【投稿】アウシュビツ収容所跡を訪れて
年末・年始の休暇を利用してヨーロッパを旅行した際、ポーランドのアウシュビツ収容所跡を訪れた。アウシュビツ収容所跡は、ワルシャワの南西約350キロに位置するオシフィエンチム市とそこから約3キロ離れたブジェジンカ村にある。宿泊しているワルシャワから特急電車で約2時間半かけてクラクフというポーランドの古都に行き、そこからタクシーで約1時間乗ったところであった。人口密集地から離れているため収容所の増設や隔離が十分可能であったこと、一方で鉄道の要衝であり収容者の輸送が容易であったことなどからこの地が選ばれたという。
「アウシュビツ」というのはナチスが命名した収容所の名称であり、こうした地名はない。オシフィエンチムの収容所はアウシュビツ、3キロほど離れたブジェジンカ村の収容所はアウシュビツ2号(ビルケナウ)と呼ばれた。1947年にポーランド政府により、かつての収容所を「国立アウシュビツ博物館」として永久保存されることとなった。
オシフィエンチムのアウシュビツ収容所跡が博物館となっている。「博物館」といっても、各国語の案内の販売やミニ記録映画を上映するだけの建物があるだけで、あとは実際の収容所の建物や鉄条網がそのまま残され、収容所の建物の中に、犠牲者の遺品などが展示されているのである。
収容所の入口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と書かれた皮肉な門が建てられている。その門をくぐって収容者は毎日労働に駆り出されていたのである。
実際に収容されていた建物のいくつかには、ナチスの犯罪を示す証拠が展示されている。犠牲者の衣服や遺体から取り出された義手や義足、眼鏡、髪の毛、そして20,000人以上がその前で射殺されたと言われる「死の壁」などである。
ナチスは更に効率よく殺害をはかるため、「チクロンB」という毒薬を開発し、シャワー室に見せかけたガス室で収容者の70パーセント以上を殺害したという。ナチスの敗戦が確実になり退却する際、歴史的な犯罪を隠蔽するため、多くのガス室を破壊して逃亡したが、それでもいくつかのガス室・焼却炉は破壊を免れ、また利用された毒薬「チクロンB」の空き缶は残され、山のように積まれ、展示されている。
アウシュビツ収容所は最初、ポーランド人の政治犯を収容するため設立されたが、その後、ユダヤ人・ソ連軍捕虜のほか、囚人としてチェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人、ドイツ人なども収容されていたという。収容された者のうち、ほとんどのユダヤ人や体力のない者、病気の者はすぐに銃殺やガス室に送られた。そうでないものは強制的に働かされた。収容所の増築作業や近隣に建設された向上での労働である。ナチスは収容者の個々人の写真を前後斜めの三方向から写真をとり個人ファイルまで作り、細かく管理した(あたかも警察が被疑者一人一人の写真を撮って保存するように)。何千もの収容者個人の写真が証拠として壁一面に展示されていた。子供もいれば、女性もいる。こうした写真がこの場所に生身の人間が確かに収容されていたことを生々しく物語っている。
アウシュビツ2号(ビルケナウ)の収容所はアウシュビツよりもずっと広い。ナチスは虐殺設備の多くをここに置いたというが、多くはナチスが逃亡する際に破壊されている。端まで歩いて10分以上はかかる広さで、こちらまで見学に来る人は少なかったが、この場所で数百万人が虐殺されていたという事実の前に感じた寒けは、決して朝から残っている雪のせいだけではなかった。タクシーを待たせていたため、2つの収容所を合わせて3時間くらいしか見学できなかったが、じっくり見れば半日はかかるし、決して短時間で通り過ごせない場所である。
アウシュビツの収容所跡について印象に残ったことは、変な加工など一切せず、広大な収容所と遺物をそのままの形で残していることである。おそらく全体で1キロ四方くらいにはなったかと思う。このことが、この地で人間が人間を虐殺した歴史的な事実を50年を経た今も風化することなく我々に伝え、未来への教訓としているのである。
(大阪ABC)
【出典】 アサート No.194 1994年1月15日