民学同文書 No.12 「68~69全国学園闘争総括と教訓」

民学同文書 No.12

<12回大会テーゼより>
「68~69全国学園闘争総括と教訓」
理論政策誌「新時代」創刊号 1974年4月20日発行

はじめに
一 全国大学闘争前夜の学生戦線
二 全共闘運動「高揚」の必然性と限界性
三 日本共産党(代々木派) 民青の犯罪的役割
四 第四回大会テーゼの鋭い問題提起
五 全国学園闘争と民主主義学生同盟
六 七〇年以後の学生運動

–はじめに–
一九六八年から一九六九年にかけての「全国学園闘争」の高揚は、学生運動が新たな歴史的転換局面に入ったことをわれわれに理解させた。そして、この大学を舞台にした闘争の高揚は、日本独自のものではなく、多少の時間的格差があるとはいえ、全ての「発達した資本主義国」–国家独占資本主義の下での共通の現象として存在したのである。米国ほ勿論のこと、西独、仏、伊、英等でも、嵐のような青年・学生運動がほぼ同時期に高揚した。
アメリカにおいては、ベトナム反戦運動、黒人解放運動、大学改革運動の中からうまれたSNCC、SDS、西ドイツのドチュケ、ランベールなどに率られるSDSの運動、仏においては、一九六八年五月~六月の”五月危機”の最中でのコーンバンディ、ルイ、アルチュセールなどの、<三月二十三日運動><行動委員会>運動、などがそれであった。日本においても「新左翼」と称しつつ登場した反戦青年委員会、べ平連、そして、全共闘運動がそれであった。そして、この運動は、〝反体制〟を標傍しながら、”学生反乱””知識人の反乱″〝自己否定””占拠、パリケード″社会主義世界体制や共産党、労働者党、労働組合など一切の〝旧体制の告発″などを叫びながら、青年・学生運動の大衆的高揚の一時期を創り出したのである。
しかし、彼らの〝反乱″は、全世界の至るところで敗退した。だが、たとえその運動が今日敗退したとしても、その高揚の諸条件を科学的に分析せず、単に〝「左翼」小児病″のなせる全く偶然的な事件として歴史の博物館に収めてしまうことはできない。
この六〇年代後半の青年学生運動の嵐の様な高揚を小ブル急進主義運動、トロツキズム運動としてのみ一面的に評価する態度は正しくない。なぜなら、無政府主義運動は、「あれこれのブルジョア的『流行』思想に『憑かれたように』ひきうけられる」性質をもってはいるが、「これらの真理を理論的に、抽象的にみとめるだけでは、また、革命的な政党を古いまちがいからすくい出すことにはならない」(レーニン同右)からである。
従って、わわれわれは、こうした運動をひきおこし、同時に、あの様な悲劇的敗北をとげた原因を科学的(理性的)に総括し、克服の方向を示していかねばならない。

