【討論】労働運動の未来を考える意見交換会の記録

【討論】労働運動の未来を考える意見交換会の記録

<構成>
1、リストラの現場と労働運動の課題
2、欧州の新しい社会民主主義の動き
          (以上はNo.259に掲載)
3、現代若者の労働観と変革の時代
4、「市場(いちば)経済」と資本主義経済
          (以上はNo.260に掲載)

1、リストラの現場と労働運動の課題

<労働現場から見えること>
( 録音の不手際のため、スタートから30分程度の部分が消えていましたので、編集者の責任である程度まで、要約させていただきます)
昨年4月からの大阪府の労働相談の報告を見ていて特徴的なのは、まず相談件数が増えていること。その中でも、解雇問題、退職金、賃金未払いなどの特に解雇をめぐる問題がトップで、いじめなども多く見られます。また、労働組合がないとなおさらですが、労働法の知識が労働者の側に極めて薄いことです。高卒の労働者の場合は学校教えられているそうですが、解雇するには1ヶ月前に通告しなければならないことなど、知らないわけです。労働契約は書面で示すことが経営者の義務であることとか、余りに労働者が知らなすぎる。(こうした報告の後、参加者のフリーな意見交換がありました・・・・)

<不安定労働者と労働組合>
佐野:新しい形態の労働組合も出来ています。連合加盟の全国一般東京地本でしたか、インターネット上でのみの労働組合というのもできていますよ。デモも集会もないけれど、相談などにはインターネットを通じてのみ行うということらしい。
吉村:こういう時代には、そんな組合もあっていいかも。特に若い子には、気楽だからね。
佐野:この組合は、以前にもインターネットによる労働相談なんかもやってますね。
中村:デモとか集会とか一切なしで、インターネットの上だけで相談に応じるんやね。
佐野:巣張さんがおっしゃったことですが、自治労では、正規職員以外の非常勤職員や、公務に関係ある外郭団体の職員なども組織対象にしているんです。相談などあれば自治労の組合を作るようにと。
巣張:それをやっている組合はまだ良いと思うんです。昔から採算上でやらんという風潮もあった。1960年前頃かな、うちの組合でも小さいところの相談を受けるとゼニがかかるわけや。計算すると赤字になるがな、というような考え方もあった。しかし、運動である限りは、みんな作っていく中で存在を高めていかな、ということでね。それはなくなったけれど、こんな所に手をかけて、金取られて、うちも財政的にしんどいのにということはあったな。
総評労働運動の前進の流れの中で、それは運動として考えるべきだ、面倒を見るべきだということになってきた。しかし、最近、見ているとそれがまた組合運動の基本的そのものが、ナショナルセンターではなしに、企業連や単組に重きを置く傾向が強まっているように思います。

<電機連合の春闘見直し論の問題点>
電機連合の春闘改革の方針の話がある。連合の存在、産別運動の存在よりも、特に、「すべて労働協約の改定を中心にした運動をすべきだ」というわけです。そうなってくると、企業連と単組が運動の中心であってね、産別の本部とかナショナルセンターとかは、大まかな運動の調整的機能さえあればいい、これは私の受け取り方なんですが、これが電機連合の春闘改革論の主眼だ、と思うわけです。交渉の中心は企業連と単組なんです。
佐野:まだ公務の場合は、本俸(基本給)の比率が高いわけですが、民間の場合は、基本給が3分の1程度、そして資格給と業績給という構成ですから、ベア中心の平均賃金方式では、運動にならないような気もしますが。
巣張:そういう意味で、労働者連帯がだんだんと薄れているという気がします
吉村:むしろ、労働者的連帯以上に、社会的連帯そのものが薄れてきているとも言える、バラバラになってきている。
巣張:電機は非常に高度な技術的な中心的な労働者の賃金基準を確立する、というのが運動になっている。金属機械は中小だから、たとえば旋盤工の賃金を基準にする。鉄鋼はこの労働者というように、この産業はこの労働者というように基幹労働者の賃金を決めただけで、それを中心にしながら社会的賃金を決めていくということで、それはそれなりに意味があるとは思うんだけれど、労働協約中心に2年に1回の交渉にするとかの話も出ているが・・・・・

<地区労運動の存在>
民守:全体として、運動の力が低下している、という問題はあります。そこには旧総評時代の地区労などの地域運動の存在の問題、そこに停滞の原因があるように思います。昔は、大阪の東南地区でも一人でも入れる組合があり、地区労もあって争議があれば、すべての組合が支援する、という関係がありました。連合になって、地域協、地区協というのが出来ましたが、ほとんど選挙対策が中心で、地域の労働者の運動のウエイトは少ないわけです。
合理化なんですが、最近管理職のリストラが多いんです。従来の労働運動が想定しなかった分野です。それが管理職ユニオンになってきた。もっとも、今まで労働者の首を切ってきた人が組合を作ったわけです。あの時もう少し守っていればよかった、という話もありましたが。そういう個別労使の問題も変形してきている、ということもありますね。
吉村:それは佐野くんの領域やと思うが。連合が選挙対策になっている、ということだが、せめて労働相談のホームページでも開け、ということかな。
佐野:連合も10年になりますが、やっぱり、まだ「おつきあい」の域を出ていないんです。たとえば、連合大阪の執行委員会なんて、1時間やって発言するのは、金属か教組なんで、ほとんど議論がないというのが実態では。産別の協調、つきあいみたいな関係が優先されてしまう。地域へいけば、今度は政治力をつけたいので、首長選挙には力を入れる。また、スケジュール的な平和や環境運動もありますが、ある産別だけが動員力がある、多く出すということでは、またギクシャクする、という具合にね・・・ですから、未組織の組織化が運動の方針にはあげられているが、それを一緒にするというところまで、腹割った話ができていないのでは。連合に対する提案を積極的に行っていく必要があると思う。

<緊張関係のある労使関係>
巣張:こないだ、京都の諸君と話をした。僕らもOBだが、連合大阪高退会というのがあって、中央にもOB会があり、他の産別のOB連中とも、よく話をするんだが、昔一緒に運動やった人が多いわけで、「なあ、バリさんよ、連合の会議というのは、発言をしない、ということらしいで」という話がありました。現役に諸君に聞いてもそんな話や。京都の諸君も一緒やというわけ。しかし、連合の会議も、産別の会議、さらに単組の会議もね。昔のようにね、年代別とか小グループに分けるとか工夫してね、やったもんやが、組合が第二労務課と言われるよな状況がないのか、どうかね。組合員は生活がかかっているわけだから、うちの組合は負けてないか、ちょっとぐらい負けていても、頼りになると思えば発言するわけや。そういう意味で連合の会議で発言が出ないという事と合わせて、単組の民主的な運営がなされているかどうか、という意味で昔と比べてよくなってきたかどうか。昔の先輩のやり方のかっこだけまねているのではないか。その辺で一から点検して見ないといけない。もう一つは、緊張関係なんだが、昔は会社とも緊張関係をもっていたというわけだ。緊張関係がね、単組でも産別でもナショナルセンターでもね、どうかということ。連合の今年の旗開きで日経連の根本会長が「日本の労使関係は、諸外国から高く評価されている。今後も連合と協力していく」と言わせておいて、いいのか。緊張関係という点ではいかがなものか。昔と比べると、緊張関係、民主的な運営という面でも弱くなって来ている。
レッドパージ以後、一時停滞した時期があった。その頃の地区労の任務は、社会党の選挙などが中心だった。運動が前進する中で、運動もやし、選挙もやった。運動が強いと選挙も強かった。やはり信頼関係で、運動で作られた信頼が選挙も生きたわけやね。あの頃が非常になつかしいですよ。もう現役を離れて10年になるとね。 今は生産関係もすでにオートメイションになって、現役の諸君もえらいと思うけれど、何かええやり方を見い出してもらいたいと思います。
生駒:NHKの討論で、鷲尾が、「我々は、これだけ協力してやっているのに。出してくれてもいいのに」というもののいい方をするわけやから。松下の代表も、それは非常に感謝していると。
民守:労使協調の問題ですが、緊張関係が必要なんですね。労使合体ではいけません。歩み寄る姿勢は別なんですが、基本的には、対立関係ですから。
生駒:私鉄も中央交渉がなくなってきましたね。
巣張:全体が弱くなってくると、どうしても弱い方向に流れるんです。
佐野:確か震災のあと、阪急と阪神が離脱して以降、ずっとですね。
巣張:日本の資本は、実に賢いし、うまいわな。歴史的に資本にとって有利な労使関係を作ろうという流れの中にある。60・70年代は、労働組合をどう弱めるかという企業の講習会もありましたし、会社が担当者を派遣したりしてね。最近はそんな研修の話は聞かなくなりましたね。必要性がなくなってきたのでは、と思うんですね。
生駒:今は、リストラのために管理職を研修に出すそうですね。自己を見つめなおせと。帰って来ないことを前提に、金をかけて追い出すわけですね。
民守:ある本屋さんの労組幹部と話をした時に、労働関係の本はまず売れないと、その中でも買っていくのが、明らかに労務関係の担当者が領収書をもらって買っていくと。経営者の方がよく勉強していると。
さらに、労働関係の流動化とも関連して、いろんな労働形態が生まれてきていて、労働運動が付いていけていないんです。それが実態なんですね。しかし、労使の問題として注目する必要があるのがセクハラ問題なんです。労働省のガイドラインも出されて、労働問題として対応していくことが必要なんです。ところが、職場において労働組合がまだ対応できていないんですね。

