【書評】労働時間短縮から個の生の自由へ
山科三郎『自由時間の哲学--生の尊厳と人間的共同』
(1993.6.10発行、青木書店、2472円)
長時間労働による人間疎外、およびその究極の帰結としての「過労死」、これが現代のわが国の縮図であり解消されるべき課題であると言われながら、今日もまた長時間労働が繰り返されている。この現実を暴露、告発している書が過労死にいたるまで働かされ続けた労働者の怒りやその家族の悲しみを訴えている時でさえ、長時間労働は止まる気配すら見せていない。
本書は、かかるわが国の社会を支配している独占資本の異常な長時間労働方策に対して、労働時間の短縮の闘いこそが人間の尊厳性の回復、人間の解放へのキー・ワードであることを主張する。すなわち、長時間労働の実態と構造を解明する第Ⅰ部「”企業社会”の陰影---長時間労働の根源はなにか」、人間の生活時間における労働時間(賃労働時間)の本質と位置について検討する第Ⅱ部「長時間労働と生活時間の構造の変化---時間から人間疎外をとらえなおす」、そして労働時間の短縮から自由時間の獲得を通じて人間疎外の克服と全面的発達を目ざす方向を探求する第Ⅲ部「自由時間の獲得・享受と人間の再生---”わたし”が”わたし”らしく生きるために」である。
著者はまず「一見、労働者の主体的な行為にみえる長時間労働は、労働者のいのちを全面的に否定(過労死)するにいたらしめる緩慢な、社会的殺人の未遂行為であるといわなければならない」として、過労死を「計画的な、凶器なき殺人」と特徴づけ、この長時間労働を強制するものとして、①企業社会維持のための秩序原理=「能力」主義的序列の原理(「業績」主義)、②優勝劣敗の原則の「競争」の原理、③「日本」的集団主義の原理、④「巨大企業による労働者の全生活過程の包摂の原理」を指摘する。
そしてこれらの原理に対応して(対応させられて)、労働者の側には独占資本による人格管理=「企業内人生」という生活意識が形成されて、彼らを長時間労働に駆り立てている。その内容は、①労働者の「意識革命」=企業への帰属意識を基盤にした、労働者の精神的生活を生涯的に管理する「生産管理」論、②「個人の消費(水準)が社会的権威を示すという生活原理」、および③「市場にあふれる商品世界への物神崇拝」=「飽食」と「浪費」によって象徴される「ゆたかさ」への渇望、である。こうして「労働者自身が主体的に『能力』競争をつうじて企業目標を達成することのうちに、自分の”生きる喜び”と”労働の誇り”を感じとる人間」=「ワーカホリック」となって長時間労働が遂行されることとなる。
しかしこのことは、彼の全生活時間の構造を根本的に変化せしめ、規定することになる。すなわち著者によれば、個人の一日の生活時間は、(a)生理的生活時間、(b)社会的労働(生活)時間、(c)家事的生活時間、(d)社会的・文化的生活時間に区分される。しかしこ
のうちの(b)社会的労働時間は、資本主義社会においては、労働者の「生命の発現」とい
う労働の本来的意味においてではなく、「賃労働時間」として、資本によって直接的に拘束された時間としてあらわれてこざるを得ない。従って右の個人の生活時間はまた、拘束時間としての(b)賃労働時間と、非拘束時間のその他(a)(c)(d)の各時間とに区別される。 周知のように資本主義社会においては資本の目的は利潤獲得であり、このためにはいかなる手段をも辞さないというのが資本の本性である。従って資本は、拘束時間の延長、非拘束時間の短縮のためにその全機構をあげて邁進する。この結果労働者は、(d)から(c)、(c)から(a)へと必要性の高い生活時間の領域に次々に追いつめられ、最後には(a)の生理
的生活時間すら削らざるを得ない状況に陥っていくのである。そしてこの挙句の果てに過労死に導かれると言えよう。かくして労働者は、二四時間稼働体制の下で彼の家族をも含めてその生活過程を支配され、「時間ドロボー」たる資本に従属し、疎外された生活時間(賃労働時間)を送ることになる。
