【投稿】総選挙討論を読み返して
先月号の「総選挙分析の意見交換会」を読み返してみて、感じていることをまとめてみたい。大きく分けて、第1に政治不信の議論について、第2に政策論争について、第3に「説明責任」について、第4に民主党について、である。
<政治不信について>
投票率が落ちるところまで落ちた、という点で、政治不信が極にまで達した、という議論があり、その原因についてF氏は要約すると「選挙で選択すべき政治の選択肢は、おそらく新保守主義が純化しないかぎり、似たりよったりとなっているのが現状。そんな中では政策論争が成立しないのでは」と捉え、C氏は「政策論争の課題は税制改革など、勤労者にとっての政策提起など現状でも可能。ただ、そんな選挙を闘った政党がなかったために、政策論争にならなかった。」と反論。「普通の市民」として、選挙に「関わった」D氏は「そもそも政策で一致している政党がほとんどない、中でどうして政策選挙ができるのか」・・・・と、立場を反映しながらも、残念ながら噛み合う、というところまでいかなかった。
私の意見としては、ややF氏に近いものがある。投票は国民の義務と言っても、投票による政治参加に「魅力がない」から、投票に行かないわけで、個々の課題である戦後補償問題、沖縄問題、そして消費税問題にしても、「それで私の生活がどう変わるの?」みたいなところになると、今一つの感がある。全体として「中産階級化した」とは言わないが、国民の中にとりあえず「現状に満足」みたいな感触があるのでは。それを脅かす事態が迫っている、という感覚は国民に希薄になっている。これは事実の問題。
そういう意味では、60年・70年の安保世代が共有する「世代の危機意識」みたいなものは、F氏のいう「日本における新保守主義」が、どう展開していくのか、政策で見る新進党含めた「新党」、また自民党の政策の現状については、引き続いて議論が必要だと思う。
選挙に関わる人は「選挙産業従事者」であり、いまや選挙産業は「斜陽産業」ではないか、というD氏の意見も、なかなか的を得ているように思えた。
<政策論争について>
政策論争にならなかった、ということは一致しているが、どうしてならないのか、またどんな政策提起が必要なのか、という点では十分な議論になりませんでした。
我々は、金より政策、政策選挙が大切だ、と主張しているわけですが、残念ながらそれは今回の選挙でも実現されませんでした。というのも政策とは、そんなギラギラしたものではなく、もっと冷静なものであるし、起承転結・一貫性のあるものでなければならないわけです。F氏のいう「部分的政策も、全体に影響し、負担も含めての政策提起・決断が問われるものが政治であり、その全体を貫く価値観(世代?)こそが敢えて今選挙の争点であった」みたいな意見は、至当と言えるものであった。
環境というものさしから、ガソリンは高くていい、という考え方が是認されれば、その税財源で環境政策を行うことも可能になる。そうした価値観に基づく政策的提起は可能だと言えるということかな。
消費税議論も同様であった。私は消費税増税賛成である。その条件は所得税減税、さらに上限撤廃、租税特別措置の廃止・縮小などであろうか。もちろん、インボイス実施である。日常的な食料品等への2重税率も必要である。もはやエンゲル係数が10数%という時代に低所得者への影響のみで「消費税反対」というのは、「受け狙い」以外の何者でもない。共産党が「一環した政策」を提起しているなどというのは、全くの幻想にすぎないし、新進党の「消費税据え置き」提案も無責任の極みであった。
<説明責任について>
さて、この意見交換会の後で、同じ問題意識から興味を持って呼んだ本がある。「ウォルフレンを読む」(窓社:関曠野編)である。書評で取り上げるべき書籍なのだが、「日本/権力構造の謎」以来、日本論、知識人論など日本の民主主義確立への提言を継続的に行っているカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の「問題提起を意味を吟味し、自らの分析によって検証し、内実ある公論をつくりだす契機として」編集されたものだ。私も「謎」は軽く読んだ経験があるが、この本を読んで、さらに現在読み直しているところである。
民主主義について、われわれは「権力の一形態」だと、教えられてきた。もちろん「ブルジョア民主主義」「プロレタリア民主主義」などといっしょに。しかし、教条主義は別にして、民主主義は政権交代を可能にする制度であり、そのシステムが日本に形成されていない、とするウォルフレン氏の日本論の展開に大いに興味を引かれた。
その中に、「アカウンタヴィリティ(説明責任)」という言葉も出てくる。政策や決定の責任者、政治家や行政担当者・官僚は、その政策・決定について「説明責任」を持っているのに、日本ではほとんど、その責任があいまいだ、という論は、HIV問題での厚生省の対応や、長良川河口堰での建設省の対応など、その通りである。
本号の生駒さんの投稿にも「情報公開の必要性」について記述があるが、全くその通りである。情報公開の必要な最たるものこそ、国家財政そのものかもしれない。税金の使われかたも含まれるし、財政投融資の実態、などなどである。情報公開により、政策論争も一層その興味が増し、政治への関心が深まるというものである。
意見交換会の中でも、国家財政の実態がよくわからない、という議論があった。我々の重大な課題なのかもしれない。
<民主党について>
最後は民主党についてである。選挙では現職維持ということで、その後あまり話題になっていないが、民主党はそれなりに組織整備を進めている。11月には大阪と兵庫で地域組織準備会議、12月には埼玉、神奈川、島根、北海道、香川で結成会議等の動きが始まっている。地方組織検討委員会の資料によると、「民主党の組織のあり方」として、自立した個人の結集による開かれた政治参画の場を追求することを組織原則とし、政党組織はネットワーク型とし、地方分権を推進し、地方政府と中央政府のあるべき機能分担を想定した地域・中央組織のネットワークをめざすことを打ち出している。
意見交換会では、必ずしも民主党でまとまるという雰囲気ではなかったが、新進党の分裂や自民党の先祖返り状況を見るかぎり、民主党の今後をしっかり見守りたいとおもうところである。
意見交換はひさびさであったが、前号の編集後記でも触れたように、我々内部でも意見が少なからず分岐している点があった。もちろん議論不足という意味だが、そういう意味では、再度「戦略論」的に議論の仕切り直しが、今後も必要だな、自分も勉強不足だな、と感じた次第である。(佐野秀夫)
【出典】 アサート No.229 1996年12月14日