<セクハラ問題と労働組合>
中村:セクハラについては、企業の側の方が対応は早いですね。特に60億円の賠償になった三菱重工の事件以来企業イメージの問題やら、訴訟になることなど、セクハラが起きたら、企業が損をする、という発想ですね。最近日経連がセクハラ問題で1000円の本を出したのですが、なかなか面白いです。 労働省の研修にも企業の方が熱心だと。組合も女性部があれば、まだ取り組みがあるようですが、女性部がない組合では、まだまだ取り組みが弱いです。自治体でも女性部のない自治体では指針作りも進んでいません。自治体が一番遅れています。
福岡の事件以降100件の裁判が出てきて、企業はイメージ・労働意欲の問題などで非常に気を使っていますね。止めさせら訴訟になるとかね、金の問題ではなく、訴訟やごたごたなど損になりますよ、と日経連の本は書き出していますが、当たっていると思います。
巣張:金属機械の現場を見ても、重い労働はなくなりましたから、きたない仕事も機械がしてくれる。労働のあり方が違ってくると、組合員の気質も変わってくる。今の現役の諸君がしんどいな、と思うのは、油にまみれていた労働者なら、意気に感じてね、頭でなしに、「委員長が熱弁ふるってるで」と、中身別でも「よし、やったろ」という時代だった。技術革新・高学歴化が進むと、どう理解してもらうか、組合の方針を納得させて、運動してもらわないとあかん。また、ずっと専従というのも少なくなってきている。そして政党の存在もある。それと社会主義の崩壊も大きい。ソビエトが存在していた頃には、常に意識していたが、あれがあんなふうに崩壊したものやから。それも含めて、今の現役は大変や、と思う。組織労働者は1200万人おるんやから、この部隊ががんばればね、何とかなるんやから。

<社会主義運動と労働組合>
吉村:僕もそう思っていたんだが、労働組合の活動家というのは、少なくとも社会主義への展望をね、持った連中が中心であり、その周りに共感するメンバーがおって、幹部、役員、組合員と結んでいたと思うわけ。それがね、「なんぼやっても、資本主義の枠内だ」ということになるとね、出てこないですね。
中村:でもスエーデンなんか、面白いですね。社会主義は結構女性差別なんで。ソビエトよりもデンマークなんかの方が面白いですよ。女性にとったらね。
生駒:本来、そういうふうに発展すると思っていたわけだけれどね・・・
吉村:それに関係するんだけれど、職業紹介ね、民間でいう考え方が全面にでてきましたね。ところが職業紹介を政府機関もしくは認定された機関でしかできないというのは、昔は人入れ稼業みたいなのがあってね、ピンはねだとか中間搾取を排除するのが目的だった。それが、民間で、ということが出てきても誰も言わない。そしたら少なくとも20人でも30人でもいい、これは職業紹介だけの問題だけではないけれど、デモがあったら、問題になっていくだろうと。それもで出て来ない。けしからん事に問題提起していく、それさえも無くなってしまった、という状況でね。
民守:有料職業紹介の原則自由化という事なんですが、職業情報、リクルートというんですか、結構トラブルが多いんです。公的なものが絡まないと、いろんな事が起きる気がしますね。現実にトラブルが起きているじゃないか、という事を発信していくのか、悩ましい問題です。
吉村:商業新聞を読んでいても、問題提起する行動が出てこないんですね。民間化していくのはあたりまえという状況なんですが、基本的な事も消えているわけです。恐いと思うね。
中村:私は自治体ですが、民間と事情が違うと思うんですが、昔は安保とか賃金・労働条件もとか単純だったじゃないですか。今はすごく課題が多くて国会にかかっている法案だけでも、10数件取り組まないといけない。また地方分権や政策課題がすごく多い。昔って課題がはっきりしていて、また価値観もすっきりしていた。昔は皆が安保反対など旗を挙げてやってる、みたいなことがあったけれど、今は社会全体が動いているので課題が多いんです。また、反対反対ではだめで、対案が求められている。反対と言っている方が楽なんですね。また、課題でも夫婦別姓、など役員の中でも価値観が多様化していて、これは好きだけど、この課題はいや、みたいに。昔は百貨店みたいに、好き嫌いを言ってられなかったけれど、やる側も専門化していて、これもあれも、とたいへんなんです。自分の変革を迫られているし、組合自身もなんですね。能力も求められるが、当局は担当者が対応するわけで、介護保険の専門家との対応にも勉強しなければいけないから、大変です。
吉村:それは自治体の場合、言えないよ。組合の側にも専門家がいるわけやから。ごみならごみの専門家がね。それをいかにするかということね。

<国労、NTTの次は自治労に>
巣張:それはね、国鉄の次は公務員の皆さんのところへ来ているという気がするわけやね。NTTは国労と違った対応をしたと思うんですね。今ね、大阪府の賃金問題、東京でも神奈川でも、人員の削減なども出てきている。自治労が今後どのように自治体の運動を展開しながら、組合員の利益を守っていくか。それをやらないと敵の攻撃にやられてしまうのでは、と思いますね。
佐野:大阪府が2年間定昇ストップ、周辺の自治体でも一部で定昇ストップ、人勧の値切りも起こっています。今年の年末には、さらに多くの自治体で厳しい状況が生まれると予測できますね。人勧も民間のボーナス削減を受けて、マイナス人勧の恐れもあります。財政危機なんです。しかし、敵の攻撃という面と実際の財政危機の問題があるんです。組合も事業をチェックし、政策提案をしていく必要もあるんです。また、情報公開が進んでいるので、旧来の「ヤミ」部分では耐えられないわけです。合理的で情報公開にも耐えられて、財政的にも可能、市民も納得するような内容を組合からも提案する必要がある、という認識ではないでしょうか。経営参加の方向と言ってもいいと思います。まだ構想段階とも言えますが。

<100万人雇用創出問題>
吉村:その前にね、行革でね、公務員は何人減らすと出たでしょう。それに対してほとんどマスコミには反論がでなかった。一方で100万人雇用創出と連合も日経連も言っているでしょう。あの時には、福祉関係37万人ですか、教員関係は30任学級12万人ですか、・・その時に抜けていると思ったのは環境産業で何万人というのはなかったね。例えば福祉関係への投資も雇用を生むんだという提案が弱いと思うわけ。それは皆分かっているんです。例えば主婦の間に、アメリカからの食物に遺伝子操作されているものがあり、せめて表示するようにという意見が出ていますね。環境監視する仕事も公務員の仕事なんです。そういう意味で公務員組合の側からこれだけの仕事の拡大、公務員が要ると積極的な提案があるべきだと思うんです。福祉・介護でこんな仕事に何人要ると具体的な数字に基づく提案がいる。一方で首きりに反対しつつ、新たな人員増の提案もしていくことが必要です。
巣張:民間で言えば、発言権の拡大と。企業をつぶせば組合もえらい事になるわけで、こっちのイニシアで頑張るときは頑張ると。それと大体似たような内容だと思うわけやけれど。それをやったら若いもんも付いてくると思う。組合員は、一般的な話のときは寝ているわけ。ところが、「我が社の・・・」と来ると、ぱっと目の色が変わるわけや。
佐野:吉村さんも巣張さんも元気ですね。巣張さんはおいくつなんですか。
巣張:この4月で72や。1988年に現役引退。ソビエトの崩壊が89年、全金の最後も89年なわけ。

