【本の紹介】『汚名 いわれなき元党員が、27年の沈黙を破って告発!』

【本の紹介】『汚名 いわれなき元党員が、27年の沈黙を破って告発!』
       油井 喜夫(ゆい よしお)著、99/6/20、毎日新聞社発行、1600円

<<「格好つけんじゃねえよ!」>>
「なぜ査問されることになったか、わかっているな」「実は・・・」間髪を入れず諏訪の鋭い怒声が査問部屋に響きわたった。「釈明権はない! やったかやらなかったのか、質問にこたえればいいんだ!」「調子にのるな!こたえればいいんだ!」「君はもう底が割れてんだ。いまさら格好つけんじゃねえよ」、白眼を剥いた諏訪が、ものすごい形相で私をにらみつけた。
これは、ここで紹介する『汚名』に登場する「査問」のほんのごく一部のさわりでしかない。ヤクザ顔負けの恫喝のセリフである。あるいはよく刑事もののテレビドラマで登場する硬軟両用に脅す取り調べデカの例のセリフでもある。口汚くののしり、脅しているのは、日本共産党中央委員会常任幹部会委員で同党東京都委員会委員長でもある諏訪茂書紀局員である。突如入院中の病室から連れ出され、四日間にわたって薄暗い査問部屋に連れ込まれ、それこそ締め上げられ、ついにはありもしない、したがって身に覚えのない「新日和見主義分派」に連座したことを供述させられたのは、元共産党静岡県委員で民主青年同盟中央委員・同静岡県委員長であった油井喜夫氏である。

<<「屈辱的な敵性分子の扱い」>>
なぜ著者はデッチ上げの供述調書を書かされ、署名することになったのであろうか。当然の疑問が浮上する。氏が何度も繰り返している「共産党の反戦平和・主権在民・弾圧に屈しない、すばらしい歴史と伝統に対する畏敬」、これが先見的に思考や行動を制限し、結果としてその宗教的な帰依にがんじがらめにされていたことからきているともいえよう。。しかしその無謬の絶対性と信仰にも似た党への信頼は、自らの体験を通じて崩れ去ることとなった。
現実の「査問」に直面して氏は、「屈辱的な敵性分子の扱いを受け、党の私に対する信認が地響きを上げて崩落しつつあることを知ったとき、私は衝撃の余り、なす術を知らなかった」という。党本部の中の迷路のような複雑な通路を通った薄暗い陰気な小部屋に閉じ込められ、諏訪をはじめ、茨木良和(幹部会委員)、宮本忠人、雪野勉などといったお歴々の党の幹部・査問官たちに取り囲まれ、「露骨な敵意と憎々しげに見下した」脅迫の連続の中で、一日中取り調べられ、宿直室風に仕切られた留置部屋と査問部屋を一日一往復する。「あとは、監視人付きで便所に行くことが許されるだけだった」。
さらに「取り調べられる者は他と完全に隔離され、行動の自由は奪われる。わずかな自由と言えば、査問からいっとき解放された夜の闇のなかだけだった。しかも添い寝人・大須賀の監視のもとである」。この添い寝人・大須賀は党静岡県委員長として当初油井氏の理解者として登場するが、たちまち豹変、自殺防止の監視人として添い寝する。

<<「苦痛からの解放」を求めて>>
「査問官に肝臓で入院中であることを告げたが、彼らは誰も体調を気にしなかった。体力が急速に衰え、肝臓障害によくある疲労が急激に全身を覆い始めていた。査問官たちは、私を病院からひっぱりだしておきながら病状にたいして一顧だにしなかった。彼らは肝臓障害の病態がいかなるものか、無知だったというかもしれない。しかし、病院に外泊が延びるという連絡すらとらせなかった。」その非人間性は弁解の余地などまったくないものである。
共産党の査問は素直に応じれば応じるほどつけあがって過酷になる。「私は査問の進行とともにこうしたやり方に背筋の震えるおびえを感じた。」そして、「査問されるごとに自分で自分を追いつめる、供述書の書き直しは人間の精神を破壊していく」、こうしてついに、「私は苦痛からの解放を求め、査問官に迎合的になった。そして、六中総に反対したと供述させられた」のであった。共産党指導部が強調してやまない「民主集中制の原則」を堅持した「自主的な本人の意志にもとづく供述調書」の完成である。
しかし「諏訪茂が、密室の査問部屋であれほど私を脅しあげた、朝鮮人参・分派資金・反党旗あげ計画に至っては、何一つでてこなかった。」彼らの官僚体制維持というさもしい根性と知的道徳的退廃がこうしたでっち上げとフレームアップを拡大させ、デマの破綻が明確になり、引っ込みがつかなくなって登場してきたのが「新日和見主義」であったともいえよう。

<<「道を歩けないぞ」>>
著者は、「終わりに、個人的意思--査問官・諏訪茂書記局員の虚言により、強制下の密室でなしたいっさいの供述は無効であり、私はこれに関連するすべての文書を撤回する--を表明して本稿を閉じることにする」と言明している。当然のことである。共産党はこれにどう答えるのであろうか。いまだ答えられないのである。
氏は振り返って言う。「一般社会の犯罪容疑者も留置場に監禁され、人権が制限される。しかし、彼らには黙秘権がある。ところが『代々木』の査問部屋にはそれがない。釈明権すら否認された。党規約の実行という大義のもとで、容易に人権を蹂躙していく党体質が、ここに鮮明に浮かび上がってくる。」「党規約の発動としての統制行為が、日本国憲法の奴隷的拘束の排除を保障する自由権を超えるとするなら、それはこの憲法が定めるものとは異質のものとなる。」
査問官の諏訪は「君らのことを公開すれば道を歩けないぞ。いま住んでいるところに住めないぞ」と脅している。もし彼らが権力を握っていれば、スターリン、毛沢東体制と同じくでっち上げ裁判や公開銃殺、あるいは都合が悪ければ拷問やリンチを通じて闇から闇へと異見を持っていたものは葬られていたことであろう。