ではこのような状況を克服する方向はどこにあるのか。著者はこれを、労働時間の短縮に見出そうとする。労働者の現状が右に見てきたようなものであるとするならば、「労働時間の短縮は、いまや、わたしたちの現実的生活過程全体の構造的な変革の問題」として位置づけられる。それは「労働者の”人間宣言”」なのである。この視点から現在闘われている労働時間短縮要求の運動を見るならば、労働時間短縮は、たんに労働者の生命を摩耗させる長時間労働からの一時的脱出という意味にとどまらず、「理屈ぬきで自分自身にかけられる時間」を獲得し、「人間らしく生きるための前提条件」となる。すなわち、「賃労働時間短縮は、(中略)疎外された労働をしいられる生活時間の長さを短縮し、短縮した長さだけ形式的には、自分の自由な生活時間として自分の生を未来につなぐというかたちで、労働者の日常生活における全面的な要求のうちに内在する未来志向に、(中略)表現する」。
それ故労働時間短縮には同時に賃金引上げがともなわねばならず、また法的社会的に公認させると共に、自由時間における社会的文化的生活活動の手段を活用し得る権利をかちとらなければならない。こうしてはじめて労働者は、「個の生の自由」と全面的発達の可能性を手に入れることができるのである。
ところがこの労働時間短縮の要求に対して、資本の側は、彼ら自身育成してきた「会社人間意識」、「企業内人生」によって希薄化してきた「余暇意識」を逆手にとることで、「余暇=自由時間」という宣伝を行ない、賃労働時間を他の生活時間に優先させる方策を打ち出している。そして余暇を企業社会において資本が労働者に対して精神的肉体的限界まで剰余価値を搾取するための社会的必要条件として位置づけ、これに従って労働者の「余暇」管理、余暇の消費過程の支配まで目論んでいるのである。
かかる独占資本の新たな領域に対する攻撃に対して、著者は、「自由時間---それは余暇時間であるとともにより高度な活動にとっての時間である」というマルクスの言葉を引用しつつ、その「より高度な活動」とは、「目的意識性」、「目的生活活動(目的志向型)」、「人間的な共同関係の創造」をメルクマールとする「人間活動の本質」であるとする。またこのためには「自由時間を使用する人間的な力、自由時間の使用能力の形成」が不可欠であることを指摘する。
そしてこのような労働者の自由時間、全面的発達を目ざす運動は、実は資本主義的大工業自体が発展過程において(社会的生産力の発展、労働者の全面的可動性等々によって)その客観的諸条件を可能性として形成しつつある。従って労働者は企業社会の原理に対して、「人間の原理」、「人間的共同の原理」、「自治的共同の統御」を全面的に打ち出すべきであるとされるのである。
以上のように本書は、長時間労働の批判から、労働時間短縮の主張を通して人間的共同という将来への展望を有するものとなっている。人間の本質的活動が労働にのみ限定されず、その他の生活時間にも眼が向けられている現在、本書のように労働時間に焦点を合わせて問題を論ずるタイムリーな姿勢は評価されるべきであろう。ただ賃労働の克服が労働時間短縮をひとつの契機とするとはいえ、これのみにとどまらないことは明かであり、また独占資本の側からの強力広範囲かつ組織的な日常攻勢にどのように抗していくかについては、自由時間の目的意識性に加えて、労働者の側からの積極的かつ組織的な対応が重要な環を占めると考えられる。現在のところ本書にそこまで要求するのは無理であるとしても、本書が人間の生活活動を考察する上でひとつの指針を照らし出したことは確かであり、今後、自由時間・遊び・創造的活動等人間の本質を検討する際に示唆を与えるものであろう。(R)
【出典】 アサート No.200 1994年7月15日