<連合と全労連>
生駒:組合の中の政党の組織化はどうですか。共産党はどうですか。
巣張:共産党の方も、連合結成で全労連になったでしょう。全労連になったということであかんわけ。職場に共産党がいる、ということで、職場での議論が活発化したという経過もあるわけだ。
佐野:あれは、お互いさまというところがあって、我が方でもそうだが、向こうも、ぜんぜん議論がなくなったのではないか。向こうも緊張感がなくなっている。
巣張:そういう意味では、僕らの「産別会議」の最後もそうだった。全労連は80万とかいっているわけだが、産別の最後は、我が金属は1万人やったわけ。連合は連合で強くなってほしいけれど、少なくとも80万人が結集しているという全労連ももうちょっと見えることをしてもらわんと、と思うわけやね。しかも、絶好のチャンスなはずなんや。前から言っているように、労働組合政策がないんやな。その意味では共産党の諸君が、連合と一緒になってね。力を合わせないと、敵の思いに乗っていく事になるんやからね。総評でやっている時は、あの諸君は元気やったよ。僕はひやかしたことがある。総評解散、連合結成の時に「そない反対するんやったら、総評時代になんで協力しなかったんや」とね。

<小野先生のことなど>
吉村:瞭くん、小野くんが亡くなって何年になるのかな。
小野:今年の11月で9年になります。
巣張:国労問題で今日のような懇談会をやった時、小野先生も来てはったね。あれが最後やったな。
吉村:9年と言えば、私は小野さんより8つ下やったから、小野さん以上に僕は生きているんやな。
吉村:彼はね、森さんも言っていたように、「吉村、おまえは、やる時はやるけれど、やらんようになったら、何もせん、小野と見てみ、彼はいつもやっとる」とね。小野さんの場合は息抜きがなかったと思うんやね。
巣張:原の全さんが小野さんより3つ上やったな。86か7才ですよ。明治45年生まれやから。
吉村:瞭くんらの後に、30代の人が出てこんといかんわけや。僕が市大の組合の委員長になった時、37才やったな。30代のその世代がいるんやね。
佐野:35才ぐらいまでは、まだいるんです。その後は、学生組織も旗を仕舞いましたので。市大最後のMGという奴もいますが。
巣張:あの時分は良かったよ。なあ(笑い)。

2、欧州の新しい社会民主主義の動き

<報告:欧州社民主義の動向について>
佐野:テーマを変えて、私の方から報告したいと思います。その前に私の問題意識として、現在の「労働の流動化」政策、あるいは「日本的労使関係」をめぐる攻防がどうなるのか、含めて、どこかで整理をしたいと思っています。日本的労使関係と言われるものは、実態的には「無邪気な労働者」と「悪徳な資本家」と言いますか、そんな関係はあるとしても、それなりに維持されてきたわけです。それを断ちきって「個人対企業」という関係にすっきりと変化できるのか、それで活力が生まれるのかどうか、経営者の側も全部がその方向なのか、後日、改めて検証する場を持ちたいと思っています。
1997年にイギリスでは、17年ぶりにサッチャーの保守党から労働党が政権を奪いました。サッチャーはすでに降りていましたが、労働党が政権に帰り咲いて、今の状況では、英の保守党はEU統合問題で分裂しているという中、4年後の総選挙においても労働党が勝つであろうと言われています。
イギリス労働党は1994年に綱領改正をしまして、党規約4条から「国有化」条項を削除しました。旧来の社会主義志向を完全に払拭したわけです。さらに、労働党自身を労働組合が利益代表として作ったという経過から、党への団体加盟という制度がありまして、大会をしますと、団体の構成員数によって、例えば9割も労働組合代表に評決権が与えられるような状況がありましたが、この間、個人加盟を重視して、規約改正が行われるなどブレアー党首という人材も得て、[New Labour]=新労働党として再生してきた。さらに、従来の党支持層に、職員層、知識層などの中間層の上層にも、支持を拡大してきています。
イギリス労働党の場合は、党を維持したままで、政策を転換してきた。79年の「不満の冬」と言われる、労働攻勢が労働党政権を倒すという状況以後、党内に社会主義派の台頭、総選挙での敗北などがあり、その後、現在の新しい路線を確立していったということは、これまで日本では余り紹介されてこなかったことです。
また、同様に中道左派政権であるイタリアの場合ですが、こちらの場合は、共産党自身が、自己変革し、左翼民主党になって以後、中道左派=オリーブの木を推進してきたわけです。我々の記憶でもイタリアは構造改革路線というイメージがあったわけですが、80年代を通じて、共産主義から「新しい左翼民主主義」路線に転換し、現在はDS(左翼民主主義者)という大きな勢力を形成しているわけです。少数政党が乱立をして、キリスト教民主党が政権の軸にいるという状況から、汚職事件の続発によって、キ民主党が分裂、一方で中道も加えたオリーブの木勢力が政権を取ったのが、1997年。その間に、選挙制度も小選挙区制に変わってきています。
先程の世代論との関係で言えば、イタリアの場合も60年代後半に学生運動の高揚期があったわけで、その世代の活動家がほとんど現在の共産党に最終的には加わっているということ。イギリスの場合も80年代を通じてたくさんの不満分子がいたそうですが、これらの人々も大きく現在の労働党の中にいるということ。「ベルリンゲルの子供達」という本が出ているそうですが、ベルリンゲルの背中を見て育った世代が、現在の党中枢にいるというわけです。日本の場合は、どうなのかなと思うわけですね。
EU15ヶ国のうち、13ヶ国がなんらかの形で中道左派政権というヨーロッパの状況について、我々も注目する必要があると思うわけです。
民守:イギリス労働党は、労働政策については、どうなんですか。
佐野:政権について以降、最低賃金法の制定、労働関係の法整備など積極的に進めているようです。

<資本主義は勝利したか>
吉村:89年にベルリンの壁が崩壊して、91年にはソ連が崩壊するということで社会主義体制が崩壊すると、しかし皆思っていたけれど、資本主義もそううまくいくはずがないということ。市場の原理ということで、弱者切り捨てというのが日本でも強く出てきているわけですが、そのプロセスの中で、最初の波が95・6年頃にポーランドでしたか、東欧で党が復活すると。それから97年くらいからヨーロッパで社会主義政権が出てくると。これの評価をね、ヘッジ・ファンドのジョージ・ソロスでしたか、市場の原理はあかんと、ヘッジ・ファンドの頭目自身が社会正義が必要と言い出す.
これらを全般的に社会主義の復活というに考えていいのか、少なくとも資本主義がいきづまっていることは、はっきりしているわけで、行きつく先が、カジノ資本主義と言う状況。さらに、そこで言われている社会主義というのが、従来の社会主義とは違うわけですね。少なくとも社会正義というのを追求し、実現していく、その中身を民主主義的な方法で追求していくわけですが、その形態は国によってそれぞれであると、いろんなプロセスがあって、いろいろ内容は違うけれども、それを社会正義の実現という言葉で包括できるものなら、再生ということで考えていいのかどうか。僕は、主観的にそう考えたいと思うわけです。

<マルクス主義理論の再検討>
さらに、もう一つ、マルクス主義が持っていたもの、唯物論哲学から史的唯物論、剰余価値学説、階級闘争論などの、どこが残って、どこが間違っていたのかと。これは一人ではできないので、つまり分業体系でね、検討する必要もあるのではないか、と思うわけです。
少なくとも、今までの私たちのマルクス主義の概念と確かに違う、ヨーロッパの新しい民主主義とね。どこが違ったのか、理論的再検討をきっちり全分野にわたってやらんといかんと思うわけ。それが皆やれていないしね。何人か集まって、それぞれの分野で、こういう所が間違いであったか、ということをね。
それから、どう考えていいのか分からないが、今年ですかソビエト共産党の第32回大会があって、初めて旧ソ連の構成国から共産党の代表が集まったそうです。そしたら、ヨーロッパにおける社会主義化の波とね、ソビエトにおける共産党の動きに関係があるのかないのか。そして、おそらく共産党の32回大会の事なんか、ほとんど知らないのではないか。
それからもう一つ、吉瀬さんですか、イギリス労働党についてお話を聞いたのですが、働いて賃金をもらっているものは労働者だと、ホワイトカラーもブルーカラーも一緒に考えてきたわけだ。しかし彼の場合には、ブルーカラーがホワイトカラー化した、そしてホワイトカラー化した労働者に適応しながらイギリスの新しい社会主義の路線を作っていったと。私にはとても印象的だったんです。理論的には労働者であっても、ホワイトカラーと考えている、そして技術革新でホワイトカラー化しているところで、ホワイトカラー化というものを、どういうように考えるべきか、取り込んでいったらいいか、ということだと思うんです。この層への取り組みに我々に柔軟性が欠けてきたのではないか、と思うわけです。
少なくとも破綻した、と言う事は目に見えてきたと思う。
さらに、労使の関係というのは、売った買ったというドライな関係であるはずなのに、俺は会社に20数年働いてきたと、尽くしてきたのに放り出すとは、何事か、と。本来そんなことはありえないわけです。そういう家父長的労使関係の幻想をどう突き崩すか、ということなんだが。
まとまらないんだけれど、今日もしもう少し人が集まっていたら、何も結論を急ぐh必要はないんであってね、いろいろな考え方を出す、年代が違い、活動の場所が違い、現役からリタイア組みから出してもらって、皆バラバラになっているのを、そういうことを語りあえる場、社会主義のことを語り合える場が少なくなっているから、中央大阪、北大阪、南大阪みたいな場を一月に一度でも集まる場があればね。というのは、皆自信が持てないわけ、話し合いがないとね。
佐野:率直に言いますが、僕らの年代の半数は、自信喪失状態ではないか、と思うんです。それぞれ生活があり、また労働運動をしていたりはしてますが、忙しさに負けてね。半分が自信喪失、半分が何とか踏み止まろうと、していると思います。
吉村:社会主義も言われるようにみじめなものではなかったと思います。ヨーロッパの状況をみてもね。日本が一番ヘンなんですがね。

