【投稿】「歴史観論争」で気になること
1.「自由主義史観」の一大キャンペーン
時代を逆行したような「歴史観」が強烈にふりまかれている。その先鋒となっているのは、藤岡信勝氏が代表を務める「自由主義史観研究会」であり、同氏の著書「教科書が書かない歴史」は続編と餅せて数十万部のベストセラーとなり、書店にも山積みされている。これにあわせるかのように、産経新聞をはじめ、「正論」「諸君」「VOICE」「SAPIO」「サンサーラ」など雑誌では繰り返し藤岡氏らを登場させ、戦後の歴史教育に対して、「すさまじいばかりの暗黒史観・自虐史観・反日史観のオンパレード」「誇るべき歴史を共有しない限り、国民の自己形成はない。事態は極めて深刻である」などと非難・攻撃のキャンペーンを大々的に展開している。また、「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝東大教授代表、小林よしのり、大宅映子、西尾幹二、林真理子ら)などは文部省に対して中学校教科書における「従軍慰安婦」の削除などを求める動きをおこしている。
こうした一連の動きに対して教科書裁判等を通じてで日本の侵略の事実を明らかにしてさた教師・学者らを中心に真っ向から反論も行われている。しかし、まるで水と油の議論で全くかみ合っていないようであり、あまり注目はされていないように見受けられる。また、朝日・毎日などのマスメディアも有効な反論を行いえていない状況である。本稿では、藤岡氏らの主張をみる中で、こうしたキャンペーンやブームの背景を探るともに、気になる点をあげてみたい。
2.「自由主義史観」とは?
<自由主義史観研究会の考え方>
「自由主義史観研究会」の考え方は「教科書が教えない歴史」の「はじめに」に集約されている。以下、少し長くなるが引用する。
★日本人の立場で国益追求の立場にたつこと
「これからの歴史教育では、このように自国をことごとく悪とみるような外国の国家利益に起源を持つ歴史観から一切自由になって、日本人の立場で、自国の歴史を考えることが必要なのです。」
「私たちは日本人ですから、まず日本の立場、日本の国益に立ってものを考えるのは当然で、出発点として自国の生存権や国益追求の権利をハツキリと認めるべきです。しかし、そうだとすれば他国もまた同じ権利をもっていることを認めなければなりません。そこで、再び日本としてどのような政策をとることが、自国の国益にもかない他者をも生かす道になるかを考えることです。このような歴史の味方・思考方法は、今までの歴史教育でハツキリと表明されたことはありません。」
★多様な視点、タブーにとらわれない実証的研究
「自由主義史観の立場では、あくまで実証的な歴史研究の成果を重視します。結論をあらかじめ決めるのではなく、多様な視点をつきあわせて、タプーにとらわれない自由な議論を巻き起こす一助になればと考えています。」
こうした考え方の前提として、従来の(少なくとも現在の教科書に書かれている)歴史観を「東京裁判史観」「コミンテルン史観」「自虐史観」「暗黒史観」「反日史観」「謝罪外交史観」などとレッテルをはり、これらからの「自由」な歴史観として「自由主義史観」を対置している。
★「自由主義史観」から「大東亜戦争史観」へ
上にみたように、「自由主義史観」は一見すると、中立を装い、これまでのタプーを打破するという画期的な歴史観にもみえる。また代表の藤岡信勝氏もたとえば日本の戦争が侵略戦争であったかどうかについて、その侵略性を原理的に一切認めない立場を「大東亜戦争史観」、その逆に自衛の側面を認めることを一切拒否する立場を「東京裁判史観」と名付けて、自由主義史観はどちらの立場もとらないと当初は言明している。しかし、実際には日本の侵略を「やむを得ない」ものとする事情(自衛のためにやむを得ない国際情勢であった、アジア諸国がヨーロッパ諸国の植民地から独立するのに役立った等)を「実証的に」研究し、限りなく「大東亜戦争史観」に近づいているのが実情である。そこに既成右翼や自民保守派、保守系マスコミがとびつき、「大東亜戦争肯定史観」ブームに発展し、今や、藤岡氏らは政治的に踊らされているといってもいいような状況である。
★論争の根にあるもの
今回の歴史観論争においては、表面上は日本の侵略あるいは「従軍慰安婦」等を巡っての「事実」に関する争いが行われている。これらの「事実」に関しては、教科書裁判や研究者、証言者、旧日本軍関係の資料などにより既に実証されており、もはや覆される余地は少ない。しかし、彼らが本当に言いたいことは、「歴史の暗い事実ばかり教えたり主張すると自分の国や国民に自信や誇りをもてない。」ということで、このことを貫徹したいがために、「客観」「実証」「中立」「デイベート」等の仮面をかぶっているのである。
