【書評】『アメリカ知識人の思想──ニューヨーク社会学者の群像』

【書評】『アメリカ知識人の思想──ニューヨーク社会学者の群像』
         (矢澤修次郎著、東京大学出版会、1996.6.5.発行、3502円)

社会主義体制の崩壊以来、アメリカの一人勝ちのような世界情勢が続いているが、そのアメリカについては多数の書物が、歴史、政治、経済、社会を論じている。しかしアメリカにおける社会主義についてのものは、ほとんど見当たらない。そもそもアメリカにおいては、社会主義そのものが希薄になってしまっているのである。何故このような事態が生じたのか、この点について、そのごく一部ではあるけれども社会主義にかかわる学者・知識人をテーマにしたのが本書である。
本書では、アメリカ知識人(とりわけニューヨーク知識人)の文脈における社会学者に焦点を合わせて、彼らが「社会主義から社会学へ」と移っていった軌跡を辿る。そこでの問題は、19C末~20C初頭にニューヨークに流入・定住した大量のユダヤ人移民の問題、ファシズムの手を逃れてきた亡命知識人の問題、そしてまたアメリカの労働-社会運動史(とくにトロッキズムの中でユダヤ人が多数を占めていた分派「ワーカーズ・パーティ」)の問題にかかわる。
あらかじめ著者の意図を示しておけば、それは次の主張にもあるように「社会学」の「偏見」からの解放である。
「本研究は、1950年代にすでに、固有の研究対象を持たない似而非(エセ)科学とか、逆に人間の行動を統制・操作する非民主的な悪魔科学とかいったステレオタイプで見られ、知識人から最も遠いものと考えられた、社会学に対する偏見に対抗するものであろう。
社会学という専門領域の専門家でありながら、(中略)制度の拘束からできるだけ自由である、知識人であり続けることこそ、社会学をその偏見から解き放つものであろう」。
このような社会学はアメリカでどのように成立して社会主義にとり代わっていったのか。著者は、3名のニューヨークの社会学者(日本ではそれほど知られていない2人──セルズニックとコーザー──と、周知のダニエル・ベルの3人)を論じることで跡づけようとする。
まずフィリップ・セルズニック(1919~)が取り上げられる。セルズニックは、社会主義運動の経験を経て、トロツキスト内部の抗争(1939)以後、現実的な「誤解と過去のユートピア的な幻想を取り除いた社会主義」の構想にいたる。そして社会運動の組織分析に構造-機能分析(あるシステムの日々の活動は、その維持と防衛に果たす機能という視点から解釈される、との立場に立つ分析)を導入する。この立場からボルシェビキ党を考察してセルズニックは、ボルシェビキ党が何よりも「カードルの党」であること、その組織の欲求は絶え間なくその成員を動員し、訓練することであり、このことは操作可能性の極大化=個人を「隔離と吸収」によって「完全にコントロール」すること、で達成される、と指摘する。
著者によれば、「セルズニックは、思考のカテゴリーを与え効果的なコミュニケーションを保証してモラールを高揚させたのはマルクス主義であるが、政治・組織教議を確立したのはレーニンであると考えた。そしてマルクス主義が極めて多様な視角から討論の俎上に乗せられているのに対して、組織教義としてのレーニン主義はそれほど多様な解釈に付せられることがないと指摘している。そうした傾向を極点にまで押しすすめ、あらゆる教義を権力掌握のための闘争に従属させていくことを徹底させていくことによって、スターリン主義が成立したと判断している」とされる。
次にルイス・コーザー(1913~)が検討される(「ルイス・コーザー──亡命知識人の理論と実践」)。コーザーの問題は、亡命知識人としてのマージナリティ(隅におかれた状態)に基礎づけられた批判的な視座からの「闘争の社会的機能」に関しての探究──闘争が社会システム内部の変動を引き起こす機能ばかりでなく、社会システムそのものの変動をもたらす機能をももつこと──である。しかしこれは、交差的な利害と闘争の存在するアメリカ社会の多元性、自由主義の受容承認という結果を取ることになる。
また政治的にさまざまなセクトとの接触の経験から、コーザーは「貪欲な制度」という概念を提唱する。これは革命的組織のみに限らず、宗教等のさまざまな共同体に共通の概念であり、成員の完全なコミットメントを要求し、その全パーソナリティをその組織内部に包み込もうとするものであるとされる。そしてこのカテゴリーの一つであるセクトは、成員の個性の平準化(未分化な性格構造)と異端に対する徹底的な不寛容と「真理をわがものにしている」という主張を特徴として有する。それ故この視点からすれば「理想的なセクトの成員は、なんらその他の資質をもたない単なるセクト主義者なのである」とされる。
そして最後に本書の約半分を費やして、ダニエル・ベル(1919~)の思想的軌跡が考察される。ここで著者は、ベルについて従来指摘されてきたのとは異なる視点で好意的な評価を試みる。すなわちかつては熱心な社会主義者であったベルは、1950年頃に「左翼の枯渇」という現実に──政治的に管理された経済体制の中で、労働はもはや責任を果たすことはできない、労働は圧力団体ではありえても、社会運動ではない、という事実認識に──直面し、「イデオロギーの終焉」という主張をするにいたる。 しかし著者によれば、「その主張は資本主義の勝利というよりは、『資本主義の衰退のさなかにおける社会主義の袋小路化』というリアリティを反映しているように思われる。
換言すれば、イデオロギーの終焉は、社会主義が混合経済を受け入れ、資本主義が財産と市場の自由という原則を放棄して社会改良や経済的安定を手にする過程の一つの帰結なのである。その主張は積極的な解決ではなくて、否定的な解決策である」。
ここからベルは、大衆社会論批判をテコにして「脱-工業化社会」(理論的知識すなわち科学に基礎をおいた社会)論を展開していくのであるが、この概念の特徴は不確実性、非決定性、可塑性である。そして同時にベルは、科学が社会化され、官僚化されている現代社会では、その科学が統一性も意識的な目的も与えることができないということをも認めざるをえない。かくしてベルの問題(「それ自体正当なものとされる目的、価値の問題、全体としての社会の行く末をガイドすることのできる社会的な理性の問題」)は、依然として残されたままとなる。
以上のように本書は、アメリカの3人の社会学者の軌跡を辿ることによって、アメリカの労働運動・社会主義思想の問題と社会学との関連を探ろうとしたものである。この中でわれわれは、アメリカ社会の特殊的事情に発するとはいえ、社会主義運動の組織にかかわる諸問題が鋭く指摘されているのを見ることができる。それらは今なお分析解明されるべき機会を待っているといえよう。本書は、社会学に肩を持ちすぎていて(社会学それ自体の位置付けもまた検討されねばならないが)、しかもやや難解で専門的過ぎる書物ではあるが、その問題としているところについては注目する価値のあるものでもある。(R)

【出典】 アサート No.227 1996年10月12日

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