<史上最悪の失業率とホームレス問題>
巣張:労働者が今の生活をどう見ているのかというところが分からないんだが。失業者は多いし、ホームレスは大阪が一番多いと言うし。それに対しても運動が弱いし、悪い事する奴に対する攻勢も弱いし。総評・社会党やったら、どんどん行動があったと思うわけ。ホームレス問題もや。大塩平八郎の時も町民の米弼が空になった時に奮起したというかね。
吉村:意図的にホームレス襲撃なんてことになったらファシズムになりますからね。ところが、失業率4.4%、300万人とホームレス問題は繋がっているんですから。
民守:ホームレスの問題は、連合でも調査したり、大阪市内で8630人かな。民生対策として検討が始まっていますが、国会の労働委員会でも問題になってます。どちらかと言えば景観問題の面もあります。きっちりとした内容をださないと、治安対策になってしまう危険性もあります。
吉村:新聞に出てましたが、ホームレスが近くにいると、レイプされたとか、うわさが出るそうで、大変危険だと思うわけです。
中村:普通の給与所得者がホームレスになっているようですね。

<民主主義と社会主義の関係>
民守:資本主義の中で社会主義的な政策の取り込が行われているということでしょうか。長銀や日債銀の国有化問題も永続的になれば社会主義ということになるわけですが、一時預かりということで問題になっていない、ということでしょうか。イギリス労働党でもあいりんの問題でもそうですが、労働者主権の下での社会主義政策の実行と資本主義の中での社会主義的政策の一時的導入は根本的に違うものだと思います。もう一つは、労働組合の幹部は、これまで社会主義ということが頭にあったということですが、私の方はそうでもなかったのですが、学生時代そっちの方の勉強は好きでなかったわけですが、どっちにしろ思うのは、女性問題でもそうですが、民主主義というものを社会主義と分離させて考えてきたのではないか、民主主義の究極的な発展形態が社会主義であるとすれば、なおさらなんですが。
吉村:感覚的にそう思うのであれば、理論化せなあかんですよ。一時、民主主義の徹底が社会主義だ、と森さんが言ってましたね。あれをもう少し書いておいてほしかったな。
佐野:生駒さんも反省することが多いでしょう。(笑い)
生駒:反省は多いな。(笑い)そのひとつに、社会主義には生産力理論というのがあって、たいへん色濃く濃厚であった。先程雇用100万人計画の中に環境型の問題が出たけれど、環境問題について社会主義ほど鈍感で、むしろ社会主義国と言われた国ほど、僕は悪い役割を果たしてきたのではないかと。原発問題でもそうですが、私自身もそうですが、それほど重視していなかったですね。しかし、ここまで来ると非常に大きな問題になっているし、人類の未来に関わってきているし、今度、生産力主義の裏返しの問題が出てきているような気がします。その辺で理論的な反省がいるんだろうという感じがしています。
佐野:平等感というのも違ってきていますね。昔なら、服がないから大量生産して衣食が足りたわけですが、今は私はこれが欲しい、私はあれが欲しい、という個性的な欲求を満たす時点での平等とは何か、と言う意味で確かに変わってきていますね。
生駒:吉村先生、先程ロシア共産党の話をされましたが、それはどこで読まれましたか。
吉村:「思想運動」でしたか、「解放」でも見ましたよ。
生駒:反省の上にたっているのなら良いのですが、なにやら民族主義的なものを感じるんですが。本来の民主主義的な意味でのものであればいいのですが。確かに、今のエリチィンに対する反発というのはわかるんですけれど、代案がいいものなのかどうかですね。
吉村:資本主義の一人勝ちではなかった、というのははっきりしていますね。
しかし、佐野君の同年代やそれから若い人の中に、資本主義に敗北したということで、流されていくというとね、。私も思い出すと色々な顔がでているわけだが、どうしているのかな。
佐野:前にも言いましたが、大学時代に研究会で「小野・森だ」でやってて、チュウターなんかやってたやつ程、何かに没頭している、という感じですね。
吉村:何かやっているということだけでもね、それこそ知らせてもらったら、と思うわけです。年賀状はたくさんもらっていますが。
生駒:Eさんなんですが、今あの会社の組合委員長なんですが、ずっとなんですが。
巣張:よーやっているな。
生駒:今日は名古屋に出張で、出られないそうなんですが、この2月にやっと年末の一時金の決着がついて、2ヶ月が1ヶ月になったそうですが・・。それでも組合員はしっかり守っているそうです。あの人はやっているな、と思いますね。
民守:社会主義の崩壊に余り落胆しなかった方なんですが、少なくとも今の社会の中で労働者の利害を大切にするような、社会主義的と言ってもいいのですが、具体的な政策がなされるべきだ、とは思っているんです。例えば、規制緩和ではなくて、労働者保護という意味で規制強化ということも必要なんです。また、小さな政府より大きな政府、また地方分権の推進みたいなことも、社会主義的な政策なのかな、とも思うんですが。とりわけ若い世代については、具定的な政策の議論をしないといけないと思うわけです。

3、現代若者の労働観と変革の時代

<現代の若者の状況について>

小野:学生たちと接していますと、今の若い世代は現在のシステムとは何か非常に違うものを求めているように思います。今とは何か根本的に大きく違うもの、それがあるはずだと漠然と感じながら、それはどこにもないわけです。求めているんだけれど、はっきりした展望としてはどこにも得られない。もっと下の子供の学級崩壊問題などにも、そのことは現れていると思うんですが、要するに何の未来的展望もないという状態です。
例えば、最近のセクハラ問題にしても、あるいは地球環境問題にしても、福祉問題にしても、多くの様々な問題に関して個別の問題としては取り組まれてはいても、一つの大きなヴィジョンに包摂されたものではない。だから、個別問題にのめり込む人はどんどんのめり込むし、そういう単目的運動タイプがどんどん出てくるんですが、それにしても何か違うんじゃないの、という気分はあるわけです。
吉村先生が先程おっしゃったような、マルクス主義とは何だったのか、現実の社会主義世界体制とは一体何だったのか、という話をしてやると、学生たちの心にはすごく入るんですね。びっくりするぐらい入るんです。
つまり、何か漠然とした不満・不安があって、それは我々の頃に「時代閉塞感」と言われたような感覚とはかなり違うのですが、でも多少とも依拠できるような「大きな枠組み」もないし、具体的な解決策も何も無いという状況だからこそ、いっそう大きな展望に惹かれるということです。かなり、時代の雰囲気は変わってきていると思います。30代がいないという話がありましたけれど、むしろ20代の中から出てくるのでは、という気がします。

民守:組合の中でも、団塊よりも若い人の方がグループでいろいろやっているという印象はあります。もちろん統制型ではなくて。阪神大震災のは特にそれが出ました。何かをしたい、というエネルギーですね、三無主義とか言われながらね。我々と違った価値観なんですが、求めているといんは感じます。障害者運動なんかにも若い人がボランティアに来てますし。若者に、将来へのビジョン、メニューの提示が出来てないように思います。

