【書評】日本の生活文化(大衆文化)の中に「日本人とは?」を問う
『日本人のこころ──原風景をたずねて』
(鶴見俊輔編、岩波書店、 1997.12.27発行、1900円)
『日本人のこころ』と題する本書は、哲学者・鶴見俊輔が、映画評論家・佐藤忠男、作詩家・永六輔、漫画評論家・四方田犬彦、作家・池澤夏樹の四人との対談を収めたものである。この中で、話の主題──映画、歌、漫画、物語──を通して、「日本人とは?」ということをさまざまな角度から浮き彫りにしようとする。そしてその結果、次の二つのことが確信されることになる。すなわち(1)日本社会内部における「近代化」(国家権力による近代化の強制と、日本社会単一性という虚構)がもたらした社会の歪みや差別と、これに抵抗する民衆の姿が、多層的・多焦点的に同じ日本人の中に存在していること、(2)さらには、日本人を問題にしようとすれば、必然的にアジア諸国・諸民族との関係に行きつかざるを得ないし、これを抜きにしては日本人というものについて語ることができないこと、である。以下この点に留意して、本書を紹介しよう。
佐藤忠男との対談『映画を通してみる日本人のこころ』では、日本映画の辿ってきた道筋が検討される。この中で佐藤は、「我々は日本的ということがあたかも存在するように簡単に考えますが、日本的なものというのは実際は存在しないと思いますね。日本的なものというのはいろんな階層に分かれておりまして(後略)」、「そのように日本の伝統というのは非常に多様なものであってそれぞれお互いまったく矛盾している。侍の文化が日本的だとすれば黒澤明が代表していると思うのですけれども、溝口健二が代表している町人文化的なものとはまったく、ほとんど相容れないし、小津安二郎が代表している小市民、知識人的な文化ともまったく相容れない。ほとんどお互いまったく相容れないような伝統が日本にあって、そのどれか一つを日本的と言ったってしょうがないんですね」と述べて、その中で、バラバラに存在してきたこれらの文化を、日本映画だけがごちゃまぜにして発展してきたことを評価する。
そしてその上で、日本独特のものだと思われてきた事柄が、実はアジア一円に広く存在していることを指摘するが、ただし佐藤は同時に、「アジア人が日本映画を見る時と欧米の人間が日本映画を見る時では微妙な違いがある」と重要な指摘をする。つまり「アメリカ人と日本人はね、どちらかというとお互い同士力を尽くして戦ったいい相手という気分が時にアメリカ人の気持に湧き起こることがあって、本当は軽蔑しているんだけれど、時々寛大な気持ちになる。しかしアジアの人たちはそうはゆかない」。「日本は中国を好敵手とは思っていなかった。頭から軽蔑していた。それは中国人にはよくわかっていますから」ということなのである。ここにわれわれは、日本とアジア諸国民との歴史感覚のズレを明確に認識していく必要があるように思われる。
永六輔との対談『歌を通して語る日本人のこころ』では、明治政府による日本古来の音階とリズムの否定と、西洋音階とリズムへの強権的な移しかえを批判した永の発言を受けて、鶴見は日本の近代化について、次のように語る。
「それが日本の近代化のリズムで、ものすごい力で近代化して、そのリズムの変化によって軍隊も強くなるし、ビジネスも強くなった。戦争に負けたら今度はビジネスひとつで、アメリカの主要な製品の自動車を凌いだでしょう。こんなことやる力、近代化の原動力一部に確かにリズムの強制という問題がある」。
そして小学校の唱歌に存在する強制力についてこう語る。
「小学唱歌をずっと歌ったり、聞いたりしていくと、日本の政府がこう思ってほしいと思う日本の歴史の図柄が浮かんでくる。あれは大変なものですね。子供たちの内部に国家像を植えつける。リズムと歌の言葉を通して、それをやり遂げたのが日本の近代国家の力なんです」。
しかしこの方向で近代化が進んでいく過程で、明治初期には存在していた冷静公正な眼が、日露戦争以後消え去って、敵をさげすみ、自分を絶対化する思想が支配することになる。その例として、日米戦争末期に流行した「出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし」という歌があげられ、これについて鶴見は、「負けが近いという事実をまっすぐに見すえることなく、こうやって空威張りして威張っていたんだ」と的確に批判する。そして「明治国家のつくった小学唱歌のまゆの中に私は今も閉じこめられている」という彼の言葉に、われわれはイデオロギーによって取り囲まれた社会の強さと危険を認識することができる。
さて次の四方田犬彦との対談『漫画を通してみる日本人のこころ』は、本書の白眉である。この対談で四方田は、1950年代から現代にいたるまでの日本の漫画を4分割して解説する。それは、・日本の漫画が差別や少数派、マイノリティ(在日韓国人、アイヌ人、あるいは被爆者といった権力の外側に排除されてしまう人間)をどのように描いてきたかというテーマ、・そのようなマイノリティ、あるいは差別された人間がいかにそこから逃走するかというテーマ、・また逆に差別を受けた人間がいかに闘っているか(忍者ものなど)というテーマ、そして・逃走でもなく、闘争でもなく、ある種のニヒリズム、絶望、懐疑に陥ってしまうというテーマ、の4分類である。
その詳細については、本書の50ページにわたる四方田の解説を読んでいただく他ないが、この中で特徴的なことは、差別とマイノリティという、一般市民が触れたくない、できれば忘れたいと思っている事実について取り上げている漫画作品が実に多いということである。このことについて四方田は次のように語る。
