【投稿】総選挙結果の示すもの
今回の総選挙は、戦後政治の大きなエポックであったことは、事実であるが、それは新たな時代のはじまり、もしくは終わりの始まりであり、総選挙結果だけを特殊化する訳にはいかないであろう。
すくなくとも、選挙結果については、事前から予測されたものであった。多少のプラスマイナスの誤差はあろうとも、大きな違いは生じないほど、マスコミ報道は”的確”であった。選挙戦がゲーム化され、有権者がまるで観客席に座っているかの様に描かれた結果、唯一大きく予測に反したのは、低投票率であった。あれほど、今回の選挙は、久しぶりに「おもしろいことになりそう」と宣伝し、番組によっては、高投票率に向けてのキャンペーンを行ったにも、かかわらずである。国民の政治に対する思想的ニヒリズムと、行動様式におけるアナーキズムは、深化している一因がテレビを中心としたマスメディアにあるのも皮肉である。
さて、選挙戦の争点であった「政治改革」論議は、有権者の投票行動に対して、そしてその後の推移からしても全く結果に対するファクターではなかったと云える。何をして、今回の結果をもたらしたのであろうか。
社会党の敗北は明確である。元来党員数に比して”異常”な得票数を保持してきたが労働界の再編の結果、その良し悪しは別として、従来選挙のたびに動いていた「地区労」「県評」組合員が存在しなくなり、事実上社会党独自の組織は、ほとんど崩壊したに等しい。活動家の存在しない党は、政策によって多くの支持者を集めねばならない。
従来の社会党投票者が非常に不安定な、ゆるやかな支持者であろうとも、「反戦、平和」「反独占」「護憲」といった看板によせる期待は、少なからずあった。ところが、自民党の一党支配が、あやうくなることで「反自民」としての存在が同時にあやうくなることに対する認識が過少であるのに留まらず、非自民政権のために、その看板すら実質上おろすことになるに至り、従来の支持者は、彙権も含め左右に飛び散る結果となった。組織的にも、政策的にも分散化を許してしまったこの党に再度結集するためのエネルギー、存在の意義を見いだすのには、非常な困難さを感じるのは、私だけであろうか。
自民党の(保守)分裂と云っても、その内容は、基本的に二つの流れがある。一つは、新しい形態の保守主義を目指すグループ、さきがけ、日本新党であるが、今回の特異なことは、新生党(小沢グループ)の分裂?である。元来、田中一竹下一金丸とつづく、このグループは、戦後日本の保守政治においては決して本流ではなかった。日本の高度成長後半期に登場した保守党のなかの金権グループとしての特異な流れである。ただし、この金権派閥が長い間実質的な権力を握っていたのであるが、今回の新生党の登場は、本来の保守本流に見切りをつけたこの金権グループの新たな出発にすぎない。後者は、保守二大政党論を述べるが、前者はそこには力点を置かず、党内民主主義やクリーンさに力点を置いている。
いずれにしても自民党を含めて、これらの保守諸党の集めた投票率は史上最高であるという点を私たちは、充分認識しなくてはならない。したがって、”変革”を求めたとしてもそれは「保守政治」のシステムの「改革」であり、政策上の「改革」には、きわめで慎重であったと云える。しかも、これら保守新党は「形式」を含めたシステムの改革の中味については、いまだほとんど明確にしていない。
非自民政権が、相変わらずの「二重権力」構造を保持しつづけるなら、新たな権力闘争がはじまるし、自民党内のシステム「改革」にも、影響を受けるであろう。
時代変化の本質的な流れへの最大のファクターは、国民の民主主義に対する姿勢である。
どのような時代のはじまりであり、終わりであるかを決定するのは、すぐれて勤労国民の民意であり、単純な「世代交代論」ではないであろう。
(東京・T)
【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日