【投稿】原点からの検証–教育雑感–
ある晩、息子とテレビを見ていた時、某鉄道会社のコマーシャルの画像が流れると(長崎への卒業旅行がテーマであった)彼曰く「修学旅行、おもろなかったなあ。」私はドキッとした。卒業して1年近く、修学旅行からは1年半経とうとしているのに、その言葉は実に鮮烈だったからだ。集団で行く旅行などは帰って来たばかりは疲れていたり何やかやで面白くなく感じることがあり、後になるにつれて「楽しかったなあ」「面白かったなあ」と思い出すのがわりと一般的だが、彼の口調からはそのようなほのぼのしたものは感じられなかった。ぼつぼつと話す内容は負の感想が多く、勤務している小学校で同じように、ヒロシマ修学旅行を推進している私はいささか考え込んでしまった。
「解放教育」先進校の多い大阪では、「集団づくり」「集団主義」がよく語られる。私も新任以来、「原則は集団主義」のスローガンを疑うことなく掲げ実践して来た。が、「集団主義王国」ソ連が崩壊以来、「集団」と名が付くしろものは全て先ず疑ってかかる習癖が身についてしまった。折しも、文部省が提唱し各研修会でもてはやされ始めたテーマが「個を生した授業」「個性の尊重」etc...教科で言えば「生活科」の新設(小学枚の1・2年生対象の社会と理科がなくなりその合科的教科として1992年度より実施)、評価面では、「指導要録」記入の観点や方法の変更etc...「個」の文字が至る所で見られる状況だ。月刊誌「解放教育」の2月号では、「多様性の開拓」と題する特集を組んでいた。
日教組にまだ共産党の影響を受けた人々が留まっていた頃、組合の役員選挙になると、私達の「解放教育」に対抗させて、彼らは「民主教育」を主張した。当然、このような構図は本来的なものではない。ただ、この図式的浸透は、民主教育そのものに対する無理解を、派を問わず広く蔓延させてしまった嫌いがある。原点に立ち返り、「民主主義」や「民主教育」について検証すべきではないか。
2月6日、「川崎市教委、指導要録を全面開示」のニュースが大々的に報じられた。この流れは、文部省の「慎重さが必要」というコメントに拘らず加速化が予想される。また、そうあらねばならない。市民感覚でおかしいと首を傾げたくなるようなことは、検証に値する。教師というものは、自分の生活では民主主義者たらんとしていても、学校という「集団」に身を置き児童・生徒という「集団」の前に立つと「集団主義」がにわかに頭をもたげてくる。こう書くと「集団主義は全体主義とは違う」という声が聞こえてきそうだが、そのあたりのことは、今回は紙面の関係で触れられないので、別の機会に考えたい。 「ひとりひとりを大切に」するならば、目的や原則に対して意識が低いか高いかに拘らず、事後の感想が前向きなものになるように努力したいものだ。
(大阪・田中雅恵)
【出典】 青年の旗 No.184 1993年2月15日