【本の紹介】秘密主義がもたらす全人類的犯罪

【本の紹介】秘密主義がもたらす全人類的犯罪
            メドヴェジェフ著 『チェルノブィリの遺産』
            イレーシュ、マカーロフ著 『核に汚染された国』

<秘密主義というウイルス>
上記二つの本は、旧ソ連における核事故を詳細に取り扱った労作であるが、その意義は決して核間題にとどまらない、全社会生活にかかわる根本問題を提起している。それは、民主主義の問題である。民主主義の徹底こそが社会主義であり、社会主義こそが民主主義の科学的歴史的継承者であったはずのその社会主義を標榜する旧来の社会主義諸国において、実際にはこれとまったく相反する社会体制が築かれ、それがゆえにまた自己崩壊せざるをえなかったともいえよう。しかしその70数年に及ぶ歴史的存在は、一面では歴史の進歩と改革に世界を鼓舞し、積極的な役割を果たしてきたことも事実であろうが、同時にそれは、今後幾世代にもわたる深刻な負の遺産を突きつけている。その典型が核の問題である。

メドヴェジェフは、「チェルノブイリ・エイズ」という言葉で、イレーシュは「セミバラチンスク・エイズ」という言葉で、さまざまな核事故の及ぼす深刻な影響を語っているが、この社会政治支配体制のすみずみにまで蔓延した「後天的免疫不全症候群」ウイルスの正体を、両者は秘密主義であると特定している。情報の公開と民主主義を忌み嫌い、秘w-主義に対して免疫不全をきたした社会主義にとって、それは後天的であったのか、それとも先天的であったのかは議論のあるところであるが、その社会的思想的な再検討と、自己批判が迫られていることは否定しえないことであろう。以下、その秘密主義の実態を両書に沿って見てみよう。

<「政治的健康」優先の原則>
86年4月26日、チェルノブイリ原発4号炉爆発後のプリピャチ市での出来事についての証言。「わたしたちの町でこんなに多くの警官を見たことはこれまでになかったことだ。まるで戒厳令がしかれているかのようで、まったくの驚きだった。だが人々はというと、いつものとおり散策し、どこを見ても子供がいる。---原子炉がはっきりと見える。燃えており、壁が崩れてしまっているのが見える。--終日、なにが起こったのか、わたしたちにはわからなかった。-放射能の灰がエスケープしているというのに、なんのお触れもない。アーニヤが学校から帰ってきて「ママ、1時間近くだったかな、戸外で体操したのよ」と話す。気でも狂ったのではあるまいか」。このコワレフスカヤのインタビューの内容が発表されたのは、やっと1年以上たった87年6月のことであった。
ソ連当局のその後の主張によると、住民がパニック状態に陥るのを防ぐため、公式には警告を発しなかったのだという。だがパニックを避けるというのであれば、もっと優れた方法があったはずだ。崩壊した原子炉、火災、そして上空の煙は、はっきりと目撃されていた。なにが起きているのか、わかっていた人は多い。緊急事態であることは日の目を見るよりも明かな状況で、情報が皆無であったこと自体がパニックを引き起こすことになった。
秘密一点張りのやり方によって、さらに過失が犯されて行く。証言「わたしたち放射線生物学者に、何が起こったのかを説明していてくれたなら、事故直後の何時間かに正しく対処するにはどうすればよいか、民衆に勧告できたのに、なんと官僚達は、わたしたちの研究室の線量計を封印してしまった。さらに、わたしたちに言った。チェルノブイリで起きたことは絶対に秘密だぞ、と。」
事故当時ソ連では、ガイガーカウンターの個人による所有が禁止され、禁止が解除されたのは1990年になってからである。「政治的な意味での健康」が一般大衆の健康に優先していたわけだ。

