【投稿】週刊「金曜日」の創刊記念集会に参加して
『朝日ジャーナル』最終号に本多勝一氏が『XY新聞』新聞の提唱をし、出資者を募集していたことを覚えている人もいると思う。今回その出資者に呼びかけ、とりあえず(?)週刊誌を出そうとの話がまとまり、今回の集会となった。参加したS氏に感想をもらった。
尚、『XY新聞』と週刊『金曜日』との関係は、はっきりしていなっかたそうである。資料、予約購読の申込書等は編集部までご一報いただければ送ります。 (東京 Y)
1993年1月30日、東京・神田神保町の日本教育会館で、週刊「金曜日」の創刊記念集会が開催されるとの通知をうけ、出かけてみた。何しろ集会と名の付くものは卒業以来余り縁がなかったためか、はたまた編集委員に本多勝一氏、井上ひさし氏、筑紫哲也氏、久野収氏、石牟礼道子氏等著名人の名が散りばめられていたせいか、少々うきうきして会場に40分前には到着した。ところが会場は、人・人でごった返しており、幸い席は確保できたものの会場内外を見回る余裕はなく、その間配られた創刊の言葉をただ読んで、ひたすら開会を待っているのみ。関係者は状況を説明しろ!と叫びたくなる衝動にかられた。
開会予定時刻を少々過ぎた頃、主催者から不手際のため会場に入りきれない人のいること、少々遅れて開会することが告げられ、司会は、小宮悦子氏である旨が伝えられた。不覚にもラッキーと思ってしまった。ミーハーだな-! 会場を埋め尽くした人々は、20代から60代ぐらいで、男性と女性の比はおよそ6対4程度、いわゆるケパイ女性等は見あたらず、全体として、灰色とか濃紺とか茶色というイメージである。
集会は、株式会社金曜日社長(ハタショウリュウ)のあいさつ(マスコミの現状を憂い、人類の進歩に役立つジャーナリズムの確立をめざしこの雑誌を創刊したい旨のべられた。)に次いで、各編集委員の紹介と挨拶を受け、その後、会場からの意見質問を受けて編集委員が答えるというものであった。尚、井上ひさし氏は、ダブルブッキングの為会場にはこれない旨が伝えられた。
質問者は約20人で、時間制限をものともせず、長々と自説感想をのたまわる。意気込みはわかるのだが、8割がた聴くに耐えないものであった。この点、「かぜ」のため集会に参加しなかったW君は、正解だだったと思う(私も「かぜ」で38度近い熱があり、薬をしこたま飲んで参加していた)。時間を大幅にオーバーして答えた、編集委月の方々の誠意には敬意を表するものの、主催者?事務局?の姿勢には少々腹が立った。「カンパの合計約000円」、「参加者の皆さんのご協力、有り難うございます」てな、一言ぐらいあっても罰は当たらない。カンパの使い道だってちゃんと言うべきである。信用を得るきちっとした団体のやることとは、言えない運営状況と言わねばならない。どこぞの団体でも、同じ様なことをしていたような気もするが、主催者側に近い立場にいるときと、そうでないときとで、こうも感じ方が違うものかと痛感し、今後のために勉強になった。
総じて、決意は立派だがそのプロセスが不明といったもので、明らかになった内容らしきものといえば、現状で予約購読者約5千人(ちなみに目標5万人)、ボランティア100人、運営は株式会社形式で行う、ということぐらいである。2月上旬には、朝日新聞に全面広告がでるとのことなので、その後順調に予約購読者が増えれば、速やかに創刊の運びとなるそうである。なにはともあれ会場に参加した人、一人一人が約10人ぐらいの購読予定者を増やすこと。このような集会を九州、大阪、名古屋等全国で開催して、同様のお願いをするとのことである。参加して会場で質問できた「本多氏の熱狂的なファン=本多教」の信者と、地域活動家と、ミニコミ編集者等の方々にとっては、実り多き集会であったと思われる。
いろいろと感想を交えて述べたが、期待がある故に不十分なところのみを強調する結果になってしまった。最後に、律儀な私としては、願わくば予約購読者となって頂きたく、申込の要領をコピーしてお待ちいたしている次第である。 (東京 S)
【出典】 青年の旗 No.184 1993年2月15日