【本の紹介1】「査問」川上徹

【本の紹介1】「査問」川上徹 筑摩書房 97年12月20日

最近興味深い2冊の本を読んだ。「書評」というところまでま行かないが「紹介」ということでお許し願いたい。

その1
査問という言葉は、「業界用語」である。その業界とは、共産主義運動に関わる、或いは関わった人々の世界のことである。日本共産党の党規約第59条第1項に「すべての党員は党の規律をかたく守らなくてはいけない。党員の義務を怠り、党の統一を破壊し、決定にそむき・・著しく党と人民の利益に反するものは規律違反として処分される・・・」とあり、これに基づく「調査審議」が行われるというが、その「調査」が査問ということになる。著者川上徹の場合、1972年5月9日から13日間、代々木本部で身柄を拘束され、「査問」を受けた。容疑(?)は「新日和見主義分派の首謀格」。
著者をはじめ、民青全学連再建当時の書記長だった新保、学生対策の広谷俊二はじめ、民青本部だけでも20名を超える人々が査問の対象となり、最終的に処分が決まる72年9月には民青中央委員108名中30名が自己批判などの処分を受け、他にも民青本部勤務者、全国の都道府県委員会など、査問を受けた関係者は、灰色決着も含めて600名とも1000名ともあったという説もあると著者は言う。著者をはじめ民青の専従であった人々は職場を追われ、それぞれが厳しい人生を歩んできたという。
すでに25年が経過している。私も学生時代、日本共産党・民青の中に「新日和見主義」という分派活動が発覚した云々ということを知っていたし、73年に共産党が出した『新日和見主義批判』という本を読んだことは覚えている。それにしても、25年が経過した歴史とも言える事実を今になって、という気になる。
川上は、1960年に東京大学に入り、共産党入党。64年には民青全学連を「再建」し、中央執行委員長となり、その後民青本部の専従となる。本書によれば、大学紛争期には、民青本部の学生対策員として、東大闘争などで民青の指導的立場にあった。本書では回想的に、民青・全学連グループと党の青年学生担当で、意見の相違が生まれ、民青大会が延期になっていた経過も触れられている。

この事件で、川上たちは、党を除名というわけではなく、また大半は党籍は残したまま一党員として生活するものが多かったという。川上自身も本書によると、晩年は党に批判的であった哲学者の古在由重の死後、追悼集会を企画したことで党から除籍扱いの決定を受け、91年に「離党」ということになった。こうした経過を経て、この本は書かれた。
ところで、「新日和見主義」とは、一体何だったのか。本書の内容を要約すれば、大学紛争終了後の学生運動を舞台に、大衆運動を強めようとした民青や民青全学連グループと党員拡大や学習路線という党強化を進めようとした宮本共産党路線の「論争」が、一方的に党内民主主義の破壊によって、川上らが「分派活動」として批判された事件ということになろう。さらに、その特殊性は「新日和見主義事件は日本共産党内部で起こった一種独特の『お家騒動』であった。・・しかし『事件』の結果として断罪された者達も、数少ない除名者も、すべての関係者が長期間にわたって党員の論理、党の組織原理で終始行動した(沈黙という消極的行動も含めて)という点で、その内部性はほぼ完璧なほど保たれてきた」という。彼らは中央委員を解任され、また本部勤務という「職場」から追放されることになった。
今になってみれば、これらの人々を「追放する」ことで、日本共産党は一層純化していったのだろうし、論争を保障しない組織が、人権侵害を平然と行い得るのか、今もそう変わってはいないだろう。著者の淡々とした語り口、また60年代に学生運動に関わり、70年へと至る運動過程への自己回顧には真摯な姿勢が滲んでいる。共産党への批判というよりは、自らの人生を語るという落ち着いた文章には、同じ処分を受けた同僚との固い信頼感が溢れている。是非一読願いたい著書である。(佐野秀夫)

【出典】 アサート No.244 1998年3月20日

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