<秘密主義の連鎖反応>
事故について短いながらはじめて報道されたのは、4月28日の夜のテレビ番組であった。だが、この内容のない短い発表を行う気になったのは、放射性のチリですでに覆われてしまっているスウェーデンから圧力がかけられた結果以外のなにものでもなかった。
5月1日、地上の放射線レベルは、相当に高かったはずだが、公表されず、保険当局は、チェルノブイリの北、西そして南の3方向に位置するキエフやその他の都市でのメーデーのデモ行進を中止するよう勧告すべきだったがそれもせず、放射性降下物の舞い上がる中、デモは予定どおりに実施され、多くの青年男女や子供まで参加した。
5月14日になってはじめて、キエフの学校はすべて閉鎖され、その翌日から14歳以下の子供の避難が始まった。避難がこのように遅れた事実の言い逃れをするため、避難は予防措置であって、子供が危険にさらされているのではないと、市民は通告された。
さらに5月6日には、ソ連の保健省と放射線防護国家委員会は、ひそかに飲料水と食品における放射性ヨウ素の暫定的最大許容量を示すのに、一般大衆には知らせないで最大許容量を引き上げていた。つまり、許容量を実状にそぐわない高い数値にすることによって、設定された基準以上に汚染した水やミルクを飲んでいたものは誰一人いないと公表できるようにしていたわけである。
5月5日になってはじめて原発炉心の温度がようやく低下し始め、5月6日の夜、内外の報道関係者を集めて記者会見が行われたのであった。だが、この10日間の報道管制は、大きなツケをもたらすこととなった。秘密主義の連鎖反応は、核事故の連鎖反応を引き起こし、それがまた秘密主義をより危険な連鎖反応へと導いたのである。

<「事故を局所化することはむすかしい」>
原子力の将来について学術的に討論したり、一般大衆が原子力に反対意見を述べたりすることは、チェルノブイリ事故以前には許可されていなかった。討論が行われないために、原子力関係の計画担当者、建設技師、原子炉運転員は批判から免れ、大小どのような事故であっても、ひた隠しにしておくことが可能になっていた。実は、チェルノブイリの大惨事を招いたのは、ほかでもないこの秘密主義だった。当然、ソ連の原子力産業の安全性に関する記録が、原子力についての技術的な文献で論究されたことは、これまでに一度もない。
しかしチェルノブイリ原発の管理者の裁判が行われた87年7、8月両月には、以前に事故や緊急運転停止が何回もあったことがわかってきた。裁判最終日についての記事で「予定外の緊急運転停止が何回もあった。それら運転停止の原因についてはかならずしも正確に調査されず、もみ消しにされた例もいくつかあった。80年から86年にかけて、技術上の理由による運転停止が71件あったが、そのうち27件については、原因調査がなに一つなされなかった。数多くの件数の機器の不備についても、作業日誌には何も記録されていなかった。」
原子力利用国家委員会議長ペトロシヤンツは、熱遮蔽体が振動荷重で崩れるといったような種類の事故は、日常茶飯事といったような口ぶりで、書いている。「最近あった直径300ミリのパイプラインの破断では、ループの水スペースが一緒になっているので、多量の水と蒸気が放出されたが、このことはさらに多くの投資をしない限り、局所化することはむずかしい」。局所化できないほど、事故は多発していたのである。 さらに重要なのは、原子炉の運転貝自身を底辺とするあらゆる段階での秘密主義ともみ消し策であった。本質的には、秘密主義は、ソ連の原子力の安全性は完璧だとする、科学者、設計者、そして政府や党の幹部が一般的に抱く信念に由来する。そのため、事故についての情報が交換されることは、これまでに一度もなかった。ましてや、非常事態や事故についての学習は運転貝の訓練過程で実施されず、事故についての検討が行われることもなかった。事実、チェルノブイリ原発幹部の裁判中に明らかになったことは、そうした訓練用として利用する制御盤がまったく存在していなかったことだ。
これを紹介している筆者自身も、ソ連原子力の安全性については一面不安を持ちながらも、大局としてはすくなくとも資本主義諸国のそれよりはましであろうと、いわば一方的に信じていたのである。こうした態度が根本的な自己批判を迫られている。

