【投稿】戦後民主主義を問い直す
<常識的論争ができる日本に>
国、地方を問わず、行財政問題とりわけ財政危機が国民的関心を持つようになってきた。今日的問題として、財政問題が国民的関心、心配事となってさた点にこそアクチュアリティーがある。財政危機は、日本のみならず先進国共通の問題である。何ゆえに、先進諸国では財政危機が今日的問題としてのっぴきならない、放置できない問題となってきたのであろうか。
資本主義経済の発展の基礎は「自由」である。「自由」の経済的表現は、「市場経済」。物と物との商取引は、自由なる市場が前提となる。自由なる市場を、その国の歴史性を通じて一定のルールのもとにどれだけ拡大できるかに、資本主義国家の発展は決定づけられてきた。
自由なる市場には、民主主義が対応する。しかし、自由(欲望)に基づくあくなき利益の追求は、弱肉強食と市場の失敗を産み出す。それは、多数の幸福としばしば対立する。それを民主主義は許さない。議会制民主主義を通じて、剥き出しの自由=市場原理に、社会的規制を要求する。その社会的規制の内容は、議会制民主主義–投票の結果に左右される。
それぞれの階層、団体、業界がそれぞれの利権の実現に向け国家に社会的規制を求める。政党は、それぞれの支持層の利権の実現に向け議会闘争に邁進する。議会闘争は、最後は各政党の力関係に応じて調整され、それぞれの利権配分を定め、社会的規制は年々拡大していく。
経済の成長(市場の拡大)を社会的規制が促進している間は、財政問題は発生しない。市場経済と社会的規制の共存的発展が、先進資本主義国の国民の生活の飛躍的向上と、格差是正を実現きせた。とりわけその両方を著しく実現したのが、戦後50年間における日本であったのではないだろうか。
先進資本主義諸国は、どこも市場経済と社会的規制の共存的発展、それを保証する議会制民主主義によって国民生活の向上を産みだしたが、格差是正(平等性)についてはそれぞれの国の歴史性によって多様性を産みだしている。
多様性を持ちつつも、年々拡大する社会的規制が、言いかえれば、それぞれの階層の利権の拡大が国、地方財政の拡大となり、財政危機としてのっぴきならない状況を産みだしてきた。
あくなき自由の追求が「市場の失敗」を産みだし、「市場の失敗」が「社会的規制」を要求し「社会的規制」が、議会制民主主義を通じて「利権の拡大」を誘発する。「あくなき利権の追求」が財政危機を辟在化させている。
今日「行政改革」と「財政改革」、「政治改革」が叫ばれている歴史的背景、今日的到達段階とは何なのかという根本問題にこそ、目を向けなければならない。それぞれの階層の利権に基づく議会制民主主義の発展が、既存の政治、経済制度を飽和状況にいたらしめているのが、今日の日本の状況であり、もうこれ以上既存の利権を吸収し切れなくなっていることの社会的政治的表現として「改革」が叫ばれ、国民生活的表現として「個の自立」「自己責任」が強調されてきていると捉えるべきではないだろうか。
一方人類は今だ自由と議会制民主主義を質的に乗り越える発展形態を産みだしえていない。経済はしだいにボーダーレスとなりつつあるが、それを規制する法、政治形態は国によって千差万別と言える。EUが、なんとか統一ルールを作ろうと模索を続けている段階
にすぎない。
世界の今日的段階を踏まえ、今日の日本の状況をどう見、今の飽和状態をどう切り抜け一歩前進させえるか、またそれを可能にする現実的裏付けをどこに求めるか、ここを探り出すことが今切実に求められている。
いま戦後50年がすぎ、100年単位の大きな曲がり角に日本は立っている。国際的には、「全人類的価値」と「国益」の関係いかんという問題であり、国内的には「公益」と「私益」の関係いかんという問題である。その前提としてとりわけ今、明確にしなければならないのは、「国益」、「公益」とは何かということである。
戦後50年間、日本では国益論、公共論を真正面から議論することを避けてきた。今日の様々な改革論議の根底には、「自己責任」という観点から国家、地方のあり方を議論できる力が戦後50年の営みの中で国民に形成され始めてきているととらえるべさであり、そこに信頼を置いた常識的論議、論争ができる環境作りが大事になってきていると思えてならない。
「常識的」とは、歴史的に形成されたそれぞれの国民の生活の中から自ずとでてくる実感に言葉、表現を与えるということであろう。あらかじめ決めている価値観、イデオロギーのもとにどちらが正しいかという論争や、どこかに主要敵を作りそれが諸悪の根源だとする思考からは、生き生きとした現実的改革は産まれない。諸悪があるとすれば、その諸悪の一端を自らもなんらかの場所や行為で担っているという自覚、またそれを改善する権利が保証されている社会に住んでいるということの自己責任が求められているのである。
