【投稿】「戦後民主主義を問い直す」論考を巡る論争について
本誌 No.234、No.237に「戦後民主主義を問い直す」と題した織田功さんの投稿が掲載された。
織田さんの問題意識は、「歴史観論争」を一つの契機に「戦後民主主義」を問い直したいということであり、その前提となる「事実認識に対する常識的論議、論争を高めてゆく」ことが重要だということにあるようだ(No.234)。
その具体的なテーマとして持ち出されたのが、いわゆる「従軍慰安婦問題」であった。 その内容のポイントは、「従軍慰安婦」については、日本政府が国策として彼女たちを「強制連行」したということを裏付ける事実はなく、そうした段階であるにも関わらず宮沢内閣において河野官房長官談話でこれを謝罪したのは極めて問題だということ。織田さんは、「強制連行」が国策として行われたのが事実であるなら、特別税を導入してでも「道義的責任」を償うべきだと述べておられることから、「強制連行」の有無に関する事実の実証的議論が深まらないことが、一番の問題だと主張されているように私には受け取れた。
次に、本誌 No.235を読むと大阪の田中雅恵さんが、織田論考に激しく反発しておられる。
「『改革と民主主義』をめざすこの情報誌に、突如右翼の論客が、もっともらしい理屈をこねまわして乗り込んできたのかと感じたのです。場所をお間違えではないのでしょうか。」と冒頭に述べられた上で、織田論考は「右翼や保守反動勢力」の主張といかに符合しているかということを整理され、そして、「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話(河野官房長官談話)」の全文を紹介された。
このやり取りを読む限り、織田さんが No.234で主張された「常識的論争ができる日本に」という問題意識に、もっともそぐわない姿になってしまったように見える。
私は、最近、努めて色々な立場で書かれたものを読むようにしている。「右翼」だの「保守反動勢力」だのというレッテル以前に、問題なのはその内容だと考えているからだ。
河野官房長官談話に関しては、「大化会」という、いわゆる「右翼」が発行している「月刊ふじ」(平成9年4月1日号)が、非常に興味深い記事を掲載している。
それは、産経新聞3月8日付けの石原・元官房副長官のインタビュー(一問一答)記事の分析・評価である。
石原長官の発言は、おおむね次のような趣旨であった。
●日本側のデータには強制連行を裏付けるものはなかった
●韓国側はそれでは納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた
●そこで、韓国で元慰安婦16人の聞き取り調査をしたところ、「明らかに本人の意思に反して連れていかれた例があるのは否定できない」と担当官から報告を受けた
●日本側には証拠はないが、韓国の当事者はあると証言する。河野談話に『(慰安婦の募集、移送、管理などが) 総じて本人たちの意思に反して行われた』とするのは、 両方の話を総体としてみれば、という意味。全体の状況 から判断して、強制にあたるものはあると謝罪した。強 制性を認めれば、問題は収まるという判断があった
「月刊ふじ」は、このいきさつから「慰安婦強制連行」という政治的シナリオがまずあってそれに合わせて裏づけ資料を収集するという日韓合作で「日本史裁判」がねつ造されたと主張している。「ねつ造」と呼べるものかどうかはともかく、この談話が当時の国際情勢の中で、相当「政
治的」な判断で行われたものであることは事実だろう。
さて、ここからが重要なのだが、月刊 THE21「ざ・にじゅういち」97年3月号(PHP研究所)で韓国出身のエッセイストの呉善花(お そんふぁ)さんは、日本政府による「従軍慰安婦」の国家による強制連行容認と謝罪を疑問だとしながら、次のように指摘している。
「ただ結果論としていえば、日本政府は明らかにポリティカル・コレクトネス(政治的正義)の立場に立ったものとみられる。つまり、日本政府は、「法的・原則的な正義」に優先する「政治的正義」として「強制連行容認」の考えを選択したのである。問題を政治取引の結果とも、また外交交渉の失敗とも見ずに、積極的な国家意志としてみるならば、そこにははっきりと、ポリティカル・コレクトネスの立場が見えているのではないだろうか。となれば事態は慰安婦問題とは別に、きわめて深刻な政治的・社会的問題を含んでくることになる」
ポリティカル・コレクトネスとは、「歴史的な法律・道徳・習慣・伝統などに照らしての正当性よりも、現在の人々が置かれている現実の政治的・社会的な状況に照らしての正当性を優先すべきだという考えとなって、一定の定着をみている」ものだという。それは、「考え方だけをとればとても進歩的で立派なように見えるが、実際にはかなりおかしな現実を生み出す」、いわば「法や制度よりも『風潮が容認する正しさ』が優先される社会となるからだと、呉さんは述べている。
織田さんの「戦後民主主義を問い直す」との趣旨と極めて近い考え方だと思うが、私たち自身がこれまで関わってきた多くの運動がこうした「論理的枠組み」や「発想」で進められてきただけに、論争は常に「ねじれの位置」にあって、噛み合わない場合が多い。
しかし、実に重要な論点であるということをあらためて指摘し、織田さんと田中さんの論争がもう少し噛み合うことを期待したい。(大阪・依辺 瞬)
【出典】 アサート No.239 1997年10月25日