【書評】〈いじめ〉とコミュニケーション論の視点
尾関周二『現代コミュニケーションと共生・共同』(青木書店、1996.6.26.)
本書は、コミュニケーション論を基点に現代日本社会の歪みを批判的に論じてきた著者の焦眉の諸問題にかんする論集である。そのキーワードは「豊かな社会」「情報化」「国際化」「共生」であり、著者は、これらのキーワードが有する固有の問題性が、思想の問題としては〈コミュニケーション〉という結節点に絡みあっていると見る。そこで本書では〈コミュニケーション〉の問題状況という切り口から、これらの諸問題の解明をめざして「現代日本におけるコミュニケーションの諸相を全体として思想の問題として考察する」ことを試みる。
さて本書を貫くもう一つの大きな問題意識は〈いじめ〉の問題である。〈いじめ〉が現代日本社会のかかえる大問題であることには異論がないと思われるが、〈いじめ〉について今までにない関心が生じたにもかかわらず、現状では依然として対症療法的な議論にとどまっており、その原因・背景の解明にはほど遠いと言わねばならない。このことは、〈いじめ〉問題の解明・解決を妨げている力それ自身がまた〈いじめ〉問題を生み出している要因であることを示唆している。本書では、かかる問題意識を踏まえて〈いじめ〉問題に集中的にあらわれたものが、実は現代日本社会の構造の反映であることを指摘する。
従って本書で最重要なのは、第一章「『豊かな社会』のコミュニケーション疎外・・・〈いじめ〉の根本的克服のために」である。この章では、現代に急速に変容しつつある〈コミュニケーション〉の視点から、家庭コミュニケーションや学校コミュニケーションのあり方とそれを規定している社会的なコミュニケーション構造(精神構造)のなかで子どもを取り巻く状況を分析する。それによれば子どもの遊びの状況が、「群れ」から「孤独」へ、「活動型」から「静止型」へ、「自発」から「受動」へと変質してきた(「現実の遊びも、そして遊びの欲求も、室内で、一人きりで、受け身の形で過ごす型の遊びに集中している」)こと、しかも「テレビの普及と遊び仲間の失われていくことがリンクしている」ことが注目されねばならない。それ故「今日の〈いじめ〉の一面として、共同性欲求、コミュニケーション欲求の充足の疎外された形態がそこにはみられる」とされる。 そして〈いじめ〉が陰湿・陰険・残忍であることの底に子どもの「重たい恨み心」(ルサンチマン)が存在することが指摘される。すなわち成績崇拝主義や競争主義によって長期間にわたって痛めつけられ、自尊心を深く傷つけられた子どもたちは、他者の苦痛に対する共感を失い「いけにえを必要とする『恨み遊び』によって陰鬱な気分を発散させるのである。「今日の〈いじめ〉とは、ある特定個人に対する共通の排除行動によって各人の恨み心を発散させる(「スカッとする」「おもしろい」)と同時に、疑似共同的関係の確認をする行為である」。つまり〈いじめ〉は、本当の友人が欲しいという人間本性に根ざすリアリティを持った欲求と、現実の激しい能力主義的競争においてすべての人間を手段か敵であると見なす同じ程度のリアリティを持った観念との間での(すなわち仲間関係と抑圧関係との)「矛盾した相互行為」なのである。
これに対しては「友愛のある平等な仲間関係」の育成、換言すれば「共同性欲求が適正に実現された親密な友だち関係こそが真に〈いじめ〉を批判的に克服する力をもつ」。しかし現実には「この現代の〈いじめ〉はこの欲求が適正に実現されないがゆえにまた発生している」というパラドックスな状況こそが問題なのである。
というのも、この〈いじめ〉の背後には、一方では先進資本主義国に共通する「大衆社会の『コミュニケーション』の物象化」状況(近代的アトミスティックな自我よりも、関係のメカニズムの方が前面に出て、社会関係の「システム化」が進行する)が存在するが、他方では特殊日本社会的なものとして企業社会の競争構造(「特殊日本的な〈労働〉のあり方)があるからである。
