【書評】近未来の頭脳管理システムと多重殺人のミステリー
『殺人探究』(フィリップ・カー、東江一紀訳、新潮文庫、1997.6.1.発行、 667円)
神戸の小学生殺人事件が社会的に大きな衝撃を与えている今、その論題となっているものに、学校教育のあり方、子供の生育環境等々と並んで、人間の暴力的攻撃性の問題がある。この事件のみにとどまらず、衝動的発作的事件が他にも起こっていることから、今後人間の中の暴力的攻撃性の問題が浮かびあがってくることが予想される。
本書は、この攻撃的暴力性を中心テーマの一つとした近未来のミステリーである。
その舞台は21世紀初頭のイギリスであり、そこでは「歴史上でもはじめて、犯罪の発生する前に、政府が犯罪者の所在を突き止められる機構が確立することになった」。それは、ロンブローゾ・プログラムと称される犯罪候補者リストによる凶悪犯防止システムである。すなわち、男性の脳内で攻撃的反応をつかさどる「SDN(性的二形核)」に対する抑制子として働く「VMN(腹側正中核)」を欠損している者についての調査を行い、その治療とカウンセリングを施そうとするものである。(ロンブローゾの名称自体は──綴りは異なるが──イタリアの犯罪学者チェーザレ・ロンブローゾ[1836~1909]から来ている。ロンブローゾは、犯罪者には一定の精神的身体的型があるとして、犯罪人類学の開祖となった。)つまりVMN欠損者(陰性)は、潜在的な犯罪性を有する者としてコンピュータに登録さ
れ、そのコンピュータ本体は、中央警察のコンピュータとリンクしている。そして暴力犯罪の捜査中の照会で、容疑者名がVMN陰性の男性と一致した場合、ロンブローゾ・コンピュータから警察コンピュータへ、その事実を通報するシステムである。ただしことは人権に関わる問題であり、VMN陰性者の身元を保護するためにコードネームが使用されている。(ついでながら、そのコードネームは、ペンギン・クラッシクの書名から採用されるので、VMN陰性者のコードネームは、古今東西の著名人のオン・パレードとなる。)
さて事件は、VMN陰性の男性の一人(コードネーム、ヴィトゲンシュタイン)が、治療に来た診療所で、係員が打ち込んでいるロンブローゾ・プログラムの画面を偶然目にすることから始まる。その画面から係員のキーワードとその日のパスワードを見て取り、その夜自分のコンピュータから、ロンブローゾ・コンピュータに侵入、自分のデータを消去した上にVMN陰性者全員のデータを盗み出す。そして自分のコードネームに因んで、哲学者のコードネームをもつ該当者(カント、スピノザ、ロック、バートランド・ラッセル等)を連続殺人していく、というものである。
はじめにこの犯人は、じぶんがVMN陰性であることのショックをこう語る。
「昼過ぎまで善良な一市民だったのに、夕方には社会のごみに成り下がったのだ。なんとか、これをおもしろがってみるしかない。右翼思想の持ち主で、常に法と秩序を重んじてきたわたし。(略)このロンブローゾ・プログラムのような試みを、名案だと評価していたのだ。それが、どうだろう。いきなり、人殺しカインの刻印を押されてしまった。少なくともコンピューターのファイル上では・・・」。
ここから彼は、同時に入手したVMN陰性の同胞たちに関するデータを使って、自分の衝動=「自分自身に対する、・創造の鬼神・に対する義務」を確信する。「他を否定することによる自己の肯定。殲滅(せんめつ)による創造。そのうえ、滅ぼすべき相手が、社会一般に対する脅威でもある場合、自己創造の深みがどれほど増すことか。そこでは、ごく切実な目的で、殺人が行なわれるのだ。それならば、ニヒリズムへの傾斜は避けられる」。このようにしてVMN陰性者への連続殺人が、論理的に理性によって命じられたものとして正当化されるのである。
さらに彼は、次のように語る。(これを彼は本物の哲学者ヴィトゲンシュタイン[1889~1951]と同様『青色本』と『茶色本』と名付ける日誌・記録に記述する。)
「人は非論理的なことを思考しえないという意味において、思考しうることは存在する・・・。非論理的な何かがどういうものであるかを、われわれは適切に語ることができない」。
「しかし真に価値を持つ価値というものが存在するとすれば、それは、事象の全領域の外になくてはならない。(略)倫理は先験的なものであって、言葉に置きかえることはできない。要するに、倫理は不可能である」。
「だからこそ、誰もが倫理にそむこうとするのではないか。(略)倫理的な属性ということに関しては、人間の意志もまた語り得ないものである。そして、わたしは、殺してはいけないという合理的な理由が存在しないゆえに、人を殺す」。
まさにヴィトゲンシュタインばりの論理によって殺人の正当化がなされる。つまり犯人は、自分がVMN陰性であるという事実から、他のVMN陰性者を殺していくことが社会的にも自己の確認のためにも肯定されるとするのであり、そのためには語り得ない価値、価値以前の価値というべきものに従って殺人は許されるとする狂気を、砂上の楼閣のような整合性をもった論理で形成・確証していくのである。
ところでこの犯人が、かかる論理を形成するにあたっての重要な要素が「疑似現実(リアリティ・アプロキシメーション、RA)」装置である。つまりRA装置がこの時代には普及しており、その鎧を着用してスイッチを入れることで、人間は「現実を模した体験に、それも多くはみずから考え出した体験に、どっぷり浸りきる」ことができるのである。いわば、現在われわれがビデオやTVゲームで経験している仮想世界装置が、はるかに高度化リアル化されているものである。
この結果として、われわれの意識はリアルな現実との区別を失いがちになり、また意識は言語との境界を、そして言語は意味との関係を、さらには意味は価値との関係を、明確には把握できぬ状況が出現するにいたる。
本書における連続殺人の背景には、このような状況が控えているのであり、現在すでに一部存在している近未来の技術や人間関係の問題を含めて、このリアルな現実と意識における現実との区別と関連を考える一つの素材を与えてくれるであろう。
なお本書には、犯罪防止システムの他に、死刑廃止に代わる昏睡刑(犯人は裁判によって無期の昏睡刑が申し渡される)の問題なども提起されている。
最後に、作者フィリップ・カーには、前作品としてベルリン三部作(『偽りの街』、『砕かれた夜』、『ベルリン・レクイエム』──いずれも新潮文庫)があり、それぞれ1936年のベルリン・オリンピック、1938年の・水晶の夜・、1948年のベルリン封鎖という政治的事件を背景に、その謀略に巻き込まれる私立探偵を主人公とするハード・ボイルドである。社会批判の冷静な眼をもつこちらの諸作品も一読を薦めたい。(R)
【出典】 アサート No.236 1997年7月19日