【投稿】教育も、「変わらなきゃ」

【投稿】教育も、「変わらなきゃ」

1995年も、「いじめで自殺」報道が絶えなかったし、96年も初頭から、神戸で犠牲者が出てしまった。その1月9日の新聞を読みながら、深い悲しみと同時に、ため息がもれた。小、中、高問わず、いじめが原因で自殺する。不登校、中退、いじめ、最近の教育を語る時、誰もが口にする用語だ。そう語りつつ、有効な手が打てていない。
文部省も各教育委員会も、必死に研修をしたり、通達を出したりしているが、現状は深刻になるばかりだ。もっと抜本的な方策を採らなくては、子どもたちを救うことはできない。日本の教育は、もっともっと「変わらなきゃ」いけない。
「学校5日制」が導入されたとき、「明治以来の学校改革」といわれ、「学校は変わる」「学校は変わらなければいけない」と、推進者たちは言った。しかし全国的レベルでのめざましい成果は、残念ながら上げられていない。そして、95年・96年「教育改革」が提唱されている。内容のともなった改革にするためには、学校現場が、子どもと日々接触している教師が、変わらなければならない。こんな陳腐な表現をあえて使うのも、「教師」という立場にいると、「変わらなきゃ」と思っていても、「変われない」ことが随分多いように思うからだ。小学校に勤めているわたし自身の実感である。
「個性を大切に」と言いながら、朝礼や体育の時には「前にならえ!」--新しい年を迎えて、わたしは、この「前にならえ」をやめようと考え、担任している子どもたちに話した。教師には「民主主義者」を自認している人が多いが、子どもたちにとっても「民主的」かどうか、日々の教育活動を検証してみる必要がある。「前にならえ」は、明治以来の方法だし、「体罰」も法的に禁止されているにもかかわらず横行している。
学校の主人公は子どもたちであるはずだ。その子どもが、学校に来れなくなったり、やめざるをえなくなったり、学校のことが原因で命を絶ったり、非常事態である。
自己変革も含めて、学校を、教育を、変えていきたいと思う。
(大阪・田中 雅恵)

【出典】 アサート No.218 1996年1月20日

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