【報告】小野義彦先生没後10周年墓参会
秋晴れの11月19日午前10時奈良県高安山霊園に約20名が集まり、1990年11月19日に亡くなられた小野義彦先生の墓前で、墓参会を行いました。参加者全員で黙祷ののち、それぞれが菊の花を献花し、先生のご冥福を祈るとともに、先生の遺志をいろいろな意味で引き継ぐ決意をしました。小野みどり夫人も85歳とは思えぬほどお元気で、ご家族共々にご参加いただきました。
東京や広島からも参加があり、前日は交流会も兼ねて宿舎を確保。交流会には27名が参加いただき、懐かしい仲間との再会も実現しました。
気楽な会合と言う趣旨でしたが、乾杯の音頭をお願いした吉村励先生、そして大賀さんはじめ、自己紹介や近況報告をいただいた皆さんからは、小野先生の思い出話が数多く飛び出し、食事終了後も交流会は、続きました。
吉村先生からは、市大時代、お酒の飲めない森さんと吉村さんと小野先生が「会議」をする時は、小野先生もしょうがなく「コーヒー」会議になったお話や、吉村先生のお兄さんが小野先生と同年齢であったこと、そして亡くなった11月19日が吉村先生のご母堂の命日でもあることなど、11月19日は忘れることができないんだ、というお話をいただきました。
大賀さんからは、亡くなる1990年の9月、来年は喜寿のお祝いをしましょうという小野先生とのお話の中で、先生が「やはり競争のない社会と言うのは問題でしょうね」という言葉があり、現在で言えば「市場」ということになるのだけれど、「競争」という問題をどう考えていくのか、それが私にとっての「先生の遺言」になってしまった、というお話をいただきました。学生時代に「新時代紙」に関わった教員の仲間は、ある時「三木内閣打倒」のスローガンをトップにした紙面が出来上がった時、小野先生から、自民党であっても「よりまし」な政府に対しては対応を注意すべきだと、叱られたことなど、それぞれと小野先生との思い出が語られました。
交流会の最後には、小野みどり夫人がマイクを取られ、戦中に中野の奥多摩刑務所から宮城刑務所に先生が移送された後、終戦を迎えて政治犯釈放令を受けて、山口から宮城へ単身の旅に出た際のエピソードや、戦後、赤旗時代の東京での生活の一端をご披露いただきました。
夜の交流を通じて、年に一度はこういう会合を開いては、という積極的な提案もありました。(さて、どうしましょうか?)
こうして交流会も墓参会も、いろいろな意味で感慨深いものとなりました。いろいろな戦線でがんばっている仲間の再会を果たすことができましたし、この会合を契機にそれぞれが新たな刺激を感じ、小野先生から受けた指導を現在に生かしていく決意もまた固めあうことが出来ました。(佐野)
参考)小野義彦没後7年に寄せて(Assert No.241- 1997/12、 No.242-1998/1)
【出典】 アサート No.276 2000年11月25日