【書評】「児童虐待と魂の記録」
『シーラという子・・・虐待されたある少女の物語』(トリイ・L・ヘイデン、
入江真佐子訳、早川書房、1996.3.31.発行)
「1995年10月25日付日本経済新聞によると、全国に 157カ所ある児童相談所で処理した18歳未満の児童虐待件数は1994年度で1961件と、91年度からの4年間で 1.8倍に増加しています。しかも虐待は家庭内という密室で起こり発見されにくいことを考えれば、この数字は氷山のほんの一角であり、実際にはこの何倍もの件数が潜在化している可能性があります」(訳者あとがき)。
本書は、このように日本でもよく聞かれるようになった児童虐待が、もっと大規模に深刻なかたちで発生しているアメリカで、小学校の重度の情緒障害児のクラスを担当している教師が、一人の6歳の少女・・・異常行動でまわりのものもすべてに反抗し、拒否する少女・・・を受持ち、その少女が、自分自身と周囲をを受け入れて成長していく過程を綴ったものである。
その少女の名は、シーラ。そもそもの話は、「11月の寒い夕方に、女の子は3歳の男の子を連れ出し、その子を近所の植林地の木にしばりつけて火をつけた」という事件から始まる。その女の子が、警察に拘束されて、州の精神病院の小児科病棟に措置されるが、そこに空きができるまで、ということで、著者の情緒障害児のクラスに押しつけられる。そこから著者の悪戦苦闘の日々が続くことになる。
季節労働者用キャンプの一部屋だけの小屋での、アルコール依存の父親との二人だけの生活。シーラが4歳のとき、弟だけを連れて家を出ていってしまった母親。そして幼時時代の虐待の経験等々、およそ正常な生育環境とはほど遠い状況で過ごしてきた彼女の行動は、著者にとっては、予想し得る限界を越えたものであった。特にシーラの最大の自己防衛本能は、「決して泣かない」ことを少女に強いていた。クラスと著者に慣れてしばらくして後、シーラはこのことを、担任である著者にこう語る。
「あたし、ぜったい泣かないんだ」
「どうして?」
「そうすれば誰もあたしを痛めつけることはできないから」
私は彼女の顔を見た。彼女の言葉が示す冷やかな感性にぎょっとしたのだ。「どうい うことなの?」
「誰もあたしを傷つけることはできないんだよ。あたしが泣かなければ、あたしが痛 がっていることはわからないでしょ。だからあたしを痛めつけることにならないんだよ 。だれもあたしを泣かせることはできないんだよ」
わずか6歳の女の子が、このような冷たく固まってしまった感性を持ってしまうほどの心の傷は、それ故徹底した攻撃と反抗(破壊的行為)で示される。その具体的な状況は、本書の至る所に見られるが、これに対して著者は、信頼と癒しによってシーラの心の扉を開こうとする。
それは、著者が読み聞かせるサン=テグュジュペリの絵本『星の王子さま』に出てくる王子さまとキツネの「飼いならし」(友情)ということに象徴される互いの心の通じあいと言えよう。こうした中で、シーラが、外見上から判断される知的障害児ではなく、並外れた知能の持ち主であることが発見される。そしてそうであるからこそ、より心の痛みが深いことが理解されるのである。
シーラが著者に対して徐々に心を開いていく過程は、山あり谷あり、期待と絶望と不安といらだちの混じりあった日々の連続で、本書を読んでいただく方が手っとり早いが、この中で一つの決定的事件が、彼女への性的虐待事件である。それは、途中から家に同居することになった叔父ジェリー(父親の弟)によってなされる。
かつて3歳の男の子に対しては加害者であったシーラが、今度は被害者として見なされることになる。この事件によって、著者の眼は、犯人であるシーラの叔父ジェリーに対する憎しみの気持ちから、ひるがえって、かつての被害者の男の子の両親がシーラに対して持っている怒りとかなしみの気持ちに思いいたり、さらに深化する。
「この事件に関しては胸の悪くなるような思いだったが、同時に私は不思議な胸の疼 きを感じていた。5ヵ月前には、シーラが加害者で他の誰かがその犠牲になったのだ。 被害者の男の子の両親は、チャド(著者の恋人・・・引用者)がいまジェリーに感じて いるのと同じように感じていたにちがいない。この極悪非道な犯罪はぜったいに許せな いが、私がシーラの中に見いだした心の傷が、おそらくジュリーの中にもあるのだろう ということに私は気づかされた。二人とも潔白ではありえないが、二人ともまた芯から の悪人というわけでもないのだ。ジェリーもまたシーラと同じく犠牲者なのだと思うと 、私はたまらなかった」。
ここには、被害者も加害者もともに抑圧して苦しめる「病める社会」の姿が端的に描かれている。これは、シーラの父親にもあてはまる。
「犠牲者はシーラだけではないのだ。彼女の父親もまた彼女と同じだけの気遣いを必 要としており、またそうされるだけの資格を持っているのだった。かつて、痛みからも 苦しみからも決して救われることのなかった少年がいて、それがいま一人の男性になっ ているのだった」。
何ともやり切れない社会状況であるが、著者は、この状況を冷静に見すえ、シーラの成長の妨害となっているものを取り除くべく闘う。われわれは、この著者の姿に心を打たれる。
しかしまた著者の努力が、孤軍奮闘であるとの感も否めない。このことについては著者自身も、「私は教師仲間の間でも、ずっと一匹狼的な存在だった。私は“別れるときに辛い思いをしても思いきり愛したほうがいい”派だったが、この考え方は教育界ではあまり人気がなかった」と述懐している。この点については、アメリカ的社会の特質と位置づけるのか、あるいはわれわれの社会にも共通するものを含む問題として考えるのか、議論される必要があると思われる。
そしてこれに関連して、行政の側からする障害児教育の位置づけの問題がある。本書では、結局著者の受け持つ障害児クラスは解散されてしまうことになるが、著者と同様に、行政の側の担当者にも切実な問題として提起されている。
以上本書は、感動的なまた驚くべき場面の連続によって、一人の少女が成長変化していく姿を描いたノンフィクションであるが、このような例は極端なものであるとしても、同様な子どもがあらわれてくる背景が日本でも確実に存在している今日、他人事では済まされぬ内容を含んだ書であると言えよう。孤軍奮闘的な本書とともに、子どもを取り囲む状況に対する社会的連帯を示唆する書が続いて出てくれることが待たれる。
それにしても、シーラのような子ども・・・並外れた知能を持つと同時に社会性が全く欠如している・・・が示す破壊的行為と、現代社会の「エリート・システム」によってつくりだされた人々がしばしばもたらす社会的破壊行為とが重ね合わさって見えてしまうというのは、評者の思い過ごしであろうか。(R)
【出典】 アサート No.223 1996年6月21日