【投稿】「令和」の年号が引用された『万葉集』は本当に“国書”だったのか?

【投稿】「令和」の年号が引用された『万葉集』は本当に“国書”だったのか?
                             福井 杉本達也

和歌は、正月の宮中儀式の一つである「歌会始」にもあるように、過去から現在にいたるまで、天皇との関わりが深い。歌人の内野光子が和歌と天皇制との関係についてブログに書いている。敗戦直後、斎藤茂吉は「聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる」と歌った。「『天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省』もないままに…そのまま引き継がれ、さらにその関係は強化されようとしている…その要因は、直接的には、各歌人たちが天皇とつながりたいという名誉欲や自己顕示欲につながるのだが…日本政府はつねに天皇、皇室を政治的に利用しようと目論んでいること、天皇及び周辺も象徴天皇制のもとで天皇家の繁栄持続を願い続け…天皇制は『天皇家の物語』として深く、国民の間に浸透」していると述べる(内野光子:「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)2019.3.1)

『令和』の年号は、『万葉集』第5巻・大宰府での梅花の宴の歌32首の 序文中にある「初春令月 氣淑風和」(初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ)から採られた。「新元号」は初めて漢籍からではなく“国書”から引用されたという触れ込みであった。しかし、『万葉集』は本当に“国書”だったのか?疑問なしとはしない。

そもそも、日本国(近畿王朝)の正史と言われる『日本書紀』には、天武・持統天皇と同時代を生きた『万葉集』中の最高の歌人「柿本朝臣人麿」の一言半句も登場しない。平安時代:905年頃に成立した『古今和歌集』の選者・紀貫之は「仮名序」において、人麿を「おほきみつのくらゐ(正三位)かきのもとの人まろなむ、歌の聖なりける」と書く。「正三位」とは「星の位」ともいわれ、上級貴族の位階である。「大納言」相当である。奈良時代の長屋王や近代では西郷隆盛らが正三位であるとする。勅撰和歌集の選者である紀貫之が位階を誤るなどとは考え難い。「柿本人麿」も『万葉集』も日本国(近畿王朝)の正史からは抹殺されたのである。“国書”ではあるが、日本国の“国書”ではない。

答えを、室伏志畔は同じ紀貫之の「仮名序」から「『人麿は赤人の上に立たんことかたく、赤人は人麿の下に立たんことかたくなむありける』と、日本国では赤人を人麿の上位に据えたところに置いた…天地を揺るがすがごとくあるがままを歌いあげた人麿の倭歌の手法では、日本国の宮廷歌人が務まらない…倭国から日本国への王朝交替をタブーとして、倭国の倭歌は日本国の和歌へと変貌した…テーマを花鳥風月へと限る…修辞的技巧を競うことが本道となり、最初の勅撰集・古今集が編まれた」と書く(『季報唯物論研究』第149号:2019.11)。

『万葉集』を代表する名歌に、人麿作の天武天皇の子・高市皇子に対する挽歌がある。「壬申の乱」を歌いあげたものとされる。巻第二・一九九である。「かけまくも ゆゆしきかも 言わまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に…」から始まり、「幡の靡きは 冬ごもり 春さり来れば 野のごとに 着きてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒 み雪降る 冬の林に 飃風(つむじ)かも い巻渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く 引き放つ矢の繁けく 大雪の 亂れて来たれ…」と続く壮大な長歌である。これを高市皇子の挽歌とすることに異を唱えたのが九州王朝(倭国)説の古田武彦である。古田は「壬申の乱の行われた『季節』はいつか」(古田『壬申大乱』2001.10.25)という根本的疑問を発した。『日本書紀』によれば壬申の乱の開始の日は、天武元年「六月の辛酉の朔壬午(22日)」で、終結日を大友皇子がみずから首をくくって死んだ日である7月23日とする。『書紀』の表記は太陰暦であるから、太陽暦に直すと「7月下旬から8月下旬の初頭まで」(古田)―真夏である。ところが、長歌の中味は「冬ごもり 春さり来れば」、「み雪降る 冬の林に」、「大雪の 亂れて来たれ」であり、「この戦の『季節』は“冬から春にかけて”だ。それも『春』は『春さり来ねば』とあるから、むしろ”早春“の感じだ。だから、この戦は『真冬から早春にかけて』の季節に行われている」(古田)と喝破したのである。つまり、古田は壬申の乱の高市皇子への挽歌-皇子の戦功を歌ったものではないとする。いったい、誰の挽歌なのか。古田の仮説では倭国(九州王朝)が事実上の滅亡する663年「白村江の戦」の「海戦」の半年前、2月~3月にかけて戦われた唐・新羅連合軍と百済・倭(九州王朝)連合軍の戦いである百済の州柔城の「陸戦」に比定している。「『州柔城の一大陸戦』で消えた『明日香皇子』」への挽歌だったとする。「それが大和なる『高市皇子』に関する歌として『換骨奪胎』されていたのだ。ハッキリ言えば『盗用』である」(古田)と述べる。これに対し、これまでの通説に従い、高市皇子の挽歌とする北山茂夫は「どの地点での戦いかは、地名を省略しているので定かではない…近江路の、瀬田か…」とし、「戦闘の情景の描写は力にみち、士気がふるいたち、まさにこの長歌の核心の一つである」としながら、「この挽歌の戦闘に関する部分は、詩句の力強い流れにおいて、よくそのムードをとらえていて、貴重である。ただし、高市皇子とのつながりは失われ、戦闘そのものになっている。」、(北山茂夫『萬葉集とその世紀上』1984.11.30)と書くが、文章の続きが悪い。人麿の贔屓の引き倒しになっている感は否めない。北山はこの批評の最後で「これを迎え撃つ近江の軍については、人麻呂は、わずかに六句しか費やしていない。バランスをいうのではなく、これでは、激戦の姿と内容があまりにも一方的にすぎ、英雄叙事詩が有するはずの悲劇的葛藤の文芸的緊張がまったく欠けている」と酷評している(北山:同上)。先の文と後の文では正反対で支離滅裂となっており、批評の体をなしていない。壬申の乱は天武天皇(大海人)側の勝利に終わり、凱旋の歌であるべきだが、この挽歌は皇子が戦闘で死んだという敗北の歌である。「倭歌」―倭国(九州王朝)への葬送歌を「和歌」―天武天皇・高市皇子の凱旋歌としようとしたことの矛盾などがいたるところに散りばめられている。

