【書評】『教室の小秋(シャオチュウ)──中国引き揚げ少女との三年間』

【書評】『教室の小秋(シャオチュウ)──中国引き揚げ少女との三年間』
                (桝本洋幸著、白地社、1999.3.20.発行、2000円)

 日本と中国をはじめとするアジア諸国との関係が、見直しを迫られている。一方においてこれらの諸国との緊密化を進めて行かねばならない客観的情勢と、他方における民間でのレベルを問わぬ交流の現実が、これを迫っているのである。
 しかしこれと同時に、喉に刺さった骨のようなものが、われわれをとらえる。それは、かつての日本が行なったアジア諸国への侵略という歴史的事実であり、このことの持つ意味が解明・定着されぬままに忘れ去られようとしている状況である。
 本書は、中国引き揚げの少女・劉秋玲(小秋──「小」は愛称、秋ちゃんという意味)を担任することで、自らの問題として、中国残留孤児問題に取り組んだ教師の記録である。われわれの生活でもっと身近な場所である小学校での、生徒に向き合っての記録であるだけに、本書は、地味ではあるが、われわれ一人ひとりに対して多くの課題を提示している。またクラス活動という視点からもこの実践は、現在の日本の教育に対しても本質的な課題を投げかけている。
 著者が、両親(父親──残留孤児、母親──中国人)とともに中国から引き揚げてきたばかりの小秋に対してもつ、戸惑いと混乱、挫折と交流は、本書の前半を占める大きな流れとなる。また同時にこれは、著者の担任するクラスで、小秋を受け入れていく過程でもある。著者は、小秋の作文を指導する中で、彼女の心中を推し測って、次のように述べる。
 「中国残留孤児あるいは、残留婦人の子弟の帰国は必ずしも彼等の意志によるものではない。親あるいは祖母などの肉親への思いをくんでのものである。小秋も、父の両親に会いたいという思いにうたれて大好きな中国を後にしたのだった。/期待を抱いて渡航した日本は彼女にとって必ずしも温かなものではなかった。空気を吸うように押しつけられる日本人化──同化の中で彼女は悩みあらがっていたのだ。/嬉しそうに中国での思い出でを語る彼女を見つめながら、私はふと『彼女が中国で生まれ育ったこと』を大切にしてやれないものかと考えた」。
 この著者の視点は重要である。ともすれば日本人としての視点のみで見てしまいがちな問題を著者は、父親想いの優しい引き揚げ少女の目で見つめる。そして小秋の気持を作文に仕上げて、教材として授業を行なう。この授業で著者は、小秋の作文に対する子どもたちの反応の背後に、それぞれの子どもたちもまた、家庭その他のさまざまな問題を抱えていることを見る。次第に小秋との交流が深まる中で、彼女の「父の生い立ち」の作文が出るところにまでいたる。
 「父の生い立ち」(作文の題名「ひとりぼっちになった父」)は、小秋の父が中国で残留孤児となった経過の聞き書きである。開拓団、戦争の激化、集団自決など事実の生々しさにたじろぎつつも、著者は、これを教材として活用するかどうか悩んで末に、次のような結論に達する。
 「さまざまな経緯はあるものの、中国への単純な敵意だけ はもってほしくなかったし、事実を事実として受け止めてほしかった。そうすればきっと残留孤児を生み出した背景や戦争の持つ愚かさへ迫れるとおもった。小秋の作文にかけてみようと思った。子どもたちがどのように作文を読み込むか、それは私にとっても学びたいことであった」。
 このようにして著者は、子どもたちと共に問題を探りつつその核心に接近する。すなわち中国残留孤児問題は、戦前の日本政府の侵略政策の結果であると共に、戦後の日本政府の棄民政策の結果でもあることである。侵略についての重い責任と共に、棄民についてのより深い責任が、こう問われる。
 「体制の違いから、長く国交を回復する努力すら怠ったのは日本政府である。残留孤児の問題も残留婦人の問題も結果的には、その人々のことを考えなかった棄民政策にある」。
 「1950年をもって引き揚げ者の調査は事実上打ち切られる。その後日中国交回復まで、放置されてきた歳月は、残酷ですらある。/松本氏(小秋の父──引用者)にとっての34年間。/残留孤児・残留婦人の苦しみに加えて、新たな悲劇を積み重ねた歳月を思うと胸が詰まる。国家の政策だけでなくこれらの人々を見捨ててきた事実は、日本人一人一人が問われなければならないことだと思う」。
 本書の後半は、小秋を担任して3年目の6年生のクラスでの、中国の小学校との交流と、中国人強制連行・「花岡事件」の版画の集団制作をめぐって進められる。
 小秋一家の中国への里帰りを機に、その地の小学校との交流が計画され、生徒たちの自画像が届けられた。しかし著者には、中国人強制連行のことは避けて通ることはできず、この交流のためにも、「唯一戦争犯罪として裁かれた花岡事件」が題材として取り上げられることとなった。共同制作版画「花岡物語り」が完成するまでのクラス指導が並大抵ではなかったことは推察される。しかし制作過程で子どもたちが見せたエネルギーとひたむきさは特筆に値する。
 1945年6月に鹿島組花岡事業所(秋田)で、強制連行された中国人たちが、虐待に耐えかねて蜂起したが、あえなく鎮圧されて首謀者たちが拷問にかけられた事件は、加害者としての日本人が浮かび上がる重い事件である。著者は、この事件を題材にすることによって「戦争の持つ一つの大きな悲劇・罪科」に着目するとともに、他民族への抑圧・排外思想の「刷り込み教育の恐ろしさ」を告発する。そしてそこから逆に、「新しい日本人、侵略者でない立ち方」を求めていこうとする。
 この連作版画は、子どもたちの卒業制作展(1989年7月)として大きな反響を呼び、各地で紹介された。著者はこの後、子どもたちとともに過ごした日々について、こう語る。
 「私はたまたま日本人に生まれたという事実がある。たまたま人間に生まれたともいえる。私は松本義夫氏や劉秋玲の肉声を聞いた。そのことは重い。そして子どもたちもそのことを真っすぐに受け止めた。その声は私が人間であるという事実を聞き取ることを可能とした。日本の戦争被害にあった人々は、そのことを語り伝えていることだろう。せめて教科書だけでも、加害(日本)と被害を受けた国との間で認識を共有できるものでありたいと願う」。
 このように本書は、中国引き揚げ少女と彼女が背負ってきた歴史的状況に対しての、著者の闘いの軌跡である。本書によってわれわれは、「日本という国の在り方を引き揚げの子を通して客観的に見る視点」を与えられるであろう。過去の戦争責任や侵略・虐殺問題よりも、「日本人の誇り」が声高に語られている現在、「人間としての誇り」と「事実から目をそむけない勇気」が、具体的にどこにあるのかということを教えてくれる書である。一読を薦めたい。(R) 

 【出典】 アサート No.270 2000年5月20日

カテゴリー: 教育, 書評, 書評R, 歴史 パーマリンク