小野:私自身が学生だった頃と比べて、学生たちの気分が根本的にどこが違うかと言えば、労働というものに対する考え方が違うわけです。我々の頃は、卒業したら企業に入ると思い込んでいて、しかも入社する企業は大きい方が良いというのがあたりまえであったわけですし、そこからドロップアウトしたら人生破綻する、ということでした。
今の学生は、そんな風には全然思っていないんですね。好きなことがしたい、好きなことをして趣味と実益が合って儲かればそれでいいと。それが見つかるまではパートでもなんでも良いから、フリーターみたいなことをする。それで十分食っていける。要するに「自分探し」ということをやっているわけです。
労働観そのものが、ガラッと変わったと思います。それが何を意味しているのか、ということです。私は、今、これまでの企業観・労働システムが、巨大な変革期に直面しているということではないかと考えています。この労働観の変化というものを、きっちりと理論化していくとすれば、どのような理論作業が必要なのか。
確かに、今の若者たちの行動パターンは、我々が保持してきた価値観・労働観からすると、どこか無責任でいいかげんに写るんですけれど、そうではないんです。生き方そのもの、生きがいそのものが時代として変わってしまっているんです。これは日本だけでなく世界的な傾向で、アメリカなんかもっとずっと進んでいる、ヨーロッパでもそうです。日本はかなり遅れている方でしょう。
労働観・人生観に関わる、そういう雰囲気の変化、価値観の変化をベースにして、ヨーロッパでは新しい形の社民主義政権が誕生している。この欧州の社民政権の考え方は、確かに以前の社会民主主義とはまったく違う、そういう価値観の変化、労働観の変化というものを多少なりとも取り入れたからこそ大衆に受け入れられているのだとは思います。しかし、今大切なのは、じゃ、その先に何があるのか、その先を考えることではないでしょうか。
今のヨーロッパ型社民の考え方、いわゆる「第3の道」というものですが、私は未来への道はこの志向性の中には無いと思います。確かに、それなりに新しい考え方ではあるけれども、考え方そのものはずっと昔からあるものを焼き直しただけですよね。考えるべきは、根本的な労働観の変化のその先に何があるのか、ということをもっと大きなグランドセオリーとして出していく必要があるのではないかということです。

<小林よしのりの「戦争論」>
中村:関係あるかどうか、なんですが、小林よしのりの「戦争論」が流行った時に私思いました。若い子は自己実現を探していると思っていたけれど、そうじゃなくて、あれはとてもわかりやすく書いてあって、ひどい文章だけれど、すごい大反響でベストセラーになったでしょう。ほっておいたら「国のために死ねるのか」みたいなのに行ってしまいそうで、・・・難しい説教調でなく語り言葉で話すんですね。「国のために死ねるのか」というのが新鮮だったんでしょうね。

小野:今年、私のゼミの学生が卒論に取り上げたのが、その「戦争論」だったんです。議論もかなりしました。要するに、小林が語っている問題は、戦後の民主主義の潮流が覆い隠してきたものなんです。きちんと議論をしてこなかった、避けてきた。当然、その中に様々な矛盾があったはずで、そこをうまく突いている。国家という枠組みを前提した上で国家とは何かを考えれば、当たり前の疑問ばかりですから、国家に関する何の思考訓練もしていなければ、彼らの論はすっと染みとおるように入るのです。やっぱり、グランドセオリーを作る中で、戦後50年、隠してきたものを逆の意味で真剣に議論する必要はあると思います。
例えば、自由党の小沢党首の改憲論的考え方についても、やっぱり同じように学生たちに入り込んでいます。小沢党首も、そういう同じ点を突いているわけですね。「普通の国」なら軍備を備え、愛国心を涵養するはずだ-そうした議論に対して、国家とは何かを曖昧にしたままの従来型護憲論の枠組みを根本的に変えるような、あるいは一国平和主義的な偏狭な国家論に基づく考えを変えて、民族国家の思考枠組み自体を超える新たな世界平和のグランドセオリーを建てないと、とても対抗できないと思います。でなければ、これは必ず負けると私は思います。
私は、自衛隊と平和憲法を如何に両立させるかに関して、自衛隊から日本国籍を奪い国連常備軍(自衛隊員は日本国籍を失い史上初の「地球人」となる)として無償提供すべきだとの主張を論文に書きましたが、世の中はとてもまだそこまでは至っていないようです。

中村:学生の人は、小林よしのりを批判する立場ですか。
小野:もちろん、受け入れるほうです。ずっぽりと。
巣張:こっちの方がないんやからな。
民守:若い人に、仮に「社会主義」という価値観が通用しないのだとしたら、なおかつ危険な方向に行かないようにする立場をさがすか、という議論になるんでしょうか。

<社会主義的「企業家」の問題>
小野:まだ旧ソ連が健在だった90年に、オレグ・シャフナザロフという人が、「私的所有-静かなる革命」という論文を書いていまして、私はそれを亡くなる直前の父から読んでみろと教えられ、父の死後、91年にその紹介論文を大学紀要に書きました。シャフナザロフが何を言ったかというと、人々の私的所有に基づく経済的自立ということが最も大切なことであって、私的所有そのものを認めなければならないと、ソ連社会主義体制の中にあって主張した訳です。彼は全ソ労働組合の研究所のスタッフでした。
そうした考え方が旧ソ連に出てきまして私は驚きましたが、実はそうした考え方の源流は50年代、60年代にすでにあったわけです。80年代に、ハンガリーで「社会主義所有論争」という有名な論争がありましたが、それ以前から「社会主義的企業家」=社会主義が目標とすべき最高の価値目標は、人々が自立した企業家として、経済生活を自由に作り出していけるよう支援をしていくべき、という考え方があったのです。リシュカ・チボールというハンガリーの経済学者が60年代から唱えていた説です。私は80年代後半に、このリシュカ理論を勉強しまして、これはすごい、1960年代からこんな考え方を共産主義体制の中で唱えていたということにびっくり仰天しました。
実は今、この考え方は、中国にプラグマティックに取り入れられていて、国有と国営は違う、国有であっても民営でやれるというような考え方に変わってきて、いわゆる「社会主義的市場経済」という形で唱えられています。これは、共産党が国有主体である限り中途半端に終わるでしょうし、うまくいくはずがないと思いますが、考え方自体としては非常に面白い、新しい考え方です。本来、社会主義の議論には国有化論が付いて回るわけですが、国有にして誰が管理し運営し収益を上げることができるのか、それは民営でかまわないよと。そこでは、「所有と経営の分離」として現れている、資本主義の下での所有問題とも同質の問題があるわけですが、このさらに先に、所有と利用との積極的切断が土台となったときには、所有の概念そのものが変わってくるわけです。
古来、革命的変革とは、所有主体の変更を伴うものです。今、起こりつつあることは、所有概念それ自体の根本的変化への動きです。これは、国家論の問題とも直結することになります。ひと頃、「社会有」ということが議論になったことがありましたが、社会有という概念の下での徹底的な民営化をリシュカは早くから唱えておりまして、そうした方向が有り得るのかどうか、徹底的に議論する必要があると思います。

4、「市場(いちば)経済」と資本主義経済

<「いちば」の思想と「しじょう」の思想>
私は、「非資本主義的市場(いちば)経済システム」、別の用語で「万人起業家社会論」と名付けている構想を唱えているんです。つまり資本主義経済システムではないけれども、市場(いちば)経済システムではある、market economyではあるということです。このネーミングは全然受けないので、何か他に良い名前があったらお教え頂きたいのですが。要するに、すべての人が経済的に自立・自律し、自己の経済生活を自分の力で築いていくための経済社会的な土台を如何にすれば築いていくことができるかということです。 このことを理解するには、市場とは何か、資本主義とは何か、に関する原理的考察が必要です。何よりも先ず、「市場」という経済学用語を如何に理解するかが問題となります。これまでの経済学では、その漢字を「しじょう」と読んで、「いちば」と読んではならないと教えてきました。私はそれを「いちば」と読めと教えています。
「しじょう」という読み方は、西欧経済学を輸入してきた日本独特の言い方です。西欧経済学を輸入した時、その経済学はすでに「マーケット・エコノミー」を「価格メカニズム」として定義していました。現実の「いちば」で何が起こっているか、人々の思いがどんな交換関係となって渦巻いているか、そうしたことを一切捨象して、「モノ」と「モノ」との交換比率を表現する、きわめて抽象的で数理的な「価格メカニズム」理論に置き換えてしまっていたのです。日本に経済学が輸入された時、日本の学者たちは「いちば」という具体的な場で起こる複雑極まりない現象・状況をすべて説明する新理論として、それを了解しました。その結果、「マーケット」を「いちば」と翻訳するのでなく、「しじょう」と読ませることで、そうした西欧経済学流の価格理論を意味する言葉として定義したのです。その結果、今でも経済学の教科書の1ページ目は、価格メカニズムの説明から始まります。
マルクス経済学の場合は、ご存じのとおり「商品」から始まります。どちらにしても「モノ」から出発する。マルクスは商品というものに隠された人間関係というものを、商品を解き明かして行く中で追求していくわけですが、少なくとも出発点は商品という「モノ」であって、彼が問題にしたのは商品に含まれる労働量なんですね。
私はまだ教科書を書いていませんが、書くとしたら、1ページは「交換」、つまり市場(いちば)での交換。交換するのは人間ですから、交換の「場」において、人間と人間がどのような思いで取り引きをするか、どのような情報や知識のやり取りをするか、それが経済学の出発点でなければならないのではないか。つまり「モノ」ではなく「ヒト」が出発点になるべきだ、と一生懸命に言っているわけです。市場(いちば)とは、人と人とが対応して、相対取り引きをする「場」、交換の「場」としての市場(いちば)なんです。マーケットとは、きわめて具体的な交換の場そのものです。そこでは、毎日のように無数の交換が行われ、無数の人々の複雑な思いや欲望や諦め等々が錯綜しています。そこで成立する価格関係は、そうした無数の要因の刹那的一断面に過ぎないのです。
「いちば」とは無数の人々の思いから成る「場」なのだとすれば、一人の思いが変われば、価格関係も変化します。それは無限の価格が成り立ち得る、無限の変化可能性を孕んだ「場」なのです。そこに「経済法則」と呼べるような定型的関係は成立しませんし、「等価交換」などという関係も一切成立してはいません。これまでの経済学は、ヒトが行う交換行為を「価格メカニズム」や「経済法則」の中に押し込め、ヒトの要因を徹底的に排除しようとしてきました。経済学において、優れた「理論モデル」とは、ヒトの恣意的意図が一切寄与する余地のない、ヒト抜きの抽象的・数学的モデルのことでした。ヒトの関与要因を一切消し去ったモデルこそが、エレガントなモデルとして学問的に評価されてきたのです。
しかし、ヒトとは、無限に複雑な存在なのではないでしょうか。ヒトが創り出す現実の経済現象から、ヒトを消し去ってしまったら、そこに残るのは非人間的な自己満足的学問に過ぎないのではないでしょうか。私の経済学である「万人起業家社会論」は、出発点にヒトがいます。ヒトどのような思いと共に交換に参加していくか、交換を通じてどのような経験を得るか、それが私の経済学の第一頁です。

