【書評】庶民・対話の思想から見る現代社会

【書評】庶民・対話の思想から見る現代社会
    鶴見俊輔座談(第1巻)『日本人とは何だろうか』(晶文社、1996.1.25.発行)

プラグマティズムの哲学者として、戦後の日本社会に対して積極的な発言を続けてきた鶴見俊輔の座談集が刊行中である(現在第7巻まで。なお著作集の方は『鶴見俊輔集』全12巻が筑摩書房から出ている。1991~2年)。座談集(対談集)の形式で10巻もの書物を上梓するというのも話題になるが、それにもまして注目に値するのは、その中で語られている鶴見の思想内容である。
鶴見は、現在40歳以上の世代には『思想の科学』研究会やベ平連の運動で馴染み深い人物であるが、その姿勢は、マルクス主義思想が日本の左翼陣営において圧倒的な権威を持っていた時代から、マルクス主義思想には基本的に敬意を払いつつも、スターリン主義的傾向の権威主義・独善主義に対しては、一定の批判を加えていくということで一貫している。いわば良心的プラグマティストの立場から、戦後マルクス主義の側面を見てきたといえるであろう。
その鶴見の座談集第1巻『日本人とは何だろうか』は、「日本民族、日本語、日本国家、この三つに属しているのが日本人だ。そういう感じは私にもある。そのことが、大まかに言って現状に事実としてあたっているという考えももっている。だが、そうではないということも、私は自分の底のほうでやはり知っている」という問題意識で語られる。
たとえば日米の文化の関係について次のように言う。
「外国のものというのは、ある意味で自分を打ち砕き、自分を破壊して、自分を新しくするきっかけになるという役割をとうぜんもつべきなんだけれども、そういう意味での自己を広げるということがぜんぜんないしかたで、しかも広がったような幻想をもてるようなシステムを戦後の日本はアメリカに対してつくり出していると思いますね。・
・・それは当時1940年に予定していた第12回オリンピックに、日本の国体は万邦無比(略)といって、それを英語に翻訳したりしてわーっとおしつけていたのと裏返し。両方とも好ましくないですね。」(「名取洋之助の仕事」) つまり鶴見は日本人を見る場合、われわれ自身に第三者的という意味でのさめた目が必要であるとする。それは日本に限らず、民族主義その他について語る場合にもあてはまる。
「その民族を見ているもう一つの目があるわけですよ。アフリカに行こうがどこに行こうが、その民族から虐待されているまたもう一つの目があるわけですよ。(略)そこから見ることがなければ。地球全体の人類政府をつくっても、それによって圧迫されているもののもう一つの目を、自分のなかにもたなきゃ。つまり人類以外の辺境から自分を見る目がなければ、究極的には、われわれは圧迫に与することになると思うのです。」(「金子ふみ子の生活」)
このことは、人間としての生き方においては、権力.特権に対して「大衆」「庶民」としての目をもち、生きていくことを意味する。そしてこれと同時に、鶴見は、「辺境」という言葉に積極的な意味づけを与えて、ここを庶民の基盤としていこうとする。
ここから学問のあり方について、鋭い批判が出される。
「官学は特権にもとづいた学ですけれども、民学は人権にもとづいた学でなきゃだめだ。そういうものが、いつでも官学にしてやられるわけでしょう。別の流れをとにかくつくっていかなきゃ、どうにもしょうがないのじゃないかという気がします。」(「幕末開明派の人びと」)
「点になった市民が一人からでももりかえせるという基盤、人権としての学問という考え方は共産主義の国家でも守られていない。」(同) これにかかわる知識人に対して評価はもっと厳しい。
「どちらかといえば、人間にとって根源的なのは、大衆としての生きかたなので、知識人も結局、大衆的なものだという気がするのですね。大衆はマスではなくて、それぞれ辺境に生きているものなんだ。だから知識人が辺境に生きて大衆はマスだという考え方は、前衛的知識人の迷信だと思うのです。そんなものじゃないと思う。結局大衆は辺境のなかに生きているし、知識人も辺境に生きるんだけれど、知識人は大衆として辺境に生きている。」(前掲「金子・・・」)
この鶴見の「大衆」「庶民」の原理は次のところにある。 「いま司馬[遼太郎]さんが言われた庶民というのは、わたしのことばで言えば、異心のあるもの、違う意見をもったものがいてもいいじゃないかという思想を、からだの反射としてもっている人間のことですよ。一億総玉砕のときでも、そういう人間がいるんです。(略)わたしはそこのところが重要だと思うのです。」(「日本人の狂と死」)
「かくあるべし、かくありたいと真円のような空中の理想を押しつけたがる人はいます。けれども、庶民のほうは、つねに地上に足をつけて歩いていきたい。」(同) この点の指摘は、戦前戦中の天皇制イデオロギーに対する批判であるとともに、また戦後マルクス主義に対する批判としても受け止める必要があろう。鶴見は、「原理原則が自分にのり移っているという狂気」、「集団の場で、より過激な意見を主張するのが必ず勝という空気」に徹底して反対し、「原理原則を押しつけるということに対するある種のこっけいさと、その非人間さに気がつかないと、人間はいまの状況からなかなか越えられないんじゃないでしょうかね」と、述べる。
そしてこれに対して、ある種の「女性原理」による「自治」、あるいは「小さな『人と人とのあいだ』をだいじにして、がっちり組んだ運動」のような形態を提唱する。これは、鶴見によれば、内なる天皇制原理も食い込む余地がなく、かなり悪い状況下でも持ちこたえられるものであるとされる。
このように鶴見の運動論は、地に足をおくことを目ざすものであり、この視点から現代日本社会についての発言もなされている。たとえば、オウムについても、「だから、オウムみたいな不寛容が出てきて、拉致とか殺しとかそういうことをやった場合に、その気持ちがわかるというリベラルってどうなんだろうね。やっぱりそこでは不寛容が出てきたんだから、それに対しては不寛容ではっきり言っていく。不寛容で寛容を守るということは必要なんじゃないかな」という発言となる。
鶴見の思想原理および運動論には、その現状認識や限界等について、さまざまな論議と批判を呼びおこす問題が含まれている。しかし同時にそこには、われわれが謙虚に学び取るべきものも存在していることは疑いないであろう。何よりも座談(対談)というかたちで明らかにされた鶴見の姿勢そのものがこのことを示しているように思われる。 (R)

【出典】 アサート No.225 1996年8月24日

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