性」のもつ力とはほとんど無関係と見なされ、むしろ「情報リテラシー」「情報コミュニケーション能力」の育成という点では阻害要因になる可能性すらある。

 (なお付け加えれば、著者は、インターネットが一般利用者に使いづらいということを認めつつ、「しかし、テレビや電気スタンドのように、スィッチを押せばそれですむといった『情報家電』でなければダメだというのは極論ではないか」と反論する。そして自動車の運転技術取得と同様の事情が、情報リテラシーにも当てはまるのではないかとする。)
 また「教育の情報化」に関しては、現状の取り組みだけでは決定的に不十分であり、「情報ネットワークが日常的な学習・教育活動の一部になること」が重要とされる。すなわち「教育の情報化」とは「社会の情報化」と不可分であり、社会システム全体の問題との関係で考えられねばならない。

 以上本書は、デジタルデバイド問題が、世界システム再編成の重要な側面であることを指摘し、日本社会の状況を浮き上がらせるとともに、その原因を現代日本社会の「縮み」傾向に求めるユニークな日本文化論ともなっている。

 もちろん著者の分析の視点──「情報化」、インターネット社会のデジタルデバイド問題を車社会の成立になぞらえることの意味等──についての論議は必要であり、また「情報化」への対応の方策として提起されている「共創社会」(コンセンサス・コミュニティ)」については、これからの早急な検討を必要とするが、本書が提起した視点は、かなり重要な手がかりを与えるであろう。(R)

 【出典】 アサート No.292 2002年3月16日

カテゴリー: 書評, 書評R, 科学技術 パーマリンク