「歴史観論争」について
昨年の6月、梅田の旭屋書店で「歴史デイベート大東亜戦争は自衛戦争であったJ(明治図書)というタイトルの本に出会った。太平洋戦争をあえて大東亜戦争と言い換え、それが自衛戦争であったか否かをめぐってデイベートしたことの記録集であった。そのデイベートの結果は侵略戦争派の勝ちとなった訳であるが、私がショックを受けたのは、こんな研究をしている戦後生まれの教員グループが存在していたという事であった。
とくに印象的だったのが、「このデイベートを経験するまでは、大東亜戦争は100%日本の侵略戦争と思っていた。デイベートのために様々な文献にあたり準備しデイベートを経験する中で、今は60%侵略戦争であったと認識が変わった。その変わったこと、変わったプロセスに満足している」と語る自衛戦争派でデイベートに参加した一人の感想であった。
私は、この歴史デイベートで闘われた大東亜戦争の実証的経過について如何に事実を知らないかを思いしらされた。あの戦争に対する自らの歴史的事実認識の欠落の自覚抜さで侵略戦争と決めつけてきた我が身の無知を思い知ったのである。その本に紹介されていた参考文献紹介欄を見てもほとんどが未知の本であった。参考文献を手がかりに大東亜戦争・近現代史を集中的に勉強したい意欲がむくむくとこみあげてくるのを感じた。
同年7月か8月ごろ、同じ旭屋で、いま解放教育を中心に教育改革に取り組んでいる大学の教員をしている友人と出会い、「近現代史教育の改革一善玉・悪玉史観を超えて」(藤岡 信勝著 明治図書)について立ち話をした。「この本での論議は、必ず近い将来大論議になると思う。あなたはもう読んだか。是非評価をどこかに書いてもらいたい」と話しかけた。彼は「まだ読んでいないが、知っている。藤岡信勝は、もともと代々木やで。」という言葉が返ってきた。あまり関心がなさそうに感じた。
これは私の一方的な感じ方であるが、「関心がないようだな。藤岡氏やr自由主義史観研究会」が投げかけている問選提起になぜ知的好奇心が湧かないんだろう。元代々木だろうがいいじゃないか。どうもわれわれの中には「転向=悪」というモノサシがまだ無意識の中に存在するのだろうか。俺は勉強になることが一杯あるけどなあ。以前にもこんな思いしたことがあるなあ。」と思いながら彼とは別れ家路についたものである。
同じ思いとは、こんな事である。1989年の新春の解放同盟支部の旗開さの時同席した解放教育研究者に「最近別冊宝島で「プロ教師の会」の人がいろいろ本をだしている。あの論にたいして解放教育研究者はどんな評価をしているのか。ぜひ評価をどこかに書いて欲しい」と言ったことがある。反応はもう一つであったように記憶している。
私は、解放教育研究者こそが、「自由主義史観研究会」や「プロ教師の会」が投げかけている問題提起に応えてくれたら、実りあるものが生まれるのではないか、とひそかに期待すると同時に、それはどだい無理というものだという思いが交錯する。
それはすぐれて「戦後民主主義」をめぐる評価の問選と関わって、自らのこれまでの思想形成の基盤を突き崩す問題だからである。
私はこれから、「歴史観論争」を一つの契機に、「戦後民主主義」を開い直したいと思っている。本誌No225号の当麻太郎論文「歴史観論争で気になること」を読んで共感したことは、「『史観』のぶつかりあいだけでなく、客観的事実の積み重ねが不可欠」と「新たな自己アイデンティティの空白を埋める作業が必要」というところである。とくに最後のくだりは全く同感、感動した。
「戦後の平和と民主主義を求める勢力は、日の丸や君が代など、国家主義、軍国主義につながる教育や政策に対抗してきた。しかし、一方で日本人の民族や国家に対する帰属心やアイデンティティのよりどころなどの確立については十分に政策を行ってこなかったと思う。『国』や『民族』を強調することは、個人の尊厳を脅かすことにつながり、また異なったものへの排外主義につながるものである。しかし、自己アイデンティティの空白には、新たなナショナリズムや民族主義が入り込む余地がある。自分たちの国家や民族をどのようにとらえていけばいいのか。またどのような「誇り」をもっていけばよいのか。新たな自己アイデンティティや連帯感を創出するためのなんらかの作業が必要ではないか、と気になるのである」
藤岡氏等が問題提起している事と当麻太郎論文の結論は同じ問題意識だと思うのだが、その前提となる事実認識が違うのである。その違いが重要であり、また事実認識に対する常識的論議、論争で高めてゆくべきだと思っている。(つづく) (織田 功)
【出典】 アサート No.234 1997年5月17日