一 全国大学闘争前夜の学生戦線
戦線の極度の分裂と「左」右の日和見主義の拡大対立
歴史的な全国学園闘争に至る学生戦線は、文字通り、分裂に分裂を重ねていく。にもかかわらず、この時期は、本格的な新植民地主義的海外侵略と、日本帝国主義の政治的代理人=佐藤内閣に対する大衆的反撃の時期でもあった。
日韓条約の締結、米帝国主義(ジョンソン大統領)によるベトナム民主共和国への無差別爆撃の開始と佐藤の公然たる加担、在日米軍基地の出撃拠点化、インドネシア共産党の大量虐殺の開始、中東での緊張激化など帝国主義の露骨な好戦的対外政策による内外の緊張激化の下で、日本を含めて世界の反戦・平和運動、反帝・反独占の闘争は新たな高揚へと向っていった。
日本では、一九六五年四月に、べ平連(ベトナムに平和を、市民連合)が北爆抗議デモの中で誕生し、六六年には、職場に反戦青年委員会が組織された。この年、総評は、全世界に十・二一国際反戦デー(学徒出陣記念日)を呼びかけた。このような時期に六四年十二月に結成された平民学連=民青系「全学連」は、それが全国学友の統一のこえを全く歪曲された形で反映していたという側面を一方で持ちつつも、六〇年当時の加盟自治会の3分の1未満しか結集していないだけでなく、その指導部の全く誤った運動路線、諸要求主義を徹底した分裂主義・セクト主義によって学生戦線分裂の固定化、戦線統一の敵対者としての役割りを果すのである。
他方、民青系「全学連」の「再建」強行に対し、それに対抗しょうとして「全国学生共闘」という形で、今一つの「全学連」の「再建」を対置していたトロツキズム諸派は、大阪府学連、兵庫県学連を中心とした自治会の反対でこれを実現できずにいたが、ベトナム反戦運動の高揚の中で、六六年十二月、マル学同中核派、社学同、社青同解放派、三派の「連合」による「三派全学連」を結成した。三派のむき出しの対立、暴力的衝突の中で結成された「三派全学連」は「左」右から.の一面的危機意識の煽動、「左」の自然発生的翼に乗って、街頭「実力」闘争路線を急速に押し出していった。
一方、安保闘争後、混迷を続ける学生達動の中で学生連動の統一をめざして闘ってきた「平和共存派」--民学同、共青、社会主義学生戦線(フロント)に指導される首都、大阪、兵庫、岡山などの自治会は、ベトナム反戦、侵略加担阻止、安保破棄の闘争を課題の一致と行動の統一、総評など労働者階級を中心とする全民主勢力との連帯、合流をかちとる中で大衆的戦闘的な闘いを組織した。六七年一月のジョーンバユズを招いての府学連、大阪平連協主催の大衆的べ反戦平和集会の成功につづき、六七年十月八日、十一月十二日の羽田闘争においては、ベトナム侵略戦争の準参戦国として東南アジア侵略へ進む日本帝国主義の政治的代理人、佐藤内閣の全く露骨な政治反動、機動隊の弾圧、挑発を拒否して、総評・反戦青年委員会の青年労働者と連帯して、全国の自治会の現地一日共闘として闘い抜いた。
日本共産党(代々木派)、民青諸君は、「日本は帝国主義でもなければ、侵略なる事実もない」と、ことさらに強調し、十月八日には、多摩湖畔で〝赤旗まつり″に、十一月十日には、〝全国青年・学生スポーツ祭典″なるものを開催する中で、この闘争を犯罪的にも完全に放棄したのである。更に、佐藤内閣と機動隊の狂暴な弾圧で殺害された山崎君の死に対しても〝挑発者″〝反革命分子″〝反全学連諸派の盲動″とレッテルをはるだけで、右翼片肺佐藤内閣が帝国主義の政治的代理人として国内反動と民族解放運動への敵対、反社会主義冷戦体制を強めていることをバクロし、それと闘うことを全っく欠落させてしまった。佐藤内閣による帝国主義的政治反動、そして、それに対する日本共産党(代々木派)民青諸君の右翼日和見主義が、自然発生的な青年・学生の戦闘的エネルギーを三派「全学連」を中心とする極「左」主義、アナーキズムの影響下におくことを許す客観的役割を果したことをわれわれは忘れることができない。
民青系「全学連」、三派「全学連」そして、革マル「全学連」というセクト主義と分裂主義によって分断、固定化された状況の下で、「平和共存派」によるイニシアチブで課題と基本戦術の一致、行動の統一、批判の自由の原則に基づきヽ二度に渡る羽田現地闘争、佐世保現地闘争を闘った全国全自治会の現地一日共闘は、全国学友の行動統一の中心が諸派のセクト主義・分裂主義によって崩壊させられているという現状認識に立ち、①不断に行動統一のイニシアチブを発揮し、②統一した大衆的決起という実例の力を創り上げ、③戦線統一を要求する学生の大衆的な力に依拠し、④セクト主義、分裂主義の業病を粉砕する。⑤従って固定的な全国組織としてではなく、連絡組織的なものとする目的で提起された。
しかし、同時にこの自治会共闘の諸原則に対する誤まれる疑問と第四「全学連」構想が、共青、フロント、民主主義学生同盟の一部の諸君の間に存在していた。しかも、この構想は、羽田闘争以後の三派「全学連」の街頭「実力」闘争路線に対する無原則的な容認、また、理論的、思想的にほ平和共存への否定、宿命的日米運命共同体論、社会主義世界体制、労働者階級に対する根本的否定、というネオ・トロツキズムと結びついて提出されたのである。
そして、彼らの三派「全学連」の極「左」路線と、ネオ・トロッキズムへの傾斜は、成田、王子米野戦病院闘争の過程で、自治会共闘の大衆的な統一戦線を著しく弱め、彼らをして、自然成長的な「活動家」のみの街頭決戦主義、極「左」勢力の動揺的な一翼を構成させるに至る。
この悲劇は全員加盟制自治会の私物化と機能マヒ、一層の戦線の分裂の状態に拍車をかけ、かつての全学連主流派(社学同)がたどった四分五裂、抗争の一時期を拡大、再生産していく。この直接の結果は、唯一の統一した機能を果してきた大阪府学連、兵庫県学連の崩壊を導いていった。三派「全学連」の中核系「全学連」、ブント、社青同解放派系「反帝全学連」 への分裂(六八・七)と抗争。共青→共学同、フロント、プロレタリア学生同盟などネオ・トロツキズム諸派が発生し、学生運動「指導部」の理論的、思想的混乱と分裂、無政府主義的傾向が拡大していく。民青系「全学連」は、学生運動の〝急進化″の進行の中で、ますますその諸要求路線と小ブル民族主義、セクト主義、闘わない右翼日和見主義的立場を深め、全員加盟制自治会の空洞化と権威の失墜状況を生み出してゆく。
こうした極度の分裂と混乱、自治会の私物化、ひきまわしの横行の中で、全員加盟制自治会への不信が増大し、また、学生べ平連運動の存在に象徴されるように政治同盟に対する不信と組織一般の否定、無党派主義が便透していくのである。
全国学園闘争に至る過程は、このように六〇年安保以降、最悪の状態の下で進んだ。すでに、慶応大学費闘争、教育系大学における学名変更=目的大学化反対闘争、無給医インターン制闘争など個別学園で断続的に闘われていた学園闘争は、東大、日大を頂点として政府・独占の中教審答申中間発表、大学法提出を契機に全国に拡大していく。
この全国学園闘争の過程で民青諸君は当然ながら、また我同盟もまたその初期においてこの闘争に全く不充分にしか対応しえなかったことは疑いのない事実であった。まず、われわれはその理由を学生共闘諸君の如く、自らの「主体的力」にのみ求めるのではなく、全共闘運動の発生の客観的条件の分析とその評価、トロ諸派、民青の対応とその批判を、われわれの政策、学生運動論の検討によって、明らかにしていく必要がある。