紀貫之はこうした『万葉集』の成立の経過を十分に知っていたと思われる。倭国(九州王朝)を簒奪した日本国の『日本書紀』という正史に反する「人麿の倭歌の手法では、日本国の宮廷歌人が務まらない」(室伏)と考えたのである。天皇制を維持するには九州王朝の「倭歌」を日本国の「和歌」として再編成し、「和歌」を日本国の天皇制の中に取り込まなければならないと考えたはずである。新元号の「考案者」といわれる中西進は日経のインタビューに、『万葉集』は「昭和の戦争のとき戦意高揚に利用されてしまいました。『海行かば』『醜の御盾(しこのみたて)』『御民(みたみ)われ』…万葉集の中のほんの一部に着眼して『国民唱歌』や『スローガン』が生まれた。万葉集に罪はありません」と答えている(日経:2019.5.1)がはたしてそうか。現代における“国書”の筆頭にあげられる『万葉集』には『日本書紀』と矛盾するところがあまりに多い。『書紀』という正史にとってはあってはならない本だったのである(古田『古代史の十字路 万葉批判』2001,4,20)。「実在した倭国の王朝(九州王朝)が存在しなかったようにつくられている」、「万葉集が成立してより1300年、それは残念ながら“きらめく虚像”を流布しつづけてきたのである」、江戸時代には傍流にすぎなかった“虚像”は明治維新によって「公然たる、公的(オフィシャル)な、中心の座にすえられた」(古田『壬申大乱』)。結果、我々も、文学者・専門家も含めて1300年前の歴史は存在しなかったことにしたのである。明治維新以降、“虚像”はさらに肥大化していった。その結果が戦争プロパガンダとしての利用であり、「倭歌」を簒奪して成立した「和歌」の天皇制のタガをはめての利用である。

矢部宏治は『知ってはいけない2』(講談社現代新書:2018)において、日本は「記憶をなくした国」であるという。岸首相がアメリカと結んだ核密約の3つの密約が改ざんされたとする。その結果が、現在の外務省のホームページにある米国との協定に関する「和文」は“仮訳”=“正文”は「英文」とするものであり、最近での最悪のものは2019年10月7日に締結された『日米貿易協定』である。外務省HPの協定和文の末尾のP161に「(附属文書Ⅱは、英語により作成され、この協定の不可分の一部をなす。)」と書かれている。日経新聞には附属文書Ⅱの自動車関税部分を抜き出し「自動車と自動車部品の関税は関税撤廃に関するさらなる交渉の対象となる」(日経:2019.10.16)と訳している。ようするに自動車関税については今後の交渉によるということであり、貿易協定は相互原則を無視した明らかなWTO違反ということである。このような重要な文書を日本語で残さなかったのは、日本が米国の実質的植民地であるとともに、密約などの重要文書は常に改ざん・破棄してしまうような信頼できない国と見られている証拠である。これほど国際的バカにされる協定はない。安倍政権下での「加計学園問題」や「桜を見る会問題」など一連の文書偽造・破棄・虚偽答弁は、こうした連綿と続く事実の改ざん・簒奪・歪曲・換骨奪胎の延長線にある。過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」(ワイツゼッカー・元ドイツ大統領)。

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