【社会時評】2つの生誕百年  江戸川乱歩とダシール・ハメット

【社会時評】2つの生誕百年  江戸川乱歩とダシール・ハメット

今年1994年は、江戸川乱歩生誕百年である。乱歩が主人公の映画「Rampo」が、フェモロンの香りを出すということで話遺を呼んだり、ミステリー雑誌が特集号を縮んだり、かなり世間一般には乱歩生誕百年が知れ渡っているようである。しかし何よりも少年探偵読
物—少年探偵団、明智小五郎、小林少年、怪人二十面相等—が乱歩の名前を伝説的にしている。これらの読物が発売された当時といっても怪人二十面相が最初にデビューしたのは、1936年(昭11)であるからかなり昔ということになる—-から、少年達にとっては、乱歩と明智小五郎の区別がつきにくいほど、乱歩は彼らの心の中に住んでいるのである。
この乱歩は、わが国の探偵小説(デテクティブ・ノベルズ—推理小説)の草分け的存在であり、当時としては最新の心理学理論—異常心理学、深部(深層)心理学、精神分析等—を駆使して自ら探偵小説を創作するとともに内外の作品を精力的に紹介して、わが国の探偵小説の確立に大いに貢献した。そしてこの系譜は、過去何回かのブームを経て、現在も受け継がれている。
その乱歩の生誕百年ということは、わが国の推理小説界を乱歩がたどった足跡を手がかりに、しばし考えてみる機会が与えられたということであろう。そこで現在発行されているr江戸川乱歩全集J(全25巻、講談社)をはじめ、文庫本等によって乱歩の作品を読み返してみると、乱歩が目指したものは、探偵小説というものの性格上、ストーリー、トリック、謎解きの面白さであることはもちろんのことであるが、それ以上に人間の心理のそこにある何かではなかったか、と思われる。すなわち日常普通の人間の心理では表面化しないが、その人間の心の奥底に轟いている暗闇のような欲望、自分でも気付かないままに捉えられている欲望こそが、乱歩の珠究の対象であったと言えるのである。そのことは、初期の本格物と呼ばれる作品においてさえ、加虐性、被虐性、性格異常といったテーマに事欠かないばかりでなく、時代が下るにしたがってその要素が大きな比重を占めるようになり、一種異様な雰囲気、独特の生臭さがただよってくることが示している。
人間の心理の奥底にかかる暗闇を見、それをテーマに作品を書くという乱歩の姿勢は、乱歩自身が自らの創作態度について語っている、自分自身について知るということと密接な関係がある。つまり乱歩は、われわれは日頃自分自身についてほとんど知らないままに生活していて別に不思議とも思っていないが、実は自分についてこれほど知らないということは問題ではないが、だから最も大事なものは自分自身である以上、自分についてもっとよく知ることが必要である、ということを語っているが、(「探偵生活四十年)、その自分自身の探究、すなわち人間の心理の根底に潜む傾向の探究が、乱歩の作品を支えているのである。だから乱歩のテーマには、日常から見て異常な状態である犯罪、殺人を扱いつつも、それをさらに異常な猟奇にまで追い詰めていくものが多い。
それ故かかる乱歩の文学は、自己の内部に閉じこもる文学であり、現実から逃避する文学であった。従ってそれがそのような傾向を有する限り、現実の社会とは隔離されたところで—-乱歩のイメージを借りれば、土蔵の中でローソクの光をたよりに読むような文学として—-存在すればよく、政治、経済、階級等々とは何の関係も持たずともよかったのである。
しかし現実には、乱歩の方でそのような姿勢をとっていたとしても当時の日本の時代の方が彼をからめとり、引きずっていくのである。すなわち乱歩の活躍した時代とは、あの1930年代であって、日本が大恐慌から侵略戦争へとドロ沼への道を歩んでいるときであった。その時期に乱歩は、社会に背を向け、ひたすら自分自身に閉じこもることで自分を珠究しようとしたのである。しかしこのような乱歩ですら、戦争への遣をゆく日本帝国主義にとっては目障りな存在であり、社会的風潮に逆らうものとして弾圧するべき対象と映ったのである。そして実際戦争が急を告げるとともに、乱歩のほほ全作品が禁本となり、乱歩は実際上執筆活動を断念せざるを得なかったのである。
