【投稿】PKO法と小和田雅子さん
<雅子さんのお父さんつて?>
PKO法案と小和田雅子を結ぶキーワードは、雅子さんの父、小和田恒・外務事務次官である。
事務次官はいわば社長であり、その上は大臣である。小和田恒は、東大卒、英国ケンブリッジ大留学、外務省国際連合局政治課長、米国ハーバード大客員教授、外務省条約局長、経済協力開発機構(OECD)日本政府代表部大使などを歴任、1991年外務省次官。
91年後半イギリスは、彼を国連事務総長に推そうとした。もし出ていれば、現ガリ国連事務総長(エジプト)の有力な対抗馬となっていた。
彼はまた、右翼・安岡正篤の弟子として知られている。安岡が主宰する「而学会」に、義理のいとこ・江藤淳らとともに参加していた。安岡は、池田勇人・大平正芳が率いた「宏池会」のなづけ親である。
<雅子さんのお父さんつて? その2>
92年6月15日成立したPKO法の仕掛け人は、小沢一郎・自民党元幹事長(「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」=小沢調査会、会長)と外務省の柳井俊二・条約局長、丹波実・国際連合局長、波多野敏雄・国際連合日本政府代表部特命全権大使であった。
外務省の3人の責任者が小和田恒である。 その後、柳井は総理府国際平和協力本部(PKO本部)事務局長に就任する。「国際平和協力本部」は、92年9月3日参議院内閣委員会で、「PKO等協力法」に基づいて設立された。
丹波は現在、条約局長。波多野の娘・真理は一時、皇太子妃の候補者に上げられていた。外務省の3人はまた、明石・UNTAC代表就任を御膳立てしている。
<小和田雅子さんって>
小和田雅子は、ハーバード大経済学部卒、1986年東大法学部学士入学、外交官試験合格、87年外務省入省。88年英国オックスフォード大べリオールカレッジ大学院に留学、軍事問題の研究に携わっていたと言われている。
雑誌「フオーブス」93年3月号にも「オックスフォード時代には学部長のアダム・ロバーツ教授の研究室で、日本の国防産業や次期支援戦闘機選定問題(FSX問題)について語っていた」と出ている。
90年北米第二課に勤務。主な仕事は外国人弁護士問題、日米半導体交渉、独占禁止法問題である。いずれもアメリカから圧力のかかっているテーマばかり。92年12月皇太子妃に内定、93年1月19日皇室会議で皇太子妃に決定。
<皇太子妃に!>
小和田雅子を皇太子妃に推したのは、柳谷謙介・元外務省事務次官、中川融・元国連大使、領之部量三・元外務省事務次官(東宮職参与)、山下和夫・元アルゼンチン大使(東宮侍従長)、団藤重光・元最高裁判事(東宮職参与)らである。団藤を除けば、外務省人脈だと言うのは、すぐわかるだろう。反対していた旧内務官僚系の富田朝彦・元宮内庁長官は、藤森昭一・現宮内庁長官も初めは同じだったと言っている。一度消えた候補が再び復活した裏には、チッソの件、海軍の軍人家系、恋人の問題などをクリアする宮内庁の重大な方針転換があったことをうかがわせる。
PKO法成立と小和田雅子・皇太子妃決定はまちがいなくリンクしている。ただマスコミが書かないだけである。小和田恒にしても、マスコミは紳士ぶりや娘を皇室にやる父としての姿を描くだけで、PKO法、右翼とのかかわりは一切報道していない。
(板橋・M)
【出典】 青年の旗 No.185 1993年3月15日