すなわち「日本型〈労働〉に発する過剰な競争原理は、職場における日々の〈精神的殺し合い〉や〈カローシ〉を生み出し、学校においては、この〈精神的殺し合い〉は、肉体的抹殺をもたらすような〈いじめ〉を生み出しているのである」。「精神的生活過程のコミュニケーションにおける病理現象としての〈いじめ〉は、物質的生活過程の異常に競争主義的な〈労働〉と内的な関連をもっており、この〈労働〉が再生産する社会制度によってその深刻さが加重されている」のである。従ってこの精神的・物質的社会構造の転換抜きには〈いじめ〉の根絶はあり得ない。ここに日本資本主義の進路にかかわる問題が提起され、同時にさしあたっての学校コミュニケーションのあり方としては、市民的公共性のコミュニケーションの力(学校の社会的・物的条件の改革のための合意形成の運動)の強化が主張される。
さてかかる問題意識を踏まえて、今日の情報化・コンピュータ化が、一方では資本の自己増殖の一層の効率化に貢献するアスペクトと、他方で脱資本主義、民主主義の徹底へと向かう諸条件の蓄積というアスペクトの両面から考察される。そしてその中で過剰な商品依存社会からの脱出と管理主義強化(システム化による「科学的」管理)の問題が、また新たな共同体といわれている「電子コミュニティ」とこれに伴う近代主義的文化・自我の変容が検討される。(第二章 『高度情報化社会』と情報的コミュニケーション・・・電子コミュニティの光と影)
また「国際化」に関しては、今日の「日本の『国際化』論は日本『国家』論でもある」ことが指摘され、「国際化」問題の二つの側面・・・情報的コミュニケーション(情報化のグローバル化)と、文化コミュニケーション(異文化理解、文化的人間的交流)・・・のギャップ・落差の大きさこそが問題であるとされる。この場合日本人のメンタリティの大きな特徴は、日本型順応主義(没主体的な集団性、異質なものの集団的排除、同質性の強要)であり、この面から見れば、学校での〈いじめ〉問題と日本人の「国際化」問題は内的には非常な関連があると言えよう。こうした意識構造を生み出す母胎としての日本型企業主義と国家主義(単一民族論等)に対する批判が急務であるとされる。(第三章 『国際化』と異文化コミュニケーション・・・日本型順応主義の克服のために)
そして以上のようなさまざまな問題や歪みをはらんだ人間関係への対抗理念として、本書では「共生・共同の理念」が提唱される。「共同」「共生」の理念とは、人間関係の二種類の側面・・・共同体内の成員間の交渉関係(同質性を前提とする共同関係)と、異なる共同体間の成員との交渉関係(異質性を前提とする共生関係)・・・に対応する。これら二種類の理念が相互に補完的な性質を持つものであることから、共同体内の人間関係を律する「共生的共同」(同質性を前提としながらも異質性の存在することを認める)と、異なった共同体間の人間関係を求める「共同的共生」(異質性を前提としながらも同質性・連帯を求める)が導き出される。この同質性と異質性の織りなす中に真の人間的関係を打ち立てようというのが「共生・共同の理念」であるとされる。(第四章 共生・共同の理念・・・「リベラリズムを超えて」)
ここから本書では、人間と人間との関係から人間と自然との基本的関係の考察に移り、コミュニケーション的態度で自然に対することを提案する。そしてその際に自然に対する労動的な態度との連関を考察する。(第5章 人間と自然の共生・・・自然への共生的態度)
このように本書は、コミュニケーション論の視点から現代日本社会の構造をあぶり出そうとするものであるが、この一見ユニークな視点はまた、問題を論じる視点の重要さそのものを再認識させるものである。このことは、著者が指摘する利潤至上主義的経済システムにおける〈労働・搾取〉と、偏差値至上主義的学校システムにおける〈コミュニケーション・いじめ〉構造との相乗作用を見るとき明らかであろう。ただし本書で提唱された「共生・共同の理念」や「人間と自然との共生」等の概念については、まだまだ今後深化発展させられる必要があろう。しかしこのことを差し引いたとしても、現代日本社会の諸問題に対してコミュニケーション論の視点を打ち出したことの意義は大きいと言えよう。(R)
【出典】 アサート No.218 1996年1月20日