【投稿】革新の論理と日本社会党の立場  by 鈴木 市蔵

【投稿】革新の論理と日本社会党の立場  by 鈴木 市蔵

 鈴木市蔵さんから、以下の私信とともに、原稿が送られてきました。
『 近頃は読みごたえのある論文が載るようになりましたね。改題とともによくなったようです。「人民のカ」にのせた、小論をおくります。よかったら「転載」をしてください。』

はじめに
 「政治の世界は一寸さきは間だ」と政界の長老がいったことがあった。いまの政治の状況がまさにその通りである。ここで、これからの成りゆきや、展望まで見通すのはむずかしい話しで、まして、それを土台に事態を論ずるのはいささか気が引けることではあるが、締め切りの関係もあり、この一月二十五日現在の時点で問題点をさぐってみることにした。
 一、「政治改革法案」というものの位置づけだが、いったいこの法案の狙いはどこにあるのか、どこに焦点をあてているのか。
 二、この法案の本質上の責任者はいったい誰か、それは自民党ではないか、自民党が法案が否決されたとき、本当の痛みを感じたか、否、かえってホッとしたではなかったか、責められるべきは自民党であることをマスコミは忘れている。
 三、社会党はどうであろうか、自民党からの多数の造反者が出て、参議院本会議で否決ということになったわけであるが、連立政権の与党第一党としての責任はどうなるのか、造反者の考えは、その行動ははたして正しいものであったろうか。
 四、細川政権はどうなる。残された時間はない。廃案に追いこまれる公算が強い。その場合、責任を取って総辞職するのか、解散して信を国民に問うことになるのか。等々の問題が押し重なっている。ここで、革新の論理はどうあるべきかをさぐるのが本題の中心で、一緒に考えてもらいたいと思う。

法案の狙いはどこにあるか
 窺った評論は「小選挙区」の導入で、保守二大政党を目指しそのさきには改憲がひかえているといっている。だが、これは世界の動きを勝手に処理できるとでも考えている連中の想定で、事態はそうはならない。二大政党制でアメリカ式を念願しても、これだけ価値観の多様性のなかで、二つの政党に世論を収れんすることはできない相談である。下手をすると、「小選挙区制」で、政治の活性化が生き返って、イタリアなみに「イタリアでは比例代表制から逆に『小選挙区』主導型に代わったが、三月に予定されている総選挙では、左翼を中心とした政治勢力が勝利するのは確実だといわれている」と、いうことにならないとも限らない。もっともこのためには、左の政治戦線が統一されていることが前提条件で、いまの日本では間に合わないのが残念でならない。その場合、「社共」の共闘が軸になって、国民にアピールする政策づくりが先行されねばならないが、それができたら「小選挙区」での一騎打ちで、政治闘争は必ず活性化する。次元は違うが、今年は東京の東久留米市、去年の秋は、大阪の岸和田市の二つの市民選で、「社共共闘」の候補が、自民、公明、日本新、新生、さきがけなどの推薦候補を破って勝利している。
 二大政党の夢は、冷戦後の世界では通用しない。多様化のなかの連立政権が、しばらくの主役になるであろう。
 こうみてくると、改革法案などに脅かされて、すべてを「制度」化の罪になすりつけての反対論などは、いわゆる「負け犬」の論理というもので、これでは国民はついていけない。

責任はすべて自民党にある
 改革法案が否決されて、自民党が居直ってきたが、「政治改革」四法案をもっとも必要としたのは、保守的体制の温存をはかる自民党である。
 できれば自分の党の案の丸呑みをこの機会にせしめようとする魂胆がいまの時点では見え見えである。政治資金規制法の抜穴、企業献金の温存、法案の基幹部分の修正などを狙っている。それは改革ではなく改悪である。だが、この党は単純ではない。自党のもくろみを通すにも、質の悪い手練手管一の矢、二の矢とくり出している。ひとつは両院協議会で、ごねる。ごね得の言質をとろうとする。二つには、四法案を廃案に追い込んで、細川政権を危機に立たせる。総辞職は、この際、解散の口実になりかねないので、総辞職も、解散も、時節柄不向きであるとの理由をかかげて、ゆさぶるだけゆさぶりにかかる。悪しゅうとめの嫁いびりはお家芸である。この悪知恵、諸悪の根源が、政治的に無罪で、否決に祝杯をあげるをだまって見過ごすことはできない。社会党の造反組は予想だにしなかった自民党の活気に頭を抱えているだろう。
 この党は五五年体制の主役として、独裁的な政権党として、二十八年間、日本政治をろう断してきた。そして、独占資本と国家権力との癒着の指揮棒をにぎり、官僚陣をしたがえての、いわゆる政官財の鉄の三角体を国家独占資本主義体制として築きあげてきた。この見返りの資金が政治買収を許した。この五年間だけでも、リクルート、佐川献金、金丸事件、ゼネコン汚職と積年の悪の標本はここに集まった。自民党も、金丸事件の正体の暴露をおそれて政治腐敗に歯止めをかける必要に迫られた。選挙に金がかかりすぎる、中選挙区での同士討ちをやめねばならない。腐敗防止と選挙制度の改正は一体のものとして、いわゆる「政治改革」四法案を登場させた影の主役であった。それは、この党の積年にわたる悪の贖罪としての意味も内包している。
 政治の世界はいわば責任のなすりあいの世界で、いちばん悪質な張本人が、自らの責任をふみにじって、法案反対の主軸となる。それは矛盾である。この矛盾はどんな形をとって爆発するのであろうか。

