【書評】『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

【書評】『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』
           (C.ダグラス・スミス、2000.9.25.発行、平凡社、1300円)

「常識というものは不変的なものにみえるが、大きく変化することもある。/今私たちは、決して変わらないかのようにみえる常識の大転換、つまり大多数の人が『非常識』と判断しているものの考え方が主流の常識にとって代わる、そんな大転換の少し前の段階に生きているような気がする」。
本書は、ユニークな発想と問題提起で現代日本社会をラディカルに分析批判し続けているダグラス・ラミスの著書である。『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』という題名そのものが、上に述べた「常識」と「非常識」の関係を象徴している。そして議論されている戦争と平和、安全保障、日本国憲法、環境危機、民主主義などの諸問題について、現代社会の「『常識』といわれる考え方が、本当のところは現実離れしたもの」であること、特に「『経済は発展しなければならない』という考え方」こそが、「私たちの目を本当の現実からそらせた『現実離れ現実主義』の張本人である」という指摘が、本書の眼目である。
著者は、この「現実離れ現実主義」を「タイタニック現実主義」と名づける。すなわちわれわれが今乗っているこの地球という「タイタニック」は、やがて氷山にぶつかるということを人々は知っている。しかしその氷山はまだ見えないし、現実的な話だとは理解しにくい。「多くの人にとっての唯一の現実は、『タイタニック』というこの船だけなのです。
/タイタニックのなかにはいろいろなルーティン(日常の仕事)があります。乗客がやること、船員がやること。(中略)それを続ける人が『現実主義者』なのです」ということである。
この「タイタニック現実主義」は、「もしタイタニックが全世界ならば、船の外には何も存在しないということなら、それはとても論理的でしょう。タイタニックの論理はそれを前提に成り立っていると思います。(中略)同じように、もし世界経済システム以外に何の現実もなければ、とても立派で合理的な論理になるわけです」。
「ところがタイタニックの外には海があって、氷山がある。そして世界経済システムの外には、自然環境がある。そこが問題です」。
われわれは、この本書の視点の重要さを肝に銘じるべきであろう。
本書で議論されている諸問題のうち、「国家と暴力」に関しては、日本の「平和常識」(日本国憲法成立以来の半世紀で、日本国政府の交戦権の下で一人の人間も殺されたことがないという事実)と、アメリカの「戦争常識」(アメリカ合衆国の、男文化の中で、大人になるということ=「人を殺せる人間になる」という殺人学校[軍隊]での訓練における常識)との差異が重要である。これらのいずれが人間的文化的に優位性を有するかについては、本書では、憲法第9条と周辺事態法第9条(著者はこれを「新9条」と名づけるが)についての考察(第2章)を見られたい。
「経済発展」の問題について言えば、まず経済発展が「20世紀の一番深いところまで根を下ろしたイデオロギー」であることが押さえられねばならないことが指摘される。この点については、自由主義者、保守主義者、ファシスト、ナチ、レーニン主義者、スターリン主義者、民族主義者すべてが共有していた考え方であるからである。すなわち「経済発展イデオロギーのイデオロギー性は、不透明(インヴィジブル)で見えにくい。イデオロギーではなくて客観的な事実、あるいは必然性というふうに思われていた」。それ故このイデオロギーが一体何であったのかが検討されねばならない。
そこで本書では、「発展(デヴェロープメント)」という言葉を検討して、これが「作り変えられた言葉」(1949年にトルーマンによって世界に対する政策として使い始められた──「世界中の相対的に金持ちでない国々を『発展させる』という他動詞的用法」であることが解明される。そしてこの意味で、「『未開発』(アンダーデヴェロープト)の共通点はそれぞれが持っている特徴ではなく、同じものを持っていない、ヨーロッパ、アメリカの経済制度に入っていない、その『欠如』が共通点なのです」ということが指摘される。
つまり「発展」という言葉で「ものすごく大きな思想の転換、パラダイム転換」が起こ
って、「実際にやっていることは、植民地時代とそれほど変わらないにもかかわらず」、「外から資本が入って、自然を破壊し、伝統的な文化を破壊し、搾取する。それを『発展(デヴェロープメント)と呼べば、それはその社会の、自然で当たり前な、決定された過程であるというように思えてくる』のである。「内政干渉ではなくて発展、搾取ではなくて発展、暴力的な変化ではなくて発展」となる。そして「発展」という言葉の不思議な魔力によって「搾取は見えなく」なって「強制労働」は歴史から消えたかのような観を与える。そして本書は、「経済発展の論理」が国家の政治的、軍事的な政策を方向づけており、ひいては政治権力による抑圧や民主主義の阻止に決定的な力となっていると主張する。
現実にこの「経済発展」のイデオロギーがもたらしたものは、「みんながいつかは発展するという『約束』や」「パイが大きくなればピースも大きくなる」という夢ではなく、「『貧困の近代化』の構造」(=「貧困を利益がとれる形に作り直す、『貧困の合理化』」)に他ならない。すなわち「何か新しい技術ができると最初は金持ちだけが買う。それがだんだん、あればいい、ではなく、なければ困る、というふうになってくる。買えない人たちは、それを買うお金がないから貧乏、ということになる。この貧困の特徴は、経済発展や技術発展によって解消するのではなく、経済発展や技術発展によって再生産される」のである。
従ってこの貧困の解決のためには、経済発展以外のものが必要となる。
「貧困の差というのは、経済発展によって解消するものではない。貧富の差は正義の問題だと思います。(後略)/『正義』というのは、政治の用語です。(略)貧富の差を直そうと思えば、政治活動、つまり議論して政策を決め、それをなくすように社会や経済の構造を変えなければならない」。
そして本書ではこの視点から、現在の日本のゼロ成長の状況を、むしろ有意義な「機会(チャンス)」としてとらえ、これを「経済成長なしで、ゼロ成長のままでどうやって豊かな社会を作るか、という別の問題提起」に変えていくことを主張する。
それは「成長ではなくて、分配」、「正当な、正義にもとづいた分配という解決を求める」ことであり、「今の競争社会を、相互扶助というか、人々が互いに協力し合える社会に切り換え」、「安全(セーフティー)ネットを作ること」を目指すこととされる。著者は、このような社会を求める過程を、「対抗発展(カウンター・デヴェロープメント)」と呼び、その特徴を、(1)「減らす発展」(エネルギー消費、経済活動に使っている時間、値段のついたもの等々を減らす)、(2)経済以外のものを発展させること(経済活動以外の人間の活動、文化等々)とする。換言すれば、「時は金」という経済発展の論理を、「金は時」という対抗発展の論理によって置き換えること、「豊かさを余暇に替えること」である。そしてこのように変えていく必要があるのは、「南の国」ではなく、逆に、「過剰発展、過剰生産をしている産業国」、「北の国」の方であることが強調される。
われわれ自身がとらわれている、経済発展の論理に根本的な疑問を呈した本書は、またこの状況を変えていく可能性(萌芽的で荒削りな示唆ではあるが)をも示す。20世紀までの近代化=発展の論理を経ち切る状況に迫られている今日、まことに「現実主義」的な問題提起の書といえよう。(R)

【出典】 アサート No.281 2001年4月21日

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