<もう一つの巨大核事故>
メドヴェジェフは「ウラルにおける巨大核事故」という本を出版し、1957年にソ連のクイシトイム市の近くにある軍需工場で核廃棄物の爆発があったと主張し、最近になってそれは事実であったことがようやく確認されているのだが、彼は『核に汚染された国』の著者のインタビューに次のように答えている。「1978年、私はニューメキシコへ行った。ロスアラモス研究所に招かれたのである。講演の後、懇談会の席に呼ばれた。有名なテラー博士(米水爆の父)がいた。核廃棄物の爆発は有り得ない、とまたもや説得された。3時間ぐらい論争した。最後にテラーはいった。たとえそのようなことがあったとしても、原発に対する反感を高めるから、そういうことをいう権利はあなたにはない。あなたは民衆をおどしている。アメリカ人にとってこれは非常にデリケートな問題なのだ、と」 『核に汚染された国』の著者たちは、「イズベスチヤ」の敏腕記者で、徹底した足による取材と、調査、執拗さで知られている。この本には、チェルノブイリ以前と以後にソ連で起きたいくつかの特大級核事故についての情報が集められている。当然、この巨大核事故についても詳細な調査を行った。以下はその要点である。
1949年、ウラル地方、チェリヤビンスタ州にマヤーク(灯台)という秘密企業が操業を開始した。工場の脇を流れるテチヤ川に放射能で汚染された大量の水を全然浄化しないで投棄し出した。これがすべての始まりである。49年から51年にかけてテチヤ、イセチ、トボルの河川系統に総量275万キュリーの放射能が流入した。ざっと12万4千人が被爆した。その後1956年に7万5千人が移住させられ、46カ所の村や町がまるごと廃虚となった。
1957年9月29日、高濃度放射性硝酸エステル排出物質を密封したコンクリート容器の一つの冷却システムが故障した。外殻が圧力に耐えきれなくなるまで、容器の温度が上昇した。放射性廃液の密封容器はついに高熱で爆発した。死の灰は雲となって風に流され、チェリヤビンスク、スヴェルドロフスク、チュメニ各州に及んだ。この恐怖の雲は約210万キュリーの放射能を運んだ。大都市を直撃はしなかったが、自然放射能値の千倍の汚染を被った地域の総面積は2万3千平方キロ。この地域にある217カ所の居住地の住民数は、27万人。
事故の事実は1989年になって認めざるを得なくなったが、細部はいっさい公表されていない。ごく一部のものにだけ閲覧を許された政府委員会報告書によると、「1平方メートル当りのストロンチウム90の汚染度が10~100キュリーの地域では、住民の疎開は事故発生後1~1.5年たって行われた。食料と飼料の放射能汚染の有無による分別は、事故の3カ月後に実施された。食用に不適とされた食品の抜取り・消却は事故の5~6カ月後に開始」という実態であった。

<セミバラテンスクの犯罪行為>
カザフスタンの草原では、総計467回の骸実験が行なわれた。空中実験が行なわれていた時代だけでも、この地で爆発した核爆弾の総計は、広島型原爆の威力の2500(!)倍をこえた。カザフスタン住民は、ベレストロイカによってある程度の言動の自由が保障されると、すぐにセミバラチンスク核実験場廃止を目指す大衆運動を組織した。選挙民の要望を代弁したセミバラチンスク州人民代議員たちから出されたアピールは、「ここでは、1949年から1964年にかけて、原子爆弾、プルトニウム爆弾、水素爆弾の集中的な空中・地上実験がなされた。そのなかには、いちじるしい破壊をもたらしたものもあった。実験は防護装置なしに実施された。放射能の除染措置はなされなかった。当時、実験場隣接地とセミバラチンスク市には、約30万人の住民がいた。彼らの大半は、許容値をはるかにこえる量の電離放射能の作用を受けた。これはわが地域の国民に対してなされた犯罪行為である。」
1963年以降は、セミバラチンスク実験場では、地下爆発だけが実施されたと思われている。ところが、そうではないという。この、大気中の薇実験を禁ずる国際協定をソ連が守らなかったという信頼すべき証言が紹介されている。
さらに、やっと1990年になって、現地では誰もが知っている国家機密が公開された。セミバラテンスクのプルセラ症治療所が、放射線病治療所と改称されたが、もともと羊のブルセラ病対策などやっていなかったのである。調査対象となった住民の半数に、著しい免疫組織の弱化、腫瘍患者、精神障害の飛躍的増加が認められ、驚くべきことに地上爆発実験に際して、牛や犬と一緒に50名の兵士を生物実験対象として用いたという証言が紹介されている。この不運な人々の証言は読むに耐えないものである。

