【書評】『多文化主義社会の到来』
(関根政美著、2000.4.25.発行、朝日新聞社、1200円)
グローバリゼーションがありふれた名詞となり、またこれに対応して国内では、多文化社会化・多民族社会化が促進されていることは否定できぬ事実のようである。しかし他方、全世界的な規模で民族間のあつれき、紛争も激発し、国内においては、多文化社会の限界が絶えず問われていることも事実である。本書はこの、グローバリゼーションと多文化社会化との関係(「グローバリゼーションは、各地域、各国間の共通性を高めると同時に異質性をも強める複雑な社会変動を引き起こす」)、限界と問題点を、解明しようとする。
グローバリゼーションとは多面的な次元をもつ現象である。すなわち(1)経済(多国籍企業、企業家の国際的ネットワークなどによる「大競争の時代」)、(2)人口移動(移民、難民、外国人労働者)、(3)メディア・コミュ二ヶーション(CNN、BBCなどの放送ネット、インターネットの普及)、(4)思想・イデオロギー(人権意識、民族自決・ナショナリズムなどの価値観の普及)、(5)工業化、脱工業化(先進諸国の脱工業化とNIES〔新興工業経済地域〕による技術革新)などの面におけるグローバリゼーションが、その内容を構成している。
本書は、この各方面からのグローバリゼーションが、近代国家システムに影響を与えざるを得ず、しかもその影響は、国民国家の形成原理への根本的な問いかけをも含んでいる、と指摘する。というのも「人種、民族、エスニシティ概念が世界的に普及したのはそれほど古いことではない」、「人種概念は十五世紀からの大航海時代にヨーロッパ人と有色人との接触が増え、人口集団の肉体的相違が大いに注目されるようになってから使用されはじめ」、「民族という概念も、(中略)十八,十九世紀の近代民族国家形成期から頻繁に使われるようになった」からであり、「また、民族そのものは、国民国家形成が盛んになった時代に民族自決権とともに成立したに過ぎない」からである。すなわち「それは、単なる文化、言語、生活習慣、祖先同一意識をもつ文化集団という普遍的な存在を意味するのではなく、(中略)きわめて政治的な概念であり、いいかえれば、むしろ国民国家形成を企図する人口集団を意味する」のである。
このような国民国家形成に深くかかわる政治的概念である人種、民族、エスニシティ(エスニック集団)は、その境界があいまいで流動的、かつ主観的要素(同類意識など)に満ちていながら、心理的経済的政治的理由によって正当化され、こだわり続けられる。つまり心理的には、文化的・言語的同一エスニック集団への帰属が自らのアイデンティティの源泉となること、経済的には、文化・言語が生活手段でもあること[主流国民の文化・言語を自由に使用できないと、経済的に不利益を被る]、政治的には、国民国家の主流国民が、独立・自由・平等をその領域内においてのみ享受できることがその理由となる。
かくして本書によれば、「国民国家システムは、民族・エスニシティへのこだわりを前提としたシステム」であり、「民族にこだわって国民国家をつくって、はじめて人間が自由・平等となれるシステム」なのである。それ故「国民国家制度の確立が人種・民族・エスニシティ問題の究極的原因だといっても過言ではない」。そしてまたマジョリティ主流国民も、すべてが国民国家に縛り付けられ、「すべての人にとり、国民国家は『酷民国家』」となっているとされる。
この視点から、多文化主義が検討されるのであるが、本書では、移民受け入れの長い歴史をもち、多文化主義政策を推進しているオーストラリアがモデルとして考察される。
多文化主義には、中庸なもの(①シンボリック、②リベラル、③コーポレイト、④連邦制/地域分権の多文化主義)から、急進的なもの(⑤分断的、⑥分離・独立主義的多文化主義)まで存在するが、オーストラリアの場合、ほぼコーポレイト多文化主義と言える。これは、公的領域での多言語放送・多言語使用、多言語・多文化教育の発展、エスニック・コミュニティの活動への援助、またマイノリティの就職・教育機会適正化のためのアファーマティブ・アクションの実施などによって特徴づけられる。
オーストラリアがこの多文化主義推進にいたるまでの歴史的経過や現況での政治的社会的諸問題については、本書を読んでいただきたいが、その中で明らかになってきた重要なことの一つが、「多文化主義のパラドックス」である。これは、「人種主義の否定からはじまった人種・民族・エスニック集団関係の改善過程のなかで、多文化主義が生まれ、さらに改善が進められたが、結局は人種主義的関係あるいは国民分裂を進めてしまう」という矛盾である。つまり多文化主義が、多文化の許容性の低いものから高いものへと充実してくると、異文化集団の存在が目立つようになる、これに対して主流国民の側では「逆差別」の感情が発生し、互いに対抗意識を高め、「文化戦争」状態、「分断的文化主義」が生じる。また文化的差異を強調する「新人種差別」という陰湿な差別もあらわれることになる。
この「多文化主義のパラドックス」について、本書では、多文化主義そのものの問題点というよりも、むしろ多文化主義・人権意識が根付いたことで発生する問題であるとして、経済的コストの問題に言及するとともに(多文化主義の諸政策は「人権問題の視点から考えるべきで、経済的物差しでは計りきれないこと」)、これまでの文化主義・文化観(「伝統文化を伝統的な形のまま守らなければならない、あるいは、変えようにもその本質は変えられない」という考え方)の限界を指摘する。「伝統的民族文化というものは、国民国家の形成を急ぎ自らの独立を全うするために主張された政治的レトリックに過ぎないことが多い」、それ故「民族文化あるいはエスニック文化の純粋性や不変性」は、国民国家システムの存続を求めるための者でしかない。むしろ政治的民族文化も生活的民族文化も、「本来的には雑種であり、(中略)文化の境界もファジーなもの」であることが、確認されるべきなのである。
そしてこの「個性的な雑種文化状況」(ハイブリッド文化あるいはクレオール文化)が、「多文化主義のパラドックス」を克服する視点であり、「多文化主義」を「多・文化主義」や「多分化主義」とはせずに、「多文化・主義」へと向かわせる方途であるとされる。この視点にまた、
近代同質的国民国家システムの限界を克服していく展望も存在するのである。
以上のように本書は、グローバリゼーションの時代に多文化主義が突き当たっている諸問題を、その歴史的社会的起源から解明し、国民国家システムとの関係で解決を試みようとする。しかしそれにしても、日本の現況(上述の多文化主義の区分では、未だに①シンボリック文化主義──文化・言語の多様性を認めようとしない、ほとんど同化主義に近いもの──の段階にあるとされる)では、多文化主義への道は、遥かに遠いと言わざるを得ない。(R)
【出典】 アサート No.286 2001年9月22日