【投稿】武満 徹著「時間の園丁」(新潮社刊)を読んで

【投稿】武満 徹著「時間の園丁」(新潮社刊)を読んで

 昨日読んだ「時間の園丁」のなかで、妙に気に掛かる言葉がある。それは、武満が「官能性」ということにしばしばば触れていることである。第2回芥川作曲賞の選考過程の述懐では、これを限定的に使用し、黛や松村禎三らが山田泉の「ひとつの素描」を官能性の豊かさのゆえをもって推挙したことに対して異議を申し立てているが、同書に収録されいる文章の他の箇所、例えば、日経新聞の文化担当記者への回答文のなかで、現代音楽がマイナーなものにとどまっている最大の理由として、官能性の欠落をあげ、1980年代以後にその反省が起こり、それが、現代音楽を大衆にとって身近なものにさせるうえで大きく寄与したと述べていることなどが、気掛かりになるのである。
勿論、官能性という言葉自身が多義的でものであり、単に無味乾燥でないこととか、あるいは人間的なことなどを意味する場合がないわけではないが、ここで言われているのは、より積極的な事象の表現としてであるようだ。特に、1950~60年代、つまり、12音技法を中心とする音楽言語と技法による、時代精神に鋭敏な百花繚乱、百歩譲って、百鬼夜行の時代と比較して、80年代が官能的と言うのであれば、それは、なんと力ない無内容な猥雑なものであろうか。これが、いわゆる「ネオ・ロマンティズム」を指していること、俗論として流行している「ポスト・モダン」の音楽を賞賛していることは言うまでもあるまい。あるいは、この意味するところはそれほど深刻なものではないのかもしれない。意外と、武満が、自らが主宰した「ミュージック・トゥデー」や「八ケ岳音楽祭」を通じて、いやおうなくその位置に立たされざるをえなくなっていた現代音楽のリーダーとして、その弁護を引き受ける積もりで、無理にこんな外交辞令を述べているのではあるまいかと思うほどである。そもそも、官能性とは、抽象に対する具体性とか、感覚的な快感とかを意味するものであるまい。ベルクとウェーベルンを比較して、ベルクがより官能的だという時に、頷ける意味合いにおいてそれは成り立つ、ある要素の優先あるいは表面化に過ぎないのではあるまいか。こと芸術に関して言えば、官能性が自律した絶対的な要素として外部に存在し、それに接近することがポピュラーであるというようなものではあるまい。芸術によって官能性もまた能動的な挑戦を受け、それ自身が揺らぎ、その波動によって変化していくものであろう。
80年代以降、安直な弛緩した宗教性やモビリティとダイナミズムを失った抒情性という「官能性」が、若手作曲家を中心にして氾濫しているなかで、武満が自身の作品の価値を突き崩すような、俗論に与したのではあるまい。(グレツキの「ソローフル・シンフォニー」やグレゴリオ聖歌の妙な人気やアダジオものの相次ぐ発売などがこの系譜の一部であると言えば暴論であろうか)こういった感慨も手伝って、今日は、彼の初期のピアノ曲を繰り返し聴く。「リタニ」(事実上彼の第1作である1950年の「2つのレント」の改定版)はもとより、「遮られない休息」(1952~59)だって、80年代よりもはるか前の世代のものであるにもかかわらず、十分刺激的で我々に豊かなイマジネーションの広がりをもたらしてくれるし、今日風に言えば「癒し」を与えてくれるものだ。それは、官能的でさえある。だから、最近NHKテレビで見た、ニューヨーク・フィル創設150周年記念の委嘱作品である最晩年の「ファミリー・トゥリー」の方が、ストーリーもあり生身の少女が登場するからといって、より官能的だなどと到底言うことは出来ないと思う。(この作品の演奏会の最後に、作曲者の武満と作詞の谷川俊太郎が舞台に上がって、指揮者の小沢等と握手を交わしていたが、これを見て、昔、「死んだ男の残したものは」を歌った頃の感慨が生暖かい風に触れたように蘇った)芸術家は、変革よりも風化を望むような感性の「慣性」の重圧に負けてはならないのであろう。この最後のエッセイ集を読んで、もうひとつ気掛かり(こっちは感銘を受けたほうであるが)なのは、「時間の園丁」のなかに漂う一種の無力感と世界に対する不信感である。つくずく思うのだが、これとの葛藤こそが、武満の音楽の大きなモチーフであったと言っても過言ではあるまい。それゆえに、彼がもっともっと生きて、ぎりぎりのところで、オペラであれ映画音楽あれ、音楽そのものの力は深く信じていたその得がたい逞しい精神力で我々に「真の癒し」を与え続けて欲しかったとの思うのであるが。(T・O) 

 【出典】 アサート No.222 1996年5月26日

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