【書評】 『フェミニズムと科学/技術』

【書評】 『フェミニズムと科学/技術』
 (小川眞理子著、2001.11.5.発行、岩波書店──双書・科学/技術のゆくえ、2,100円)
 
『フェミニズムと科学/技術』という題名は、やや唐突な印象を与えるが、本書は、まさしく近代世界システムの原理をなす「科学」に切り込んだ書である。

 著者はまず、「事実に依拠する」が故に「客観的」で確実であると思われてきた科学知識が、1950年代末~60年代初めに登場した新科学哲学派によって大きく揺さぶられたことを指摘する。R.N.ハンスンのいう「事実の理論負荷性」(人間の観察には「裸の事実」はあり得ず、「事実はある理論的な枠組みの中で初めて捉えられる」)やT.クーンの「パラダイム」(ある時代の科学者共同体が共有する世界についての基礎概念)によって、科学の「客観性」や「合理性」は動揺し、科学実在論から科学の「社会構成主義(社会構築主義)」的な見方が確立した。すなわちこのことは、科学の卓越した客観性や価値中立性を後退させ、「自然という書物」は、誰が読者であるかによって解釈が変わる「自然というテクスト」に置き換えられ、「複数の可能な読解に対して開かれた」ものとなったことを意味する。

 「さまざまな解釈を待つテクストとなった自然は、ここにはじめてフェミニストの視点(中略)から科学知識を問い直す余地が生じる。過去において男性ばかりによってなされた自然というテクストの解読に、女性が参加することによって、また西欧以外の人々が参加することによって、何かが違うかもしれないという期待が抱かれたとしても不思議ではない。多くの人によって、テクストの読みは深められる」。

 そしてこの科学哲学の大変革期と重なるのが、第Ⅱ期フェミニズムである。第Ⅰ期フェミニズム(リベラル・フェミニズム──女性の法律的な権利の獲得を目指した20世紀初頭までの運動)とは異なって、20世紀後半の第Ⅱ期フェミニズムは、ラディカルな様相をもち、「男女の性的関係というきわめて個人的なことが実は政治的なことであるとし、家父長制を批判」する側面を有していた。この運動は大衆レベルへと拡大していったが、80年代にジェンダー(「社会的文化的に構築された性差」)という言葉が導入されることで、「生得的で生物学的な性差(セックス)だけでは掴みきれず納得できなかった問題に新しい理解を与えることになった」。つまりセックスの問題としてこれまで考えられてきた事柄の多くが、実はジェンダーであったことが明確に意識されるに至ったのである。

 かくしてジェンダーは、「個々の女性ではなく概念としての女性を考える道具となり」、これを分析の手段として科学知識の問い直しが可能となった。そして科学がジェンダー概念から決して自由ではないことが論議されはじめたのである。

 著者はこの視点から、「なにゆえ女性科学者は少数か」あるいは別の表現を用いれば「なにゆえ女性科学者はメインストリーム(mainstreamは malestreamだともいわれる)にならなかったのか」を問う。そして女性科学者の場合、優れた科学者である前に、女性というアイデンティティを確立しておく必要のある「ダブルスタンダード」が問題となると指摘する。ノーベル賞を受賞した女性科学者でさえ、「彼女は料理し、掃除し、ノーベル賞をとった」という新聞の見出しで報道されるように、世界的な科学研究のみならず女らしい仕事での有能さが強調されるのである。しかもそのような女性科学者も、ごく近年まで権威ある学会から排斥されてきたという事実も存在する。(例えばフランス科学アカデミーは1911年、キュリー夫人の入会を拒否したが、彼女は翌年に2度目のノーベル賞を受賞している。同アカデミーは1979年になってはじめて女性の正会員を認めた。)

 そして日本の女性科学者の分析を踏まえて、女性研究者の増加のためには、女性を排斥して形成されてきた現行の科学システム=「女性の側に独身男性並になることを強いる」システムの改革が不可欠であり、「制度の中で子育ても介護も支援して女性科学者を男性の対等なパートナーとして育て上げる意気込みを持たなければ、日本の科学/技術に期待することはできないだろう」と強調する。

 以上の指摘は的確であるが、著者はさらに「科学に貼り付いている男性性というジェンダー」について検討する。その中で「科学的思考=男性的」という広く信じられている図式は、「科学=ヒロイズム=男性的」の図式に由来するという説を紹介する。また「ケプラー、ベーコン、ガリレオ、ボイル、ニュートンといった人物によって彩られる目覚しい科学革命の時代、すなわち理性の輝かしい勝利の時代が、その一方で激しい魔女裁判の嵐が吹き荒れた時代でもあった」ことに注目し、次のように述べる。

 「このような状況にあって科学と魔女裁判が深いところで繋がっていないはずはなく、男性科学者による徹底的な自然の探求と征服は、男性による女性の懐柔・征服と軌を一にするものであり、そこから著しく逸脱した女性は魔女として糾弾されることになった。また実験科学においては『女としての自然』を詳しく調べることは、自然を拷問にかけて秘密を白状させることに例えられ、魔女裁判における審問と平行して考えられていた」。

 このように自然探求という行為が、近代において「積極的で攻撃的な実験的探求へと変化し」、男性性というジェンダーが貼り付けられてきたとする。著者は、この具体的な例を18世紀の動物学と解剖学を通して明らかにし、「科学者が何を研究テーマに選ぶかは重要な問題であり、これは誰が科学をするかということと深く関係している。研究者が男性であれ女性であれ真理の探求には変わりがないというほどことは単純ではない」と指摘する。

 ここにおいて近代科学は、その枠組み自体を再検討せざるを得ない時代に突入したのであり、フェミニズムと科学、ジェンダーと科学の問題は今後大きな課題として取り組まれる必要がある。本書はそのための入門書として適しており、この中で紹介されているエピソードや諸文献も有用である。(R) 

 【出典】 アサート No.290 2002年1月26日

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