「手塚治虫の漫画は単なる科学とヒューマニズムとか、人類愛とか、そんなふうに一般にいわれているのですが、実はよく調べてみると、いかに彼が差別された少数派を主人公にしているかが判明します」。
「これは、調べてみてわかりましたが、梶原一騎の漫画の登場人物の半分くらい在日韓国人なのですね。つまり力道山であり、大山倍達、さらに柳川組の組長(略)、これは日本という国家から排除されていた人間であるということがだんだんわかってくる」。
「水木(しげる)さんという人が、非常に主題が一貫している人で、人間社会のそういう権力構造とか社会体制とか、差別構造からいかに出るか、解放されるかということが主題になっています」。
これに対して、鶴見は、「漫画と権力批判、漫画と民主主義というのは不可分の問題なんです」と応えて、さらにこれに加えて、『サザエさん』の重要性を指摘する。
「長谷川町子は明らかに、戦争をひきずっている。戦争のなかから出てきた女性なんですよ。(略)前線の水木しげると違う仕方で、長谷川町子は銃後の戦争体験をしっかりつかんでいると思います。水木しげるや長谷川町子らの仕事は大岡昇平の『レイテ戦記」と向き合っている」。
この対談を読むことで、われわれは、日本文化において漫画の占める重要な位置を知るとともに、それがもつ社会批判の力(それはまた、日本近代社会での天皇の名の下での強権的統一化・富国強兵化に対する批判でもある)を確認することができる。
最後の池澤夏樹との対談『物語を通してみる日本のこころ』では、鶴見は、池澤の『ハワイイ紀行』について、「沖縄から日本本土を見る姿勢になる。日本本土が別のものに見えてくる。(略)そこに私たち本土に住む日本人をまきこむある種のうねりが生まれる。それは、太平洋があって、そこに火山島ができる話なんですから、人間なんかそこにいなくても、海があるという話なんですから」と説明を加えて、近代をこえた「ものすごく長いうねりの中で」「そして空間的な広がりもものすごく大きな空間の広がりの中で」日本を見る姿勢を評価する。
というのも、鶴見によれば、自分というものを考える時に「他人というクッションを使って他人にとっての私として見るほかない」ように、自分の国についても外側の諸国から考える他ないのであるが、「そのクッションを巧みに使えなかった、使えないようにしたのが、明治以後」であり、「外側を見ないような装置ができちゃった」からである。
この点については、池澤も同意見で、次のように述べる。
「明治以降の日本というのは、多分先進諸国に対する恐怖感から身をこわばらせて、猫が毛を逆立てるように──あれをやると大きく見えますからね、ふわふわなんですけれど──そういう形で緊張のあまり判断力がなくなっていた。不安になればなるほど幻想にしがみつく。客観的に見れば勝てるはずのない戦争に精神主義で突入してしまう。
そういう、今にして思うと実に分かりやすい誤謬の道を歩いていたとぼくは思うのです」。
このように四つの対談は、そのジャンルが異なるとはいえ、いずれも「日本人」と「日本人のこころ」に迫る試みであり、最初の方で指摘したように、日本人が多層的・多焦点的な存在であり、そしてその外側=アジアの諸国・諸民族との関係を抜きにしては語ることすらできないことを銘記するべきであろう。
なお本書の書評にも関わることであるが、『アサート』上に掲載された「戦後民主主義を問い直す」作業に従事されている織田氏の提起された問題について触れておきたい。というのも、これまで何回かの書評において、これに関わる事柄を取り上げているからである(例えば、『鶴見俊輔座談・日本人とは何だろうか』・225号、『近現代史の授業改革』・226号、『買売春と日本社会の構造』・230号、『現代日本の社会秩序──歴史的起源を求めて』・242号等)。今回のものも含めて、これらの書評を読まれれば理解されることと思うが、「戦後民主主義」をどう見るかという問題は、現在の日本社会をどう見るか(内側からと同時に外側から)という問題と不可分であるということである。
そしてここで重要なことは、「日本という近代国家」が成立してきた歴史的経過を解明することではないかと思われる。例えば、「日本民族」という言葉自体が近代的で新しいものであるという事実や、この国をそのようなものとして無理にまとめてきた明治政府の強権的政策の内容(教育、軍隊、宗教、天皇、戸籍などの諸制度から、時間・空間・人間関係・身体にいたるまで拘束管理社会の形成を目指した)などは、まだ充分に解明されているとは言い難い。本書でも指摘されているが、「日本的なもの」ということの中味が多種多様であるという中で、「世界史の中に日本の歴史を位置づけなおして見なければならないのではないか」(243号に掲載された織田氏の言葉より)という問いは、そう簡単に明々白々たる答の出るものではない。しかし少なくとも「世界史の中で日本の歴史を位置づけ直す」にあたっては、日本がアジア諸国から、過去においてどう見られてきたのか、また現在どのように見られているのか、という視点だけは落とすべきではないと考える。(このことは現在に関して言えば、アジア諸国への経済進出やODAの評価のみならず、それらの国々での買春ツァーや子供ポルノの大半に日本人が関係しているという事実等をも含めての日本の評価が必要だということである。)(R)
【出典】 アサート No.244 1998年3月20日