【投稿】小野先生の思い出–最後に出会った学生として–

【投稿】小野先生の思い出–最後に出会った学生として–

 小野義彦先生が亡くなられてもう10年になろうとしている。一報を受けたあと、通夜の前日、当日とも、仕事を済ませては奈良のご自宅に駆けつけたことを記憶している。
 1984年に大学入学した私にとって、小野先生は既に伝説の人だった。先輩方から「小野理論」としてその学説・論争を受け継ぎ、私たちにとって大いなる拠り所だったのだが、その姿は年に1回の「関西労働講座」で拝見するのみで、とても「身近な」存在と言えるものではなかった。そんな私が、ご逝去の一報にいてもたってもいられなくなったのは、亡くなられる1年前のこんな些細だが貴重な思い出のためかもしれない。

 それは1988年5月のことで、現アサート編集委員である佐野さんからの依頼がきっかけだった。「6月の労働青年の交流集会で小野先生の講演会を開催するんだが、そのレジュメ原稿を先生の自宅に取りに行ってくれないか」というものだった。開催日も間近に迫る一方、主催メンバーの都合がつかず、学生だった私に白羽の矢が当たったのである。
 あの小野先生と話ができるという期待と、私ごとき若輩が先生の相手をできるのだろうかいう不安が交錯しつつ、当時の阿倍野区の自宅にお伺いした。佐野さんからもらった地図を頼りに、近所をうろうろと歩き回っていた。お昼前でもあったので、買い物帰りと思われるご婦人が訝しげにこちらを観ていた。後から思えば、それはみどり夫人であった。
 何とか先生宅にたどり着き、みどり夫人に自己紹介し、居間に通していただいた。先生は起きたところだとのことで、緊張が解けないまま、居間で待つこととなった。先生は夜型人間だと聞いていたが、本当だった。
 ほどなく現れた先生は、あの印象深いオールバックではなく、まさに寝起きのボサボサ頭だった。その姿に驚きつつも、私は直立不動の状態で挨拶した。先生は「いやあ、すみませんねえ、書いているうちに夜遅くになっちゃって」とおっしゃりながら、ゆっくりと歩を進め、ソファーに腰を掛けられた。
「大学では何をやってるんですか」「ハイ!自治会活動をやっておりまして、今は一線から引いて学生同盟の方で・・・・」まだ緊張が解けない。「最近の学生運動はどうですか、厳しい状況だとはきいとるんですが」「ハイ!その通りでございまして・・・・」ついつい言い訳をしてしまった。
「これがねえ、原稿なんですが・・・・」手渡されたのは色とりどりの折り込みチラシの裏に、ビッシリとしたためられた、レジュメ原稿というよりは「小論文」だった。
「一度読んでみてくれませんか」「ハ、ハイ!」(先生の眼前で生原稿を読むなんて!)まだまだ緊張が解けない。頭に入らない。
「どうですか」(感想を求められている!)レジュメのテーマはペレストロイカだったのだが、先生の原稿に感想を述べる勇気などなく、質問に切り替えようととっさに出た言葉が「北方領土はどうなるんでしょうか」・・・・ああ、何たる愚問!それでも先生は、ソ連の他の国境紛争のことも引き合いに出され、丁寧に解説くださった。
 そうこうしている内に、みどり夫人が食事を運んでこられた。先生にとっては朝食、私にとっては昼食だった。これが、民学同「新時代」誌で読んだことのある、飲まず食わずで学園を走り回った先輩方が、深夜に小野先生宅を訪ね、その空腹を満たしたという、伝説の「みどり夫人の食事」か!・・・・と妙に感動しつつ、美味しくいただいた。
 他にもつまらない質問をしてしまった挙げ句に、何とか会話の間をつなごうと、またもや思いつきで口走ってしまった。「この原稿、『知識と労働』に掲載してはどうですか」・・・・ああ、またいらんことを・・・。
「そうだねえ、そりゃいいねえ!」思いの外、先生は乗り気だった。「まだ、間に合うかなあ。おーい、ママー」先生がみどり夫人のことをそう呼ばれていたのは意外だった。「生駒くんに電話してくれ」早速『知識と労働』編集人の生駒さんに電話をされ、受話器が先生に手渡された。
「あー、生駒くん、今ねえ家に大学の自治会のー、あの君が来てるんだがねえ」先生は私の名前をまだ覚えてくれていない。「江川さんでしょ、もう!」すかさずみどり夫人から突っ込みが入り、先生は怒られていた。
 最新号には何とか間に合うようだった。「『知労』に載せるんだったら、前文がいるなあ」先生はおもむろに折り込みチラシを取り出し、その裏に文章を書き始めた。
「タイトルはどうしようか・・・、青年の集会は6月のいつだったかなあ・・・」私と会話しながらも、ものの10数分で300字ほどを書き上げられた。先生の執筆姿まで拝見できるなんて、それはもう感動の域を超えていた。 
 結局1時間ほどだったろうか、小野先生との緊張と感動の「時間」は終わり、生駒さんに原稿を運ぶという新たな重大任務を帯びて、先生宅を後にした。
 早速同志たちに、先生宅での一つひとつの出来事を、嬉々として語ったことは言うまでもない。みんなも興味津々だった。当時の学生活動家にとって、それは思いがけない大事件だったのである。
 その後、労働青年の交流集会で先生は元気に講演され、レジュメは『知識と労働』44号(1988年7月)に「ペレストロイカについての覚書」として所収された。

 この小さな「大事件」が心に残り、小野先生への思いを強くしているのは、先生と出会い、語らった、恐らく「最後の」学生活動家に、結果としてこの私がなってしまったからであろう。先生に学んだ先輩方から連綿と続く「教え子」の列の最後尾に、遠慮がちで自信なげだが、並ばせていただくことになった。また、私あるいは私の世代の力量不足であり、先生には申し訳ないことになったのだが、組織的にも小野理論を受け継ぐ最後部の世代になってしまった。
 運動らしい運動をすることもなく、10年が瞬く間に過ぎ去っていった。今は一介の自治体労働者であるが、地方分権を推し進め、自治体改革の一翼を担うことも、民主主義者の一つのあり方ではないか、とは考えている。この「アサート」にかかわり続けていくことも、「小野派」たる気概ではある。そんな様々な思いを、今年の命日には先生の墓前で確かめてみたい。
(追記)
 私事であるが、小野先生のご逝去と同じ年、祖父も亡くなった。日共党員ではあったが、戦前・戦中の弾圧・投獄に非転向を貫き、戦後も一貫して農民運動・労働運動に身を捧げた不屈のコミュニストであり、私の誇りだった。理論的な支えである小野先生と、精神的な支えである祖父を同時に失った1990年だった。
                            (大阪 江川 明) 

 【出典】 アサート No.275 2000年10月21日

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