<<不破「政治倫理の問題です」>>
こうした体制の権化でもあった宮本顕治氏に代わって、今や共産党の最高責任者となった不破哲三委員長は、どう答えているのであろうか。不破氏は、日本記者クラブで、新日和見主義「事件」の「査問」に関連した質問に応えざるを得なくなり、次のように語っている。「『査問』問題というのは、これは政党のなかのいわば政治倫理の問題です。党大会で人民的議会主義という方針が決まったときに、『それはおかしい』という人たちが、いわば一つのグループをつくって、かなり手広い活動をやっているのを、調べたということであって、これは政党としての自己規律の問題、政治倫理の問題です。こういうことがいわば派閥をつくる問題になりますから、われわれはそれを認めていません」(1998年9月13日「赤旗」)。これだけである。あとは一切黙して語らずである。「政治倫理」とはよく言ったものである。知性と人間性による説得などとはまったく無縁でおよそ最低限の倫理性も欠落したこうした「査問」行為への反省などひとかけらも見られないのである。
油井氏はこれに対して、「それは、一般社会でいう調べとはおよそかけ離れた非人間的なものだった。しかし、それを調べであったとサラリといってのけた。私は、この感覚に驚かざるえない。それなら、疑わしい党員を調べるため、今後も監禁のうえ、人権無視の査問を行うというのか。共産党の政治倫理とは、意見を持つ党員を、派閥をつくる問題になるから調べの対象にするというのか。しかも、新日和見主義『分派』を人民的議会主義にたいして『それはおかしい』といったグループだったと単純化してしまった」と憤りを込めて批判している。

<<スパイKの登場>>
この『汚名』の中でスパイ問題が登場している。
「1974年前民青中央常任委員・大阪府委員長のKが公安警察のスパイとして摘発された。つづいて翌75年、現職の民青愛知県委員長らもスパイであることが発覚した。ところが愛知のスパイの親玉は前愛知県委員長・Nであることがわかった。私は、KとNの摘発記事が「赤旗」に写真付きで載ったとき、強い衝撃を受けた。私達を処分した主要幹部だったからである。彼らは新日和見主義糾弾で大いに活躍した。Kは、1960年5月、入党する以前から権力機関の人物と接触を持ち、潜入して以後も知り得た党と民青、民主団体の動向などを逐一権力機関に報告するとともに、詳細にメモした各種の会議ノート、資料なども売り渡していたという。」
実はこの本の紹介を書いている筆者自身も、このスパイKこと北島の直接の指揮と臨席の下に除名された経験を持っている。さかのぼること10年以上も前の1962年から63年にかけてのことである。当時の党指導部に忠実であった川上徹氏らの「平民全学連」というセクト主義的で分裂主義的な方針に頑強に抵抗して内部闘争を展開していたのである。北島は当時民青大阪府委員会の副委員長であったと記憶しているが、共産党の8回大会綱領路線と絡めて執拗な挑発と分裂を持ち込んできたのであった。内部に挑発に乗せられ、あるいは呼応するものがあり、共産党本部からは熊野某などが派遣され、それこそ「取り調べ」が行われ、結局は除名処分に至ったのであるが、私たちはこれに黙して語らずというのではなく、すぐさま当然の権利として、除名処分の不当性を訴えた意見書を党および民青の中央から全国の府県委員会にわたって発送した。この処分に関する調査団が派遣され、大阪府委員会直属として処分は撤回された格好にはなったのだが、もちろんなしのつぶてであった。それはある意味では、大衆運動の利益を守る上では好都合でもあったし、成果もあった。しかし反省すべき点も多々あったと考えている。

<<「もどかしさや空しさ」>>
しかしこの本の著者・油井氏ら「新日和見主義者」と烙印を押された人々のほとんどは、実に27年間も沈黙を続け、共産党に貢献し、誠心誠意支えてきた。油井氏は、にもかかわらずついに沈黙を破って今回の手記を発表するにいたった動機を次のように述べている。
「この手記を書けたのは共産党を離党したからだと思います。私のなかに党への二つの思いが複雑に屈折していたようです。一つは、すばらしい歴史と伝統に対する畏敬、もう一つは、共産党の閉鎖的な体質に対するもどかしさや空しさ、そしてこの党が社会の進歩に沿った真の党改革を行わなければ、やはり一部の支持にとどまり、多数の人の支持をえることはできないだろうという思いです。」
「まもなく新世紀がやってくる。私は党の体質を思い切って民主的・公開的に改革する時代がやってきたと考える。共産党はさしあたり査問体質を公然と廃絶すべきである。政権をめざすならなおさらのことだ。この体質を廃絶しないかぎり、この党は『いざというとき、何をするかわからない』といわれても仕方がないと思う。査問体質の廃絶は、党体質の真の改革の大きな一歩になるだろう。」
本誌253号で妹尾健氏がすでにその前に刊行された川上徹著『査問』について、「『査問』という体験を通して共産主義者としての自分の生き方をどうつらぬいてきたか、その『歴史』が本書であるのだ。そう考えるならば査問以後25年を経て今日川上氏がその体験とそれ以後の思索を公けにしたことの意味があきらかになるはずだ」と述べておられる。油井氏の今回の著作についても同じことが言えるのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.261 1999年8月21日

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