<核の墓場一北極圏>
ノーバヤゼムリヤー島はソ連で2番目の核実験場になった。実験回数では、大気中87回、水中3回、地下42回と世界記録を全部更新している。ここ北極圏ではまごうかたない「核のどんちゃん騒ぎ」が行なわれ、どの実験場もこれほどの莫大な仕事量をこなしたところはない。61年10月には、ここで58メガトンという最大の核爆発が実施された。
最近では、同島が少なくとも20年間にわたって核廃棄物の国営ゴミ捨場として使われたということが文書で確認されて大きな話題となった。わが国は放射性廃棄物を海中に投棄しない、と何十年も言い続け、1990年にもそう声明しているが、それは真っ赤な嘘であった。このことを明らかにしたムルマンスク海運公社のA・ゾロトコフは「海底とはいっても名ばかりです。外国は核廃棄物のコンテナーを水面下3、4千メートルに沈めていた。わが国はたったの3、4百メートルですよ。」彼の計算では、64年から86年にかけて少なくとも1万1千個のコンテナーが沈められた。しかもこれはほんの一部の数字であると言う。危険なコンテナーに対する態度もいい加減だった。沈まない容器があると、銃弾を撃ち込んだり、あるいは手作業で穴を開け、水を満たした。さらに恐ろしい情報は、ノーバヤゼムリヤー島の近くに原子力砕氷船レーニン号の原子炉の一部が、使用済みの核燃料と一緒に沈められているという。骸反応炉は何の監視も受けずに海底にころがっている。原子力潜水艦隊の退役高級将校の話「放射性廃液は、海に流した。わが原潜の事故被災した機関室はどこに隠されたのかいまだに不明だ。水深の浅いカラ海の海底にぶっそうきわまる核廃棄物がどれほどたくさん眠っているのか、核の墓場が何をしでかすのか、どんな惨劇をもたらすのか、われわれはまだ想像すらつかない。」
たとえ数千メートルの深海にでさえ、核廃棄物を投棄するのは人類に対する犯罪である。遅かれ早かれ、強力な浸食を受け、莫大な被害をもたらしかねないのである。

<日本海の核爆発事故>
日本海の波に洗われるロシア沿海州ウスリー湾岸の波止場チジャマの国防省艦船修理工場で1985年8月10日、昼過ぎ、豪音とともに核爆発が起きた。原子力潜水艦の核燃料積替え中に、無責任な作業ミスから制御不能な核反応が始まり、爆音とともに閃光が光り、キノコ状の雲が上空に上り、少なくとも14名が即死、290名が重度被曝、現場は大混乱、原子炉内容物の大半は岸壁に散乱、燃料棒と構造部品の一部は波止場の海底半径100~300メートルの範囲に沈んだのである。
緊急招集された医師は住民疎開を提案したが「住民が核爆発のことを知ったら、どんなパニックになるか考えてみろ」といわれ、厳しく口を封じられた。工場内に居合せたもの全員から国家機密厳守の制約書が取られ、マスコミにも核事故のことは一切出なかった。
この時ちょうど子供保養施設「オケアン」に日本人の子供グループがやってきていたという。当局は「竜クラゲの大軍が押し寄せてきた」ため、遊泳禁止を呼びかけた。日本の子供たちは急いで引上げたが、ソ連の子供たちはそんなことは信ぜず、残った。湾の対岸にある軍事施設で何やら非常事態があったという噂が流れはしたが、いっさい公表されなかった。しかしこれも1990年末になってようやく秘密のベールがはがれざるを得なくなった。地元の議員団がロシア政府に直訴したのである。しかしまだまだ厚い秘密の壁に阻まれている。
原子力産業における事故を秘密扱いにしておくことは、なにもソ連独自の現象ではない。日本においてもアメリカにおいてもそうである。秘密主義は、すべての事故についてもありうる。そして独占的、寡占的な企業、一枚岩的な社会、国家は、すべてこのような危険性にさらされているといえよう。メドヴェジェフは「わたしは長年にわたって、開放されしかもお互いに協力的な社会の方が閉鎖社会に比べて、重大な産業事故や、飢餓、、栄養失調、疫病といった人為的災害に対して、より堅固に護られていることを実証すべく努力してきた」と強調している。この両著は、その意味で多くの示唆を与えてくれる、「貴重な遺産」としなければならないであろう。  (生駒 敬)

ジョレス・メドヴェジェフ著『チェルノブイリの遺産』
92.10.20、みすず書房、5974円
A・イレーシュ、Y・マカーロフ共著『核に汚染された国一
隠されたソ連横事故の実態』92.9.1、文芸春秋、1700円

 【出典】 青年の旗 No.185 1993年3月15日

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