3.ブームの背景を考える
★日本の侵略事実を認める政府見解、教科書記述等によるあせりと危機感
近年、政府が関係諸国への現実的な配慮から日本の侵略事実を一定認め、また歴史教科書においても日本の侵略・加害の事実が記載されるようになり、とりわけ来年度中学校教科書からは「従軍慰安婦」問題が記述されるようになった。こうした動きに村し、従来の保守・右翼勢力があせりと危機感をもっているものと思われる。
★主体性のない「謝罪外交」と「押しつけ」への反発
日本政府は、アジア諸国に対して日本の侵略事実を一定認め、また謝罪をしているが、これが「本心」からではなく、「現実的・政治的配慮」によるもので主体性のない「謝罪外交」を繰り返しているようにみえることから、反発する層も多いと思われる。また、従来の日本の戦争責任に対する議論・教育においても、決して国民的な合意が十分に行われているとは言えず、その過程で「押しつけ」的なものを感じている層が少なからず存在すると思われる。こうしたことへの反発が自由主義史観研究会の「タプーにとらわれない自由な議論」にを打破し」に魅かれる層をつくっているのであろう。
★将来の不透明感と自己アイデンティティの喪失
日本経済は出口の見えない長期にわたる不況に加え、21世紀の前半には中国などの台頭により日本のアジアにおける存在感は著しく低下すると言われている。また、高度資本主義と国際化の進展により、「国境」の曖昧化、従来の「国民国家」意識の弱まり、国や民族などに対する帰属心の弱まりなどが進み、自己アイデンティティが不明瞭になってきている。こうした状況に不安や憤りを感じる人々の中に、自己アイデンティティや存在感を確認するために「国益」や「民族の誇り」を訴える歴史観に共鳴するケースが一定増えているのではないか。
4.「実り」ある論争のために
産経等をはじめとする一部マスメディアのキャンペーンはすさまじいものがあるが、一方それに対して朝日、毎日などのメディアは十分な反論・対抗を行いえていない。それは、「侵略戦争だ」「自衛戦争だ」といったところで、もとになる「歴史観」が異なるもとでは、全く議論がかみ合わないのであろう。しかし、なぜことなる「自由主義史観」が一定の支持をうけているのかも踏まえて、「実り」ある論争を展開するべさだと考える。以下、「実り」ある論争のために気になる点をあげたい。
★「史観」のぶつかりあいだけではなく、客観的事実の積み重ねが不可欠
歴史の前提となるのは、イデオロギーでもなく、「史観」でもなく、物語でもない。自由主義史観研究会では、「実証」の名のもとに、著しい論理の飛躍が随所にみられる。何よりも客観的事実の積み重ねこそが第一であり、日本の侵略の事実も、戦後客観的事実の積み重ねにより明らかにされ、政府も認めるところになったのであることを忘れてはならない。
★「主観」的な歴史観ではなく、他国と「共有」できる歴史観を
自由主義史観研修会のいうようにいかに「出発点として自国の生存権や国益追求の権利をハツキリと認めるべき」であるとしても、それが自国のみの利益にとらわれたり、他者の痛みを感じとらないものであってはならない。「主観」的な歴史観ではなく、他国、とりわけアジア諸国と「共有」でさる歴史観が必要である。EUにおいては、12か国の歴史家が共同で歴史の副読本として「ヨーロッパの歴史」がまとめられた。アジアにおいてもこうした試みを行ってみるべきである。その中でこそ、真に過去を振り返り、「共有」できる歴史観が確立され得るであろう。
★新たな自己アイデンティティの空白を埋める作業が必要
戦後の平和と民主主義を求める勢力は、日の丸や君が代など、国家主義、軍国主義につながる教育や政策などに対抗してさた。しかし、一方で、日本人の民族や国家に対する帰属心やアイデンティティの拠り所などの確立については十分に対策を行ってはこなかったと思う。「国」や「民族」を強調することは、個人の尊厳を脅かすことにつながり、また異なったものへの排外主義にもつながるものである。しかし、自己アイデンティティの空白には、新たなナショナリズムや民族主義が入り込む余地がある。自分たちの国家や民族をどのように捉えていけばよいのか。またどのような「誇り」をもっていけばよいのか。新たな自己アイデンティティや連帯感を創出するための何らかの作業が必要ではないか、と気になるのである。 (当麻太郎)
【出典】 アサート No.232 1997年3月21日