【書評】『未葬の時』 桐山襲(きりやま・かさね)
(講談社文芸文庫版、99・11・10)
92年に今の私と同じ42歳で急逝した桐山襲の代表作「風のクロニクル」「スターバト・マーテル」と絶筆「未葬の時」の三編を収めた初の復刻文庫版。右翼からのバッシングもあって、謎の作家だった彼の年譜や顔写真も今回公表された。
初めて単行本で「風のクロニクル」などを読んでからもう15年ー。
70安保ー全共闘運動を担った私より少し上の団塊の世代は今、リストラの嵐の渦中で苦闘しているが、70年前後に早稲田大学で学生生活を送った桐山は、その短い生涯において「革命」を夢と幻想の中でのみ語り続けた。「社会主義リアリズム」などではなく、民俗学、神道、琉球弧の歴史など多様なモチーフでこの国のありようを問い続け、しかも歴史の暗部で抹殺された「死者」へのまなざしを持ち続けた稀有な作家だった。私個人は「縛られた巨人」南方熊楠と神社合祀反対運動のかかわりなど、今なお有効な貴重な示唆を受けたと思っている。
「風のクロニクル」は、ある大学(モデルは早大)の闘争の中で「革命の葬儀屋」(お分かりでしょう)なるセクトに頭を割られ、廃人となって郷里のK半島(紀伊半島)に帰った友人Nを見舞う主人公が、かつて神官だったNの家の暗い歴史を知る。《楠》の一字を名前の中に持ったNの祖父は明治政府の神社合祀令、つまり神々のリストラ、《東方の祭王》にまつろわぬ神々の抹殺の嵐の中で姉と共に唯一抵抗した人物だった。村人に殺された姉は死者になっても子孫を生まないよう、陰部に剣を突き刺され、祠に埋められる。
この作品にはもう一つ、やはり内ゲバで殺される女子学生橘素子が沖縄出身だったというモチーフがある。エピローグでは「この国のまつろわぬ最後の神の砦」の祠が掘り返され、陰部の剣が引き抜かれる日、ぼくたち三人の「黄泉返り(よみがえり)」の物語は本当に開始される、と決意する主人公。寓話の手法を取っているため、陰惨な物語なのになぜか、人を奮い立たせるカタルシスを感じさせるのだ。
「スターバト・マーテル(悲しみの聖母、の意)」は、連合赤軍事件がモチーフ。「革命」の名のもとに殺された十四人の兵士たちが埋められた森の奥地の穴が十二年後のある日、人の肌のように温かくなっていたー。同じころ、かつて銃撃戦があった山荘の女主人は屋根裏から男女一組の恋人が雪の中へ消える幻を見たー。日中戦争で虐殺の限りを尽くした銃砲店の老店主は「夥しい雪片を身に纏い、顔を黒く塗った」14人の若者が銃を徴発しに来た夢を見るー。(八路か)と最初思った老店主は「彼らはもう一度、最初からやり直すつもりなのかもしれない」と思う。そして山荘の女主人は、処女だった自分が幻の恋人たちの子どもを身ごもっているのに気づくのだー。
桐山の作品は、84年のデビュー作「パルチザン伝説」以来、ほとんどを単行本で読んできた。そこで常に考えてきたのは、公式マルクス・レーニン主義、小野経済学、森哲学などをかじっても、人の世の「闇」の深さにたじろいでしまう自分のありようだったと言える。連赤事件などをただ単に陰惨な社会事件、あるいは党派理論の誤り、ととらえず、もしかしたらあの時代、誰でも迷い込んだ「闇」ではなかったか、と考えてきた。それを近代百年のスパンで民俗学や宗教学なども動員しなければ読み解けないと考えた。
私の場合、南方熊楠の存在は作家の桐山から、蓮如のことは五木寛之から教わった。桐山文学はいずれその手法と真の意味が評価されるだろう。機会があれば次回は中上健次「日輪の翼」とNHKドラマ版のことも書いてみたい。(広島・S)
【出典】 アサート No.265 1999年12月18日