【投稿】朝鮮通信使に何を見るか
—-戦後処理における江戸時代と現代の落差—
<<多彩な取り組み>>
去る10月13日、大阪で「朝鮮通信使に何を見るか 善隣友好の260年」と題する公開シンポジウムが開かれた(朝日新聞社主催)。これは、9月13日から10月23日まで大阪市立博物館で開かれた特別展「朝鮮通信使-善隣友好の使節団-」に合わせて開かれたものであり、同時にこの期間、朝鮮通信使縁地自治体サミット(10/1)、朝鮮通信使が遺した津市と鈴鹿市の二つの唐子踊りの合同公演(9/25)、朝鮮通信使物故者の追悼慰霊祭(10/9)、辛基秀氏の講演会「朝鮮通信使と日本」(10/8)や4回にわたる「市民セミナー」など多彩な取り組みがもたれた。いずれも青丘文化ホール(主宰・辛基秀氏)を中心とするネットワーク朝鮮通信使展の人々の多大な努力によるものである。そしてこの特別展が、二度にわたって朝鮮侵略を行った豊臣秀吉の大阪城本丸内の博物館で開かれたという事実、それが問いかけるものは、現代の日韓・日朝関係に、そして戦後処理にかかわる日本政府やさらにはわれわれ民衆の姿勢を厳しく問い直すものであったともいえる。
<<朝鮮侵略とは対極に位置する使節団>>
ところでこの朝鮮通信使とは一体いかなるものであったのか。戦前はもちろん、戦後においてもほとんど触れられることのなかったテーマである。ようやくここ十年前後に教科書でも取り上げられ出したところである。それには相応の理由があったといえよう。まず、豊臣秀吉の時代の朝鮮侵略と明治維新以後の秀吉賛歌、征韓論の登場、そして朝鮮侵略、日韓併合という歴史的事実である。ところがこの狭間にあった徳川・江戸時代というものはどのような時代であったのか。これを朝鮮侵略とそれと対極にある善隣友好の使節団・朝鮮通信使を軸にして歴史を見直すと、これまでの歴史観とは相当に異なった江戸時代の本質的様相が浮かび上がってくる。いわゆる征韓論、これは後期は別として江戸時代には表面上は否定されていたものである。秀吉の前後7年に及ぶ、15万8000の大軍を出した朝鮮侵略、文禄・慶長の役(壬辰倭乱、1592~97)を傍観し、秀吉の死と豊臣方の疲弊の機に乗じて1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、実にこの侵略戦争後9年で朝鮮との間に平和使節団を実現させているのである。そして1607年から1811年まで、12回にわたって、少ない時でも300名、多い時には500名の大型使節団を迎え入れ、各藩、各大名に歓待の限りを尽くさせ、対馬から江戸まで延々1000キロ以上に及ぶ大行程をさまざまな政治的文化的芸術的交流の場として提供し活用しているのである。その意図や狙いは別として、敵対と侵略の期間よりも善隣友好の期間の方が日本の歴史上最も長いのである。戦後50年を経過しようとしているのに、いまだ戦後処理にもたついている現在の日本の姿とは対照的であるといえよう。
<<「民際」の重要性>>
さてシンポジウムでは、辛基秀氏を中心に、上田正昭氏(大阪女子大学長)、ロナルド・トビ氏(米イリノイ大教授)、田代和生氏(慶応大教授)、河宇鳳氏(韓国・全北大教授)がパネラーとして参加した。上田氏は、国際交流の国際に対置するものとしての民際ということの重要性を強調され、民衆と民衆の交流にこの朝鮮通信使が果たした役割を指摘し、さらに雨森芳州という当時の傑出した外交官が幕府や藩の思惑を超えた交流、「互いに欺かず争わず」、「誠信の交わり」という誠信誠意の外交を推進した意義について強調されたが、これは各パネラーとも一致して強調された点であったといえる。雨森芳州が朝鮮侵略を「大義名分の無い、無名の戦」と断罪した言葉は、現今においても再確認されなければない言葉であろう。
一方、江戸幕府側としては、鎖国政策をとりながらも、対朝鮮、そして琉球を通じた対中国、さらに対アイヌとは貿易通商関係を維持することが必要不可欠であったし、アジアの中での孤立を避ける必要からも、そして日本における将軍の権威確立の必要からも朝鮮との平和な関係を維持し、使節団を盛大に迎え誇示する必要があった。また各藩に多大な財政負担をさせる必要もあった。田代氏はこうした問題点を経済面から強調された。江戸時代の鎖国政策の意味と現実を改めて検証しなおすことが問われているともいえよう。
<<わだかまりを払拭するもの>>
河氏は、この朝鮮通信使が室町時代から行われてきたものであり、しかもそれは相互に60回以上にわたって訪問していた事実を想起し、その後戦国時代に中断したのであるが、豊臣時代になると、当時の首都漢城への日本の使節団の三つのルートが秀吉の朝鮮侵略のルートにことごとく利用されたことから、江戸時代は日本側の使節は釜山どまりとなり、その後の植民地化を通じた屈辱と苦難の歴史の中で、第二次世界大戦後の現在においてもいまだ重要な不信感の根拠となっており、容易にわだかまりが消え去らない状況を指摘していたことが印象的であった。トビ氏は、河氏の指摘された状況を日韓双方を滞在して実際に感じたことを報告しながら、同時に今回トビ氏がアメリカで新たに発見した江戸時代の狩野派の画家・久隅守景の描いた12枚の朝鮮通信使の行列を描いた絵をスライド上映して披露し、いかに当時朝鮮通信使が重要なイベントであり、多くの民衆から好奇と好意を持って迎えられていたかを明らかにされた。会場からの質問や疑問にも応える形で多くの問題を提起したシンポジウムであったといえる。
村山内閣は、これまでの政権とは違った戦後処理、戦後補償問題に対する誠信誠意の「民際」をともなった善隣友好外交に大転換すべきであろう。朝鮮通信使展と一連の今回の催しは改めてこのことを確認させてくれるものであった。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.203 1994年10月15日