<資本主義をどう定義するか>
昔、大阪市大の院生であった頃、教授連中をつかまえて「先生、資本主義を一言で定義してください」と聞きまわったことがあったんです。一言で定義できる教授は、一人もいませんでした。それは、彼らが市場経済に関して従来の理解の枠組みに止まっていたからですし、資本主義経済と市場経済との違いなどという原理的概念を何一つ考えたことがなかったからです。彼らは「資本」概念すら定義できませんでした。
私が資本主義と言う時、それは「法人企業主義」を意味しています。資本主義とは、要するに「資本」が主人公であるような経済社会システムのことですが、資本とは、すなわちその体現者=実際に資本を処理し管理し運用している法人企業のことですから、資本主義というのは要するに「株式会社主義」なんです。
そうすると、非資本主義=資本主義ではない経済システムとはどういうことか。それは、法人が主人公でないということです。では法人企業支配社会をどう覆すかという事ですが、法人企業が主体でなく、人間個人一人ひとりが経済主体と成り得るような、究極の民主主義みたいなシステムを考えています。実は、それこそがマルクスの希求したものでした。株式会社でもなく協同組合でもない、個人をベースとする協同的事業形態をマルクスは模索しました。マルクスは一番最後の晩年に「株式会社でもなければ、協同組合でもない、新しい協業形態とは一体何なのか」を一生懸命考えましたが結論は出ませんでした。
その答えというのが、「万人起業家社会論」の中にあるのではないか、と思うんです。
民守:反論するわけではないですが、封建社会が資本主義に発展する過程には、今おっしゃっている非資本主義的市場経済が存在したはずですね。
小野:そのとおりです。
民守:それでは、そこへ戻るということですか。
小野:違います。結局、この考え方を体系化するためには、すべての学術用語の再定義が必要になります。例えば、先程、今までの市場(しじょう)という言葉を、「いちば」と読めと言ったことは、「いちば」における人間の交換行為を如何に理解するかに直接に関わってきます。
そういう市場(いちば)関係はつまり交換関係であって、サルからヒトになった時、ホモ・サピエンスと呼ばれるようになった時、すでに存在したのではないか。ヒトというのは、対他関係を抜きにしてあり得ないですよね。対他関係を持ちうるものをヒトと呼ぶととりあえず定義すれば、その対他関係は必ず「交換」であった。交換される中味はモノの場合も有り得るし、情報の交換、あるいはヒト自体(奴隷)でもあった。人類史とは、その発生の最初からそういう交換関係を前提にしており、つまり交換の場としての「いちば」が存在していたのです。
サルとヒトとがどこが違うか、それはモノとモノを「やり取り」するかどうかということです。生態学的とか動物行動学的にいろいろ議論はありましょうが、経済学的にみれば、要するにサルは相手の持つモノが欲しければ奪い取ることしかできませんし、また高等なチンパンジーでは自分が獲得したモノを獲得でなかった弱い相手に対して贈与することはできますが、自分のバナナを差し出して相手のリンゴと交換するような、高度に抽象的な媒介・相互評価能力を必要とするようなことはできません。
つまり、ヒトの特質というのは、他のどんな哺乳類・類人猿にもできないような「交換」ができるところにある。だから、人類史は、交換の場としての「市場(いちば)=マーケット」を使ってきた歴史を持っているんじゃないでしょうか。封建時代であれ、古代、先史時代であれ、すべて市場(いちば)関係というものをベースに社会が成り立ってきた。その市場(いちば)のやり取りがベースになって、そして制度的に複雑化され組織化され、また「いちば」の自由が拡大され「いちば」への参加者も拡大していくプロセス、それが人類史ではなかったか、と私は思います。

<法人支配が資本主義時代>
その一つの今日的発展形態が資本主義なのです。だから、資本主義経済という概念と市場(いちば)経済という概念はまったく違うものです。ところが今までの「しじょう」読みの経済学は、市場経済=資本主義経済とほとんどイコールと見なしてきた。市場経済と言えば資本主義のことであり、資本主義経済と言えば市場経済というように、暗黙のうちに考えてきたのです。ところが、「いちば」経済と資本主義経済とは、概念的にまったく違う。だから、その概念を区別するところから経済学は出発するべきではないか。
ポスト資本主義の時代を考えても、市場(いちば)経済を離れることはできません。つまり、経済時代を画するメルクマールは、そういう市場(いちば)経済を、誰がどのような形で支配してきたか、ということ。武士であるのか貴族であるのか、あるいはその土台に奴隷制があるのか農奴制なのか、そういう違いです。資本主義時代には誰が市場(いちば)を牛耳っているのか、法人企業(株式会社)でしょう。
非資本主義的市場経済システムへの方向は、少数の巨大企業が「いちば」を支配するようなシステムから、個人一人ひとりが主体となって「いちば」に大規模に参加し「いちば」を駆動させていく新たな時代への前進であって、当然、個人の自由が平等に保証される新たな民主主義の土台の大規模な建設・拡張をもたらす方向への変化なのです。それは、個人が身分制や土地に縛り付けられていた資本主義以前の封建主義や、古代・中世の農奴社会への後退であるはずがありません。マルクス流の言い方をすれば、それは「資本主義が達成した巨大な物質的成果を土台に、その上に打ち立てられる個体的所有の再建」そのものなのです。その意味で、数年前に、「21世紀にこそ可能な共産主義?」という論文を書いたことがあります。
法人制資本企が経済の支配的担い手として登場してくるのは、19世紀の終わり頃からですね。資本主義がいつ出来たかって言う議論ですが、いろいろな議論がありますが、その本質に着目すれば、19世紀であって、それ以前の17・18世紀は、プレ資本主義ということができる。そういう新しい規定ができる。
そして、法人企業が主導型の市場(いちば)経済システムというものは、もう今や崩れつつある。私はその意味で巨大な変革期である、と言っているわけで、それは先程申し上げた学生たちの気分の中にも、極めて濃厚に現れてきているわけです。もう法人企業に就職するのは嫌だ、という形で。それから、どんどんドロップ・アウトしていく、自立していく、起業家として。退職者が自分で会社を作る、また女性が仲間のネットワークを使って、また優秀な技術者がどんどんスピンアウトしてしまう、インキュベーションをやる、という世界的な、あらがい難い現象。つまり、資本主義はそういう意味でつぶれつつあるのです。ある意味で、インターネットは資本主義の敵だとすら言えるかも知れません。

