【投稿】「平和と平和共存」路線の検証
「冷戦とは何だったか—戦後政治史とスターリン」の感想
町の図書館に、この本は新刊書として並んでいた。「冷戦とは何だったか—戦後政治史とスターリン」(ヴォイチェフ・マストニー著 広瀬佳一・秋野豊訳 柏書房 2000年3月)だ。
すでに89年東欧革命–91年にソ連は崩壊し、「社会主義世界体制」は姿を消した。そして、ほんの10年前まで我々の国際路線であった「平和と平和共存」のスローガンは、「社会主義の崩壊」と「冷戦の終結」で、あまり議論されないまま、現在の我々の語彙の中からも消えていこうとしている。この「冷戦とは何だったか・・・」を読んで見て、改めて、「平和と平和共存」路線とは何であったのか、を考えて見たいと思う。
<ソ連の安全確保が第一>
著者は、西側(?)の学者であるにしても、本の中身については、そこそこ議論の対象になりうると私は感じている。取り上げられているのは、1930年代後半からの、独ソ戦の経過、そして戦後処理をめぐるソ連の戦略、戦後の日本、朝鮮半島、そしてドイツ分割をめぐるスターリンの対応、そしてスターリン時代の末期までが、ソ連崩壊後公開されたクレムリン文書、アメリカの公開された公文書などをもとに概観されている。
そこで、語られている要旨を勝手に要約すると、スターリンそしてソ連の一貫した関心は、社会主義ソ連の「安全」ということであった、ということであろうか。そして、その安全とは権力者・独裁者スターリンの安全と権力強化ということであったと。特に、戦後処理にあたっては、ソ連の周辺に社会主義国家でなくとも、「民主主義国家」群を配置し、資本主義国家群との緩衝地帯とすることであったが、最終的には、特に東欧において赤軍の軍事力を背景に「暴力的」に反対勢力を粛清し、社会主義国家群をNATOに対抗して作り上げた。そういう意味で、冷戦の責任の半分は、スターリンにある、そしてソ連の脅威に対抗した西側の対応も適切とは言えなかった、というのが著者の結論と言える。
<ソ連の戦後処理計画があいまい>
スターリンが根っからの好戦主義者であったというような決め付けはしていない。むしろ、戦後処理過程でソ連側が戦略を持っておらず、その場限りの対応に終始したことや、強迫観念に近い「西側の脅威」認識をもって対応したこと。さらに、西側にも「ソ連の脅威」を過大に見積もっていたのではないか、という双方のすれ違いも著者は指摘してる。
特に、戦後当初は欧州諸国には「国民戦線」という形で反ファシズム戦線が形成されていたが、戦後各国の選挙でスターリンの予想に反して共産党勢力は前進・勝利することはできなかった。さらにアメリカが欧州の復興に財政援助するマーシャルプランを提唱した。マーシャルプランを東欧諸国に拒否させる、一方で1947年9月、欧州共産党代表者会議でジダーノフは「資本主義と社会主義という敵対的で和解できない二つの陣営が存在し、帝国主義と闘うことで平和が訪れる」と宣言し、新たにコミンフォルムの結成が提案される。
その目的は、権力闘争より反帝・反米闘争を行え、ということで、世界で街頭闘争が展開され、東欧の「社会主義」化にも拍車が掛かる、という具合に冷戦的状況が促進していった。
そしてベルリンの封鎖、分裂固定により、政治的な冷戦は一層軍事的性格を強めていく事になる。こうした過程の中で、ソ連も核兵器を開発し他方でアメリカは「ソ連の脅威」論の立場を強め、諜報活動・各国への介入を強め、周辺諸国を舞台にした抗争が激化していく。
<アジアにおいても、東西が激突>
アジアにおいても、1947年極東委員会でアメリカは、日本の非軍事化を国際的管理の下で実施する提案をしたが、ソ連が拒否、その後、アメリカは47年後半に欧州での緊張激化を受けて、この提案を撤回した、と著者は記している。歴史に「もし」は、ありえないが、実現していれば日本の戦後は変わっていたことだろう。
1950年には、ついに朝鮮戦争が起こり、東西は軍事的に激突する。しかしこの戦争の中でも、ソ連は軍事的物質的に北朝鮮側が勝利する援助を行わず、毛沢東中国の人民軍犠牲の反転攻勢でようやく38度線での停戦にいたった。それが、中ソ対立の遠因ではなかったか、と著者は指摘する。
