【投稿】諫早干拓を訪ねて—-ムツゴロウはどこへ—-

【投稿】諫早干拓を訪ねて—-ムツゴロウはどこへ—-

5月に九州へ出張する機会があった。合間をぬって、諫早湾を見に行った。現地の雰囲気と、諫早干拓事業について、レポートしてみたい。

<諫早干拓事業とは>
諫早干拓について、世間の注目を集めたのが、ギロチン風景。1997年4月14日のことだ。あのギロチン風景は、諫早湾を横切る「潮受け堤防」建設のため、最終的に、湾の内と外を遮った工事であり、排水門による調整を残して、諫早干潟と諌早湾は切り離されたのである。その後、諫早干潟は、完全に死の潟となり、ムツゴロウは屍を晒し、干潟は完全に干上がってしまった。
長良川河口堰と同様に、諫早干拓事業も、当初の目的はすでに根拠を失い、新たな事業目的に変えられて、公共事業が続けられている。1952年(昭和27年)当時の長崎県知事が、諫早湾全体(約10.000ha)の大干拓事業を表明したことが、この事業の始まりだ。
元々、江戸時代から諫早湾は少しすつ埋め立てが進められ、農業用地を拡大してきたのだが、諫早湾は独特の干潟を形成していたので、干満格差6mにより独特の漁業が営まれており、農業と漁業は共存してきていた。
しかし、この大干拓事業は、諫早干潟を完全に死滅させることで、広大な農地を生み出す計画となった。1969年には国が水田開発抑制に方針転換し、漁協の反対もあり、埋め立て面積は現計画では、3.550haとなり、1986年に事業計画が決定されているのだ。事業計画は、諫早湾奥部3550haの海を、約7kmの潮受け堤防で閉切り、さらにその内部に約17kmの堤防を築き、1795haの農地を作り出し、そして1710haの調整池水位を-1mに管理することで水害を防ぐとともに、淡水化した水を灌漑用水として利用するというものである。
そして、総務庁が1997年「土地利用・営農計画の確実性」及び「環境への十分な配慮」を求めて、事業計画の変更を求め、1997年4月14日を迎えたわけだ。
すでにギロチンから3年、「潮受け堤防」工事は1999年7月に完成していた。

<干拓見物観光??>
JR諫早駅に着いたのは、午後2時ごろ、8時には帰路のため長崎空港にいなければならない。その日、急に思い付いた行動だったので、何の準備もしていない。ただ、長崎県の地図が一枚だけだ。JRのレンターカーを3時間だけということで「まけて」もらい、市内地図を頼りに出発した。
地方都市ということで、駅前を抜けると閑散とした風景が続いた。まずめざしたのは、「干拓資料館」。ここで、資料を手に入れて、現地に向かおうというわけだ。国道207号線から右折し、資料館を探す。しかしあったのは「ゆうゆうランド干拓の里」という「観光施設」だった。遊園地みたいな施設で、「ムツゴロウ水族館」もある。もちろん見に行く時間はない。受付の女性に聞くと、この中に資料館があるという。入場料300円を払い中へ。資料館は平日ということもあり閑散としている、というより見学は私ひとりだ。
聞けば、「干拓の里」は、諫早市の第3セクターの経営とのこと。おそらく国の資金が入っていることだろう。資料館には、干拓地や潮受け堤防ウォッチングパンフレット(後で騙されたが分かるが)もあり、干拓観光を目指しているらしいが、悲しい限りだ。
資料館の展示は、結構見ごたえがあり、諫早湾の自然、漁業、歴史はよく理解できた。干潟特有の漁法、魚種など現地に来ないとなかなか理解できないものだ。そして、案の定、干拓事業による環境問題への影響という部分は、まったく展示されていなかった。
そこで、いよいよ潮受け堤防を見に出発した。観光パンフレットによれば、251号線を走れば、吾妻町付近で堤防を間近にみることができると書いてある。地図を頼りに30分ばかり走り、目的の場所についた。ところが、騙されたというのは、「関係者以外立ち入り禁止」の看板があり、近寄ることができない(!)。そこで、何とか地道を探して、湾の外側の海岸線に出て、外側から堤防をみることができたわけだ。
そこから、完成した堤防を遠く眺めることができた。この堤防により、堤防の中は「調整池」そして外は諫早湾ということになる。私は湾の外側から見た。全長7kmは本当に長い。どこまでも続くという感じだ。

<現地の雰囲気はどうか>
長良川河口堰反対運動の経験から見ると、諫早の場合は、反対運動がなかなか現地的に困難な雰囲気がああるように感じた。長良川の場合は、漁師は完全に漁業権を放棄したわけではなく、シジミや鮎など堰運用に伴って反対が強まった。しかし、諫早の場合は、干拓工事そのものが「ゼネコン」の仕事というより、町の土木業者が埋め立てている。ユンボ1台あれば仕事はもらえそうである。閑散とした町の風景と重ねあわせると干拓事業の恩恵は、事業目的よりも工事が地元に落ちるという点でも、土木業者を潤す。漁師を止めた土木業者も多いのではないか。
自然破壊という点では、都市のわれわれは、都会から見て、貴重な自然を壊すと批判するのは簡単だが、地元からの運動は、厳しいものがあるな、というのが素朴な感想である。