<起業家をどう育てるか>
だから、労働運動・民主主義運動の課題という点からしても、起業家的な自立をどう育てていくか、ということが運動の基本課題となるべきでしょう。自治体も一生懸命インキュベーションをやっていますが、あれは本来、労働組合や民主主義勢力がやるべき仕事ではないか、と思います。起業家の卵を育てるということ=経済的自立の道筋と土台を作っていく(インキュベーション)仕事ですが、今はほとんどの自治体がやり、国もやっています。通産省がベンチャービジネス協議会というものを作りましたが、大学もインキュベーション講座を作って、関西でも立命館、龍谷、同志社など、関東ではほとんどの大学が作っている。
今までの労働組合運動は賃金・雇用条件を守るということが基本任務でしたが、今はそうではなくて、人間として生きていくための土台つくり、社会的システムつくり、というのを本来やるべきではないか、と思うわけです。
民守:言っていることに誤解があるかもしれませんが、雇うものと雇われるものとの関係というのはこれからもあると思うんです。小野さんの言われることと私の考えが一致するとしたら、企業に従属する労働者ではなくて自立する労働者というものであろうかと、職業能力開発ということが言われますが、労働者自身が技能や技術を高めることにこれまで無関心であったことは事実だろうと思います。これらの支援事業が労働組合の要求でできたかと言えば、職業能力開発=研修=管理強化・労働強化、みたいな教条的、依存的観念が存在していたように感じていますが、そのあたりは一致しているのでしょうか。
小野:おっしゃるとおりだと思います。特に雇用という問題ですが、マルクスの同時代人にジョン・スチュアート・ミルという偉大な思想家がいますが、彼が主張したのは、「雇用関係の廃棄」ということなんです。「雇う・雇われる」という関係そのものが人格的従属・依存関係を生むんであって、これこそ個人的自由の最大の敵であると。その延長線上で「自由論」や「婦人解放論」を書くわけです。他方、マルクスはそういう言い方では直接言及していない。あくまでも労働対資本という問題設定なんです。

<田畑稔さんのアソシエイション論>
実は、数年前に、田畑稔さんが「マルクスとアソシエーション」という本を出されています。私はあれを読んでびっくり仰天して、これはすごいなと思ったんです。つまり、先述しましたマルクスの有名な「個体的所有の再建」という概念がありまして、これは平田清明さんの市民社会派と共産党派の間で何十年も前から議論されて、決着ついていなくてわけがわからないままになっているんですが、田畑さんは「個体的所有」の問題に絡んで、マルクスにおける「個体性」ということを徹底的に掘り下げているんですね。
つまり、ミルが言ったような「雇用関係の廃棄」という問題意識も、マルクスも当然前提として持っていた。やはり共産主義が実現すべきは、徹底した個人的自由であって、その実現の上に人々が新しいつながり方をどうやって創っていくのか、っていうことであって、だから「自由な生産者の連合」につながるわけなんです。
実はマルクスは、「社会主義」という言い方をおそらくしていないと思うんです。私まだちゃんと調べてないんですが、あくまで「共産主義」だと。その共産主義というのを私たちは社会主義だと思っています。ですからレーニンにとって社会主義化の第一歩は電力の国有化だったわけです。つまりすべてを国有化することが社会主義だったわけで、それを通じて共産主義へ、という道筋が描かれたわけです。
実は、マルクス自身はそうではなかった、ということを田畑さんは一生懸命書いているわけです。この指摘は非常に正しい指摘じゃないか。マルクスが例の個体的所有の再建という部分だけに、フランス版資本論を何回も書き直す、最晩年の作業ですがそこだけにこだわって、一生懸命推敲しているんですね。マルクスが何を考えていたのか、我々は原点に帰って、考え直さなければならないのでは、と思います。
佐野:失業に関する本が出ていまして読んだんですが、アメリカでリストラやアウトソーイングということで中高年の人が結構首きりにあって、その人たちが、例えば経理業務、税務などを引き受ける仕事を作りだしているというのがありました。日本の管理者層ならば、「経理部長はできるが、経理はできない」みたいな人がたくさんいるそうですが、アメリカの場合は首きりにあった人がたくさん会社を創ったという話なんですが、それは繋がる話でしょうか。

<非資本主義化しつつあるアメリカ>
小野:まったく同じ話です。要するにアメリカ社会というのは、半分は、もう非資本主義なんです。つまり、アメリカの国民の中上層部に属する人々は、企業への長期従属意識なんて全然持っていません。ある時期企業にいることがあっても、2・3年すると政府の役人してたり、また2・3年すると大学の教授してたり、あるいは全部一緒にやっているとか。これはもう、私の定義によれば、資本主義ではないんです。
アメリカ中上層部のかなりの部分で出来ているということは、その裏返しがあるわけで、それが黒人差別やマイノリティ、ブルーワーカーへのしわよせとして出ている。だから、アメリカの下半分は完全な資本主義、上は資本主義じゃなくなりつつある。ただ、一人ひとりが自立するようになると、リスクという問題が出てくる。生活のリスクをどうするのか。病気になったり、女性が出産したり、その時にどうするか。当然、人間も生き物で動物ですから、生まれた以上は生きなければいけない。人間以外の動物は何も労働しないで、もちろん「労働」しているわけですが、天からの恵みがあるわけです。人間だけなんですね、天からの恵みがないのは。狩猟採集生活をすればもちろん生きていけますが、まあ人間は労働をしなければならない、でもそれは個人のリスクに全面的に依存してなされるべきではない。そこに「社会有」という形態が支えうるのではないか。

<バングラディッシュのグラミン銀行>
私は「生涯生活必要基金」と言っているのですが、動物への天与の恵みのような、人間が一生涯生きていくに必要なものが、人間社会にあっては社会全体のシステムとして当然保障されなければならない、と私は思います。江戸時代以前には、「講」のような相互扶助システムが成立していました。今日の種々の社会保障制度やさまざまな手当て、退職金、生命保険などとして、部分的にはシステム化されています。でも、それらの多くは「天与の恵み」のようなものではありません。
一つの具体例ですが、バングラデシュ、世界で一番貧しいイスラム国ですが、貧しい国の中で最も貧しく、人間扱いすらされていないのは女性なんです。その女性達の自立をどうやって支援するか、そして発展途上国の内発的テイクオフをどうやって実現していくのか、という課題について、チッタゴン大学のムハマド・ヤヌスという教授が80年代前半に、グラミン銀行という画期的な銀行を創設しました。これは、何一つ担保らしき所有物を持たない最底辺の女性達に、無担保でお金を貸していくものです。ごく些細な額ですが、それで牛一頭買う、網かごを作って売りに行く、しかもグループを作らせて連帯責任を持たせる。そして回収していく。回収率は、バングラデシュの市中銀行では半分以下が常態となっていましたが、グラミンでは85%以上という驚異的な成績です。
銀行というと店舗を構えて人々が来るのを待っているのが普通でしょうが、グラミン銀行は違いまして、村へ出かけて金を貸すわけです。しかもタダ貸すだけでなく、一緒に経営指導や生活指導・栄養指導など事細かな支援態勢を組んでいます。女性の場合は、避妊まできっちり教えるというような、一種の総合的生活改善運動なんです。例えば、何年か前の国連人口会議で注目されたのが、バングラデシュの出生率の劇的な低下なんです。それはグラミン銀行の活動があったからなんです。これは、大変な評判になりまして、一つのモデルとされた。
これが1982、3年頃ですが、爆発的にバングラデッシュ全域に広がりまして、さらに同じような方式を取り入れる国がどんどん広がっていっています。先進国でもニューヨークのゲットーの黒人達を対象に自立支援銀行ができ、日本でも「市民バンク」が設立されるなど、そういう形で世界的に大きな運動になってきている。最底辺の人々、寝たきりのお年寄り、障害をもつ人々、幼子を抱えた寡婦等々が、どのように自立していけるか、それをどうやって助けていくか。それがすべての運動の出発点であり、前提とならなければならない、と私は思います。
民守:おっしゃることはよく分かるし、原点としては理解できるんですが、現場から見ますと、まだシステムが出来ていない段階で、・・・・皆路頭に迷うと思うんです。現実政策としてそれを対置するとたいへんな事になると思うんです。根本にする愚論としては、いいと思いますが。