その禁が解けるのは日本の敗戦を待つまでなかったのであるが、このような悲劇が、乱歩に限らず日本の文学、ジャーナリズムのいたるところで起こっており、今なお問題が解決されていない部分がある。われわれは、この乱歩の姿勢とそれがもたらした結果にどのような教訓を見るべきであるのか。自己の内面追求という主観的意図と現実の社会の客観的な動きとの関係を、乱歩の文学をひとつの例として考えていくことができるのではないだろうか。
さて生誕百年を迎えたもう一人の推理作家は、ダシール・ハメツト(DashiellHammett)である。ハメツトは、近年ハード・ボイルドの先駆者として評価が定まりつつあり、アメリカ社会に対する批判的作家として本格的な研究がなされている。わが国でも、「マルタの鷹」「赤いい収穫(血の収穫)」等の作品はよく知られている。
ハード・ボイルドは、この後レイモント・チヤンドラー、ロス・マクドナルドなどの作家を得て全盛時代を迎えることになるが、彼らに共通しているのは、その乾いた文体とともに、当時のアメリカ社会に対する批判的視点であり、同じ30年代の作品として比べてみれば乱歩との相違は歴然としている。腐敗堕落したアメリカの都市を舞台に、大上段で正義を主張するわけではない(実際、裏取引も、脅迫も、はったりも行うし、また暴力を是認する姿勢もあって、この点に関しては議論が必要である)が、しかし腐敗—権力の腐敗と同時に左翼の腐敗も—をそれなりに暴き、自己を主張していくハメツトの主人公達は、ニヒルな面を持ちつつも現実社会に生きる人間として描かれている。
ハメツトの作家としての活動は、デビューした頃のいくつかの長編と後にまとめられた短編集を残すのみで割合に短命で、その後にはまったく作家活動をしていない—その理由としては、全米的に知られた人物として、さまざまな社会運動に参加し続けている。
たとえば、第二次世界大戦の時期には、スペイン人民戦線支援やユダヤ人迫害反対運動と関わり、戦後の「赤狩り」の時代には非米活動調査委員会での査問会に召喚されたが抵抗し、投獄される目にもあっている。
このようにハメツトには、作品の内外を問わずアメリカ社会を批判するという姿勢が貰かれており、その後継者たちにも、批判的視点が脈打っている。現在アメリカで流行している推理小説にも、アメリカ社会のさまざまな現実—中央や地方の政治の実態、法廷の内幕、警察の腐敗、下層社会の貧困、人種差別、麻薬や銃社会のもららす歪み等-を背景にしたものが多いのもそのあらわれと言えよう。われわえは、これらの作品を読むことで、アメリカの病根を認識するとともに、それを克服しようとする民主主義の伝統を感じとることができるのである。
以上日米2人の推理小説作家の生誕百年について簡単に触れてきたが、これらを比べてみて、自己の内面に沈潜していった乱歩と、社会批判の目を持ち続けたハメツトとは対照的な姿勢の作家であると言えよう。すなわちそれは、一方では自己の内面に閉じこもろうとした乱歩でさえ弾圧する日本帝国主義の悪辣さとそれに屈服せざるを得ない文学の姿勢を、また他方では社会批判を堅持しつつ民主主義を叫ぶ文学の姿勢を示している。そしてこの伝統が今もなおそれぞれの国の推理小説に根強く生き残っていることを否定することはできない。
推理小説が、事件・謎解き・解決というゲーム的性格を有し、読物という娯楽的性格を持たねばならないことは言うまでもないが、それはまた、謎(ミステリー、非合理)を推理(理性)によって解いていく合理的な性格をもあわせ持たねばならない。そしてその謎、事件は抽象的次元においてではなく、具体的な現実に生起するとされる以上、その時代の社会的状況を反映せざるを得ない。ここに推理小説が現実の社会状況と関わる接点がある。この現実の状況を推理作家がどれだけ認識しているのかどうかが、さらには推理作家自身が置かれている状況そのものが問われなければならない。
わが国でブームが続いている推理小説が、一部マニアの同好会や、大衆のたんなるゲーム的な気晴らしに読まれる読物に終わってしまうという傾向を脱するためには、乱歩ではなく、ハード・ボイルド文学が踏まえた視点を、日本的な眼で考える必要があろう。ただこの動きが、最近の新進作家の一部に見られるということで明るい展望がなくもないということだけは指摘できるであろう。(R)

【出典】 アサート No.204 1994年11月15日

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