<問題ある環境アセス>
と、ここまで書いたところで、今日の新聞(6/11)によると、この「調整池」の水質汚濁問題で、農水省の委員会事務局が委員5名の意見を掲載しない議事録を作成したと委員5名が抗議しているとの報道である。
「諫早湾は1997年に閉め切られたが、その後調整池の水質が悪化。汚れを示す化学的酸素要求量(COD)や窒素、リンなどは、農水省が環境アセスメントで予測した目標値を1.5―2倍上回っている。このため同省は専門家による「諫早湾干拓調整池等水質委員会」(委員長・戸原義男九大名誉教授)を設置、審議していた。」(朝日新聞より)
官庁の環境アセス委員会など、もともとあてにできるものではないが、この諫早湾の委員会の場合、委員11名の内5名が、水質調査をめぐり、水質予測と対策を求めた。委員会では承認されたのに、農水省の事務局がこれを削除し、正反対の議事録が作られたという。
この報道が象徴するように、諫早の調整池でおこっているのは、急速な水質の悪化なのである。数年前の福井で起こったロシアタンカーの重油流失問題が、ボランティアによる汚染除去作業の上に、まさに海水の浄化作用によって日本海は救われた。諫早湾でも10000haにおよぶ干潟自身が、都市から流れ込む汚水を浄化していたのである。あさりは1時間に1tの水を浄化し、ムツゴロウは泥の中を1.5mももぐって有機物を食べるという。まさに諫早干潟は天然の浄化層であった。それが、死の潟となり、浄化作用は停止し、急速な「調整池」の水質悪化とい汚濁が進行しているのだ。
さらに諫早干潟は野鳥の休息地、世界で有数の渡り鳥の中継地でもある。これに気を遣ってか、干拓資料館には「諫早干拓環境モニタリング」なるパンフがおかれていた。有明海に飛来する渡り鳥の実態を調査したものだ。その結論は、潮受け堤防完成後も、諫早湾の渡り鳥は増えているとしている。しかし、よく見ると、調査地点は、干拓地付近と有明海周辺の4個所計5個所で、その総数は増えているのだが、諫早湾のデータは、明らかに堤防閉鎖後渡り鳥の数は激減しているのだ。1998年秋の諫早湾の野鳥は、前年の1/2に減っている。きれいなパンフだが、ウソだらけであった。

<地道な反対運動つづく>
これまで諫早干拓反対の運動は、現地諫早市の住民が「諫早湾救済本部」などを設立し、国民に訴えてきた。干拓事業差し止め訴訟(通称ムツゴロウ訴訟1996年)、「排水門開放を求める30万人署名」(1997年)など。現地を訪れた日、地元の書店なら何か反対運動の出版物があるだろうと、諫早駅前の書店を覗いた。やはり現地だ、店の入り口に、「生きろ 諫早湾」という本があった。
現地、諫早、長崎の住民が中心になり「諫早湾『一万人の思い』実行委員会」(http://www.pluto.dti.ne.jp/~yah7829)をつくり、排水門の開放を求めて1万人の新聞キャンペーンを進めている。一口千円で新聞広告を出す運動だ。すでに5回行われ、第1回1999年3月20日朝日新聞長崎県内版、第2回1999年3月27日西日本新聞長崎県内版、 第3回1999年4月13日朝日新聞九州版、第4回2000年3月10日朝日新聞長崎県内版、第5回2000年3月14日朝日新聞と長崎・九州を中心に訴えが続いている。この一言運動をまとめたものが「生きろ 諫早湾」である。諫早湾の自然と漁業、生物の写真と、諫早干潟の再生を求める一言の数々が紹介されている。ぜひ一読していただきたい。

<総選挙と公共事業>
諫早干潟の関係で、注目されるのが、今回の総選挙である。「自公保政権の存続を許すのか、否か」「景気優先か健全財政か」などがテーマになりそうだが、公共事業のあり方も問われている。民主党は「公共事業コントロール法」を提案している。また総選挙での「15の挑戦と110の提案」の中でも「11 吉野川可動堰、川辺川ダム、中海・諫早干拓については、中止を含めて見直します。 吉野川可動堰など無駄の多い大型公共事業については、事業のストップを含めて再検討します。」と提案している。
 長崎現地では、民主党中央の訴えはどこまで浸透するか、極めて不明だ。特に継続中の事業は、公務関係の労働組合も動きが鈍いのが多い。長良川、吉野川、そして諫早と「無駄な公共事業はストップ」との訴えは、都市部では効果があるだろうが。(2000-06-11 佐野 秀夫) 

 【出典】 アサート No.271 2000年6月17日

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