<若者をどう組織化していけるか>
佐野:結論の一歩手前という意味での話なんですが、我々の組織というのはまだまだ統制型の運動なんです。今の若い人を考えると、それではもたない、ということは分かっているんだけれど、その次を考えると、今のお話は考えるヒントになると思います。
民守:労働組合も、ある意味では銀行などとおなじで護送船団方式であった。ただ、すぐに、そうのように変えていくというのもうまく行かない、個人加盟の組織に変えていくこともそうですが。
小野:例えばですね、この多くの人々が自立し自律的経済生活を自ら切り開いていく、そうした現象が日本でも社会現象として起ってきていますし、退職者やリストラされた中高年者たち、普通の家庭の主婦グループなど、市民レベルでの「起業」が増加しています。ただ、特に手を差し延べるべきは、今の学卒者でしょう。半分ぐらいは就職できていません。へんな格好でフリーターやっているというのが半分の半分くらいです。就職しても大企業なんか、うちの大学では無理なんで、もうどんどんやめて行きます。一年経って手紙をよこしたりすると、職場が変わっている。挙げ句の果てに、どんどん自立していきます。整体マッサージ師になったり、あるいは情報関係でゲームソフトを作ったり、やっぱり時代は変わっているんだな、と思いますね。そういう人々、若い層の自立を助ける運動をもし本格的に起こすことができるとしたら、大きな勢力になりうると思います。それから退職者、リストラされた人、そういう人々を繋ぐんですね。それらの人々は力はあるわけですから、その力をどうやって使ったらいいのか、要するに人に使われる経験しかありませんから、自立する踏ん切りがつかなくて、自分を使ってくれる企業や人を探すのが先になってしまっているわけですが、とにかく自分で立ち上がりなさい、という支援活動が
これからの労働組合運動にも不可欠ではないでしょうか・・・
民守:管理職でリストラされた人々は、求人活動をして、「何ができますか」と言われて「私は管理職です」と言ったという話がありますが、そういう意識をどう変えるか。

<労働組合はまだまだ閉じた世界>
佐野:今日の話は、労働運動をテーマにしていますが、巣張さんの現役時代とは違って、今、労働運動の世界は非常に狭い世界になっていると思います。うちの組合でもね、非常に閉じた世界になっています。ただ、私の場合は、環境の市民団体とのつきあいとか、今日のようなつきあいとか、いろんなチャンネルがあるので救われていると思っています。それがなければ本当に狭い世界なんですね。完結した世界というのは、本当に困るんですね。
巣張:今のままの日本の労働組合を見ていると、特権階級の組合に行きつつあるように思うわけだ。先生も言われたような労働者がどんどん増えているわけやね。本工はどんどん減らされているわけ。今の労働組合は差別をね、本工以外の労働者への優越感を持ってね、他の労働者にどう訴えていくのか、ナショナルセンターの活動は、政府とちょこっとやってね、労働条件は企業連の中で、みたいな、今の先生の話を聞くともっともっと、労働組合が運動をしなければいけないわけだ。むしろ今まで以上に、労働組合の運動が強まるということが必要なんやね。昔から企業別労働組合ではなんぼやってもあかんで、諸外国のように個人加盟の労働組合にしないとアカンと、前から言われながら定着している労働組合の歴史を、良い意味で変えていく。今解散してもあかんし、個人加盟でつくってもね、東京の内山さんもね、個人加盟の合同労組などを評価されている。しかし、それはそれなんだが、存在価値からみたら、百人増えたとかねそんな状況では、巨大な勢力になるかと言えば、僕は無理やと、あの展開から見ればね。それは、それとして、今の連合運動に刺激を与えていくとか、・・。
ただ、今の先生の話を聞くと、企業別か産業別か、みたいな問題は飛び超えているね。
中村:私、すごく(小野さんの)授業を受けたいと思った。すごく分かる。うちなんか凄く安定していて、係長にならなくても凄い給料がもらえるんです。悪いことさえしなかったらね。そんな中でも、若い人って、 人間関係につまづいたり、自分で飛び出して農業をやっている子とか、医者をめざしている子、外国のNGO活動をしている子とか、いろいろいるんです。きちっと準備をしてね。
おとうさん(小野義彦氏)の授業を受けた時も非常に感動したけれど、・・・凄い学生に人気があるでしょうね。

<大企業に入らないアメリカの学生達>
小野:学生に、いつも最初にアンケートを取るんです。大きな会社で安定的に働きたいと思っている人、手を挙げてと言っても、3分の1いませんね。毎年減っていますね。じゃ、君は何をするのというと「まあ、フリーターかな」って言うわけです。親はそうして欲しくない、と言うそうですが、会社って嫌という子ばかりですね。私が「君たちのそういう感覚は正しいんだよ」と先ず最初に言うと、すごく授業に乗ってくるんですね。僕たちの学生時代の感覚とまったく違う、君たちの感覚こそが新しい時代を創るんだよ、そういうことを社会のシステムに定着させていくことができるのか、それを考えるのが経済学なんだよとね。

民守:国立大学とか私学とか、大学によって意識は少しは違うんでしょうね。
小野:ただ、こういう感覚は先進国の中で日本が一番遅れているんです。アメリカなどはるかにもっと先を行っていまして、88年頃だったと思いますが、全米経営者連盟というほとんどのビックビジネスが入っている団体ですが、ここと商務省が連名である声明を出したんです。「学生諸君、大企業に入りましょう!」というアピールなんです。どういう事かと言うと、アメリカでは一番優秀な学生は大企業には行きません。彼らは学生時代に事業企画書、プレゼンテイションを作って、こんな会社を作りたいと全米を飛びまわっているんです。大学在学中に企業を作っている。ですから大企業に来るのは、優秀な学生ではないんですね。ですから、大企業のモラルが80年代、非常に低下したわけです。アメリカでは深刻な社会問題にまでなった。それで「声明」になってでてきた。大企業に入ろうと。アメリカはとうの昔にここまで来ているんですね。日本でも遅かれ早かれそうなります。ヨーロッパでも同様ですね。
民守:優秀の価値観が、日本と違う、ということもあるでしょうね。どちらかというと、知識偏重主義ですからね。
小野:集団主義、組織主義なども先進国の中でも、日本の特徴ですね。
民守:同窓会をすると、ドロップアウトした奴が会社の社長、というのが多いし、よく勉強できた奴が公務員ね。
佐野:僕らもドロップアウト組でしょう。勉強せんと旗振ったり、デモばかりしてましたよ。

<ドラスティックに変貌している大企業>
巣張:その観点から行くと、松下でも富士通でも、退職金をね給料の中に組み込むという賃金を導入しているでしょう。今の若い人はこれに賛成だということは、アメリカなんかの例を見て、優秀な若いのを企業が取りたい、というのがあるのかな。
小野:企業の内部そのものが、大きく変わってきているということなんです。昔は、従業員引きとめ、家族的雇用関係とか労使協調路線で来たんですね。ソニーや松下などの大企業は、ドラスティックに変わっています。リストラの人減らしではなく、むしろ社員個人を鍛えるために「出ろ」と言うんです。外の衛星会社や、企業内別会社を作らせて、分社化してしまうなどの変化は今では当たり前に起こっている。こうした変化に、労働運動も民主主義運動もまったく対応していないわけです。例えば富士通に行きますと、従業員が皆違うバッチを付けています。4つくらいの色がありまして、なぜかと聞くと、正社員は1割くらいしかいなくて、後はみんな出向や派遣だというわけです。派遣の形態も単純なものから、いろんな形態があるようで、働いている8,9割が富士通の社員ではないわけです。こんな形態があたりまえになっている。これに対してどうするのか、という話は聞いたことがないですね。
生駒;富士通自身も、外国からの部品の組み立てをしているだけ、みたいなね。
小野:アセンブリなんてしていませんね。
民守:企業の組織形態に変化が出ているのは、管理職は一人、トップは一人だけで、あとは皆フラットなんですね。提供型・参加型で会社運営がされている。それが広がりつつありますね。
小野:大阪に「類塾」というグループがありましす。もともと塾なんですが、非常に伸びて、もう塾なんてものじゃない一大企業集団です。入ってきた新入社員をいきなり社長にするんです。そして、会社をどんどん作れ、というわけです。ありとあらゆる事をやっています。社長の公選制とかも広がっていますし、やりたい奴は手を挙げろとか、社員は2年ぐらいは社長を経験するローテイション制のところも出てきました。大企業のドラスティックな変化というのも結局同じことですね。
民守:労働運動、労働問題に関わるものとして、大きく事情が変わってきていることは事実なんですが、ただそれに柔軟に、或は対抗的に対応できる労働組合なのか、それはどちらでも良いと思うわけです。ただ、その変化を見実据えた対応なのかどうかが問われると思います。見えていない、というのが現状と思います。
中村:たまごクラブのベネッセ・進研ゼミも面白いですね。新入社員に企画を出させる。だから企画ができないのが、こぼれていくわけ。たまごクラブがヒットしたのも、育児書は市場としては開拓しつくされた分野だったのに、女性社員が「おばあちゃんの智恵」を集めようと、おばあちゃんのネットワークを全国につくって発行してヒットしたらしい。企画したのは若い女性社員だったそうです。
佐野:結論を出さないのが、懇談会でして、刺激を与えあって、次に続けたいと思います。私の構想としては、次は教育問題を取り上げたいと思います。今後2ヶ月に1回程度を定期開催できれば、と考えていますので、協力をお願いして、終わりたいと思います。(編集責任:佐野秀夫)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

カテゴリー: 分権, 対談・意見交換 パーマリンク