こうしてスターリンの死後、本格化する核兵器の均衡による冷戦の本格的展開の基本的枠組みは形作られた、という。その後にスターリン程の独裁者は出なかったが、スターリンシステムはソ連のなかで維持され続けたというわけだ。
<平和共存のスローガンの意味>
私が学生運動の現役時代、すなわち70年代前半は、ベトナム反戦闘争の終結期にあたっていたが、キューバ危機から沖縄闘争、ベトナム戦争反対の課題から、核軍縮と集団安保体制へと平和運動の課題は変化してはいた。
もはや、過去の文書をさがしても意味がないが、少なくとも私の記憶の中で、このスローガンは、以下のような意味合いで使われていた。
①情勢認識として、米ソ冷戦のもとで、核戦争の危機が存在し、②運動によって、戦争を阻止することは可能であり、③平和勢力である、社会主義世界体制と先進国の民主・労働運動、民族解放勢力の3つの勢力が力を合わせる必要があり、④その平和勢力は、帝国主義・戦争勢力に、平和を平和共存を押し付け、⑤そうした平和の環境のもとで、3大勢力は前進し、社会主義への移行が促進される、と。
①については、核戦争の危機は確実に存在していたと思うし、国民の支持のもと日本の中で平和を求める運動を展開した歴史は、決して過少評価する必要はないと思う。ただ、平和勢力はソ連と3大平和勢力、戦争勢力は帝国主義の側だ、との認識が固定的にあったことは事実だろう。
先の著者の主張に照らすと、歴史認識をかなり変更する必要がある。朝鮮戦争についても、萩原遼氏が『朝鮮戦争』の中で明らかにしたように、先制攻撃が北の側から準備された事実は1980年代に明らかになるわけだが、当時はそんな認識はなかっただろう。
同様に③についても、「帝国主義の核兵器と、社会主義の核兵器は違う」というような日本共産党的な立場は「大衆運動」的には我々は取らなかったにせよ、本質論では、そんなに違いはなかったと思える。3大勢力と言っても、それはソ連の指導的立場を承認した上の話であった。現在から思い直せば、平和運動のイニシアチブを固定的に見ていた点も、平和運動の広範な広がりを実現できたかどうか、という点から反省材料といえる。
⑤について、思い出すのは、平和運動が社会主義運動と結び付けられて、一種の「革命戦略」であったことだろう。好戦主義者に対して平和を要求し、真に平和を実現できる社会主義への支持を広げる、平和の中で社会主義を準備する、という「手段と目的」の関係の中で、平和運動が位置付けられてはいなかったか、という反省である。
こうした前提の上では、「平和と平和共存」路線は、スターリン流の世界戦略で作られた土台の上の「平和路線」=「世界革命戦略」であったと言えるだろう。
<新たな平和運動の路線とは>
「冷戦とは何だったか–」を読んで感じたのは、やはりそうだったのか、という印象だ。
「平和と平和共存」のスローガンは、すでに色あせた。新たな平和運動路線が求められているが、その明示はこの文章の目的ではない。
著者は序論の中で、「『ソ連の脅威』という西側の認識こそは冷戦の本質である。果たしてソ連の脅威とは実態のない空虚なもので、したがってソ連を封じ込めた自体が金を浪費するだけの異常なことだったのか。・・・・・」と問うている。
先日、国際・防衛関係の世論調査で、戦争の危機を感じる国民の意識が高まっていること、自衛隊を評価する国民が80%を越えていること、など、平和をめぐる国民の意識は変化してきていることが明らかになった。沖縄の基地の移設についても、賛成と反対が入れ替わり、反対が増加している。憲法調査会での議論とともに、平和をめぐる問題についても、発言と運動を強める必要があるように思う。
最後に、この本の訳者のひとりが、秋野豊氏だが、彼はすでに1998年に亡くなっている。国連タジキスタン調査団に参加し、テロに倒れたのである。読み終えた後、訳者あとがきに記されていた。氏は『ゴルバチョフの2500日』も著している。ご冥福を祈りたい。(佐野 秀夫)
【出典】 アサート No.270 2000年5月20日