【書評】『戦争はどのように語られてきたか』
(河村湊・成田龍一・他、1999.8.1発行、朝日新聞社、1800円)
「戦争論」「戦後論」についての論争が盛んになり、いわゆる「自由主義史観」なるものが唱えられて、歴史の「書き換え」を要求している状況がある。他方で戦争に関して、「現在の私たちは、カラーのテレビ画面に中継される曳光弾の光や、燃え上がり、崩れ落ちるビルや瓦礫の山を見て、遠い所で起こっている悲劇が、生のまま日本の茶の間やオフイスに入り込んでいることを不思議なこととも思わないで、見ている」状況がある。
本書は、このような時代に「『戦争』の語り方、語られ方だけでなく、『戦争』の『見せ方』『見せられ方』についても、私たちはもっと語らなければならなかっただろう」という問題意識を持つ、文学者・河村湊と歴史学者・成田龍一が、ゲストを迎えて行なった鼎談集である。個々のゲストとの話の内容は、本書を繙いていただくとして、その骨格は、成田によれば、次の所にある。
すなわち「総力戦」(日本の場合には1931年の『満州事変』にはじまる『十五年戦争』を意味する)についての「語り」は、1945年から現在まで、三つの時期を経てきて
いるとされる。
(1)「1945年から60年代後半くらいにかけては、否応なしに戦争に巻き込まれたという被害の意識が強く、語りは、かかる惨状に『われわれ国民』を追い込んだのは誰か、(略)『われわれ国民』はなぜ戦争を阻止できなかったのか、という観点からなされました」。
(2)「こうした戦争観は、1960年代後半に変容を見せます。さまざまな立場で戦争に関わった当事者が、それぞれ異なった視点から戦争を語りはじめたのです。『加害者』である『われわれ』という意識は、この時期の語りから影響力を持ちはじめます」。
(3)「そして90年代に入ると、第三の語りというべきものが現われはじめます。(略)これまでの二つの語りはともに、被害者であるか加害者であるかはともかく、『国民』という主体を前提にしていました。しかし、ここでの語りの前提だった『国民』の自明性が疑われるようになったのです」。
このように、第一の時期の「『被害者』われわれが、被害者『われわれ』自身に向ける語り」、第二の時期の「空襲の体験記録、沖縄戦の証言など、『私』の体験に基づく語りによって、『される側』からの戦争像」を経て、現在、「第三の語り」が出現したのである。このことは、「さまざまに『われわれ』がありうる中で、何を『われわれ』と考えるのか」を問うことであり、「『語りの位置』が問題にされること。誰が誰に向かって、どの立場から戦争を語るのか」が問われていることを意味する。
本書は、この問いかけを各々のゲストに投げかけることを通して、現在における「戦争の語り方」を解明しようとする。
例えば、社会学者・上野千鶴子との鼎談(「戦争はどのように語られてきたか」)では、第三期になってからの最大の出来事として、「元『慰安婦』の金学順さんのような、文字どおり被害者であった人びとが、過去の語りなおしをはじめたこと」が指摘され、「これは決して事実の発掘でも隠蔽された過去の暴露でもなく、語りなおし、過去の再定義」として評価される。
また小説家・奥泉光との鼎談(「大岡昇平『レイテ戦記』を読む」)では、戦争体験と歴史的事実の語り方の問題として、「敵ー味方の双方から複眼的に見ることは必要なことだが、さらにその対立項からこぼれ落ちる第三項を無視するわけにはゆかない」ことが言われる。戦記というジャンル自身が持っている「フィリピンの目、ジェンダーの目、死者の目」を覆い隠す問題についての鋭い言及であろう。
さらにこれと関連して、言語社会学者・イ・ヨンスクとの鼎談(「従軍記から植民地文学まで」)では、「国民国家」を形成する日本のナショナリズムがつくり出した日本的文章や感性が指摘される。そして「戦争責任と植民地責任の重なる『植民地』と『占領地』での文学活動」の明確な位置付けが要求される。
このように本書は、従来の戦争像と、この戦争像によって根拠づけられていた「戦後」社会の自明性への問いかけを提起する。しかしこの問いかけは、左からに限られず右からも出されているが、本書では、その代表格である小林よしのりの『戦争論』について、こう語られている。
「「戦争論』が多くの部数を発行しているというとき、読者がそこに読み取っているのは、歴史修正主義を接ぎ木したような『歴史像』ではなく、原理主義にもとづく歴史の裁断の語り方──『ごーまん』な歴史の語り方にひかれているように思います。(略)したがって『戦争論』を論ずるときには、歴史像もですが、それ以上に歴史の語り方を俎上にあげねばならないでしょう」(成田)。
まさしくこの意味で、「戦争の体験を持たぬ人びとが、どのように戦争を記憶し、解釈し、戦争像をつくってゆくかということ」(戦争の歴史化)、「新たな戦争の語りを希求していくことが開始されている」のである。この状況を考えれば、本書の提出した問題は大きいと言わねばならない。(R)
【出典】 アサート No.265 1999年12月18日