【投稿】「南京1937ーDON’TCRY,NANKINGー」を観て
1937年12月13日、中国への全面的な侵略戦争をすすめていた日本軍は、当時の中国の首都・南京を占領、そのさい組織的な大虐殺をひきおこし、世界に衝撃をあたえた。南京事件から60年目の今年12月6日、大阪ドーンセンターにて、映画「南京1937」を観た。開演時間ぎりぎりに7階ホールに走りこんだ時には、会場は超満員で、私たちは通路にすわる羽目になった。
「1937年7月、北京郊外の蘆溝橋で数発の銃声が響いた。日本軍に対する中国軍の実弾射撃と判断した日本軍は、中国軍への攻撃を一斉に開始した。この蘆溝橋事件に端を発し、日中は全面戦争に突入する。
1937年8月、上海での海軍陸戦隊と中国軍との交戦以降、日本軍の中国本土への侵略は激しさを増していった。中支那派遣軍と11月に抗州湾に上陸した第10軍は、中国軍を追撃して首都南京に迫った。12月10日、日本軍は南京への総攻撃を開始した。日本軍の猛烈な爆撃と大量の重火器の投入により、中国軍は総崩れとなり、12月13日南京は陥落する。この時、南京城内には難民区に避難した25万人以上の住民と、敗走兵、難民らが流れ込んでいた。また、南京郊外にも20万人前後の住民が避難していた。
日本軍は、上海攻略以降、中国軍の猛烈な抵抗にあった。南京占領後、日本軍は、捕虜、一般住民、婦女子に残虐行為を尽くし、草鞋峡での5万7千人に及ぶ殺害のほか、中国側によれば、30万人にものぼる中国人を虐殺したといわれている。(日本側の研究では、十数万人から約20万人と推定されている)これが、『南京大虐殺』と呼ばれるものである。
『南京1937』はこの事件を背景に、上海から南京へ避難する中国人医師と日本人妻の一家を中心に、三つの家族を通して、戦争の残虐さや、人間の狂気が渦巻く中で庶民がいかに生き、民族を越えて人がいかに人を愛したかを描いている。」(映画パンフレットの解説より)
石子順さん(映画評論家)が書いているように、「つらい映画である。しかし、見つめなくてはならない映画である。」私は、このような映画を観ると、年をとったせいもあり、若い時以上に胸がしめつけられ、後頭部がガンガンして本当に苦しくなる。でも、「かつての日本の戦争が侵略戦争であったと認めないで、『自衛』の戦争だったとか、『アジア解放』の戦争などと合理化したり美化したりする勢力が日本国内にまだたくさん存在している」現実がある限り、日本兵の目をおおうような残虐行為ー大量銃殺シーンや子ども・老人・女性に対する殺りく、暴行の数々を正視しておかなければならない。
先月末に新著「南京事件」(岩波新書)を出した笠原十九司宇都宮大学教授(中国近現代史)は、「11月末にアメリカのプリンストン大学の『南京事件国際会議』に参加して、南京事件を原爆やナチス、ボスニアなどの人類の犯したホロコーストの一つとして共通にとらえ、人類の共存にむけて歴史の教訓を得ようという意識を強く感じた。南京事件のことを教えるのが自虐的だなどというのは歴史の進歩に背をむけた狭い見方であり、21世紀に向けて人類のモラル・アイデンテイテイー(道義的自己主体性)を形成しようという世界史の流れに逆行するものだ。」と語っている。
そして、この映画の呉子牛(ウー・ツウニユウ)監督は、「ニーハオ 日本の皆様」と題する手紙の中で、こう言っている。「私は、『人類の恥辱である戦争の実態を正視することにより、この恥辱を消滅させ、人類の進歩を獲得することができる』と常に思っています。そして、この映画で民族的な恨みではなく生命の貴さを訴えたい。崇高な愛がなければ、人類は遠からず終末を迎えることでしょう。これがこの作品を製作した究極の目的です。」
この監督の想いは、映画のラストシーンに凝縮されている。早乙女愛さん扮する理恵子は悲惨な状況のなか中国人の夫・成賢(チヨン・シエン)との子どもを生み、その“南京”と名付けられた赤ん坊や大勢の子どもたちを小学校教師・書琴(シユーチン)たちが長江に逃がす場面だ。長江の悠久さと夕焼け空の美しさにも増して、私の心を揺さぶったのは、バックに流れる歌声である。「南京よ泣かないで/子どもたちよ泣かないで・・・」
自主上映なので、近くの映画館へどうぞと紹介できないのが少し残念ですが、参考までに、「南京1937」全国上映委員会の住所と電話番号を載せておきます。
〒453 名古屋市中村区椿町8ー12 Tel.052(452)6036
(大阪 田中雅恵)
【出典】 アサート No.241 1997年12月20日