社会党の責任と「造反者」のいい分
 だが、実際のできごとは、社会党が責任を負う羽目になった。貧乏くじを引いたのである。社会党内の造反者が法案反村に廻ったために、十二票差という予想をこえた大差で、「政治改革」四法案は参議院で否決された。連立五党の第一党としての社会党の罪はやはり重い。
 社会党はこれからどのように事態の収拾にあたるのであろうか。やはり連立政権支持の立場をより強めるほか道はないであろう。ここで、造反者のいい分を開いてみたいと思う。かれらは一様に社会党の主体性なるものの危機を主張している。そして、この法案が通ることになるなら、「小選挙区」制のもとでは党は生きられない、消滅する、という危機感を吐露している。そして、四法案よりも腐敗防止法なるものを優先すべきであると説明している。
 これらの論旨は、すでにいくたびとなく党内論議のなかで、くり返してきた筈のものであり、いまさらの感なきにしもあらずで、本音は、もっと別のところにあるのではないだろうか、伝えられる主体性論と、連立重視論の対立のなかにある政治論の性格そのものに根ざすのではないであろうか。
 党外のわれわれにとって、深い党内事情は知るよしもないが、もし、造反者の立場がそうであるとすれば、にわかに同調する立場にはない。われわれは、主体性論と連立重視の立場とは矛盾するものではなく、連立参加の意志決定も正規の機関の討議をえてなされたもので、主体性論が軽視されたものとは考えにくい。「小選挙区」では生き残れないという、いわば危機感は一種の想いすぎで事実の証明は一つもない。まして否決後の「改革」法案が、自民党の党利党略下で、より改悪されたものになるおそれがある場合、いったい造反者はどういう立場に立たされるのであろうか、政治は一面では妥協の産物ではあるが、その結論の基準は、いかなる結果であったかに評価はかかっている。

細川政権と革新の戦略
 問題の核心は細川政権、この連立政権のあり方こついての見解の違い根底に横たわっているのではないだろうか、細川内閣の現実的効用性を、より反動的な立場としてとらえるか、それとも日本改革への過渡的な、ある場合には、緩衝的な存在をもつ政権とみるか、この評価の分かれであろう。
 この政権は、まず自民党の一党独裁を打倒した、反自民政治連合の政権として出現した。日本の真の改革のためには、何よりも自民党の一党独裁を打ちくだくことから出発するほか迫はない。反自民連合はこの事業をなしとげて、五五年なるものにとどめをさしたのである。これはわが国の政治史上の貴重なできごとである。中国の新聞は、一九九三年度の世界十大ニュースのトップに、細川連立政権の誕生を掲げたのは偶然ではない。
 この政権は、日本のこれからの政権づくりが、さまざまな曲折をたどりながらも、連立、連合の政権たらざるをえないであろうことをつげる最初の烽火である。この先駆性をになった政権に社会党が責任政党として参加したのは賢明な選択であった。
 また、この政権は、日本の国家独占資本主義体制に、修正主義的なメスを入れようと試みた最初の改革者でもあった。いわゆる鉄の三角同盟の一角である官僚の構造に一定の制限を加え、その権力を押さえようとした。国会内の政府答弁の権限の縮小、または廃止、人事権の乱用などの禁止などである。日本の政党、とりわけ革新の党がこの事実を過小評価しているのは怠慢である。
 汚職の一大温床であるゼネコンの伏庵殿に、司直の手が入ったことを、この政権は公正に判断しようとしている。このことは自民党政権下ではなしえないできごとで国民的共鳴の大きな支持をえている。
 かつての日本の戦争を、侵略戦争として世界へ宣言した認識の新鮮さも併せて、一時期七○%を超える支持率を得たのも理由のあるところである。
 細川政権の出現は、やはり、激動しつつある世界的情勢の日本的、集中的な政治現象としての客観性の上にたつものであり、同時に、改革、改造、修正がつまりは原理的勝利への今日的な戦略であらねばならないことを改めて教えている。(鈴木市蔵)

 【出典】 アサート No.196 1994年3月15日

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