二 全共闘運動「高揚」の必然性と限界性
六二年六月、中教審が発表した大学管理運営法は、全国の学生、教職員の全国的な闘いによって流産した。しかし、その後の過程は〝国大協自主規制路線″として、自主規制の名の下に、政府・独占の大学支配が及んでいた。この自主規制路線は、いわば、矛盾蓄積過程であった。国公立大では、文部省-文部官僚ルートでの行政的、財政的締めつけ、講座制下での産学協同体教授特権下での身分職階制度、人事権を利用した。講座制ボス支配が常態化する中で、理工系、医学部、薬学部、教育系大学等では、助手、講師層、大学院生は、隷属的地位を強制されてきた。
「教授会の自治」—もしくは、「大学の自治論」はかかる事態の進行の中で、全くの擬制として機能していた。
高等教育への勤労人民の要求の拡大、大学の大衆化過程の殆んどを受け入れてきた私立大学は、この高度成長の中で、五万人から十万人もの学生を一大学で擁するマンモス私学をつくりだし、(政府独占にとって)安価な大量の貸金労働者を生みだしている。日本大学をその典型として、膨大な私学群を構成した。
私学資本は相次ぐ学費値上げという形で、教育費を父兄に転嫁し、学部、学科を新増設し、定員の水増し的拡大と不正入学を行ない、また、蓄積した資本の他の営利事業流用、汚職事件が発生し、こうした腐敗の中で、一方では学生は多くの私学で、研究教育設備の極度の貧困、生活破壊、無権利状態を強制されてきた。
産学協同は公然の事実であり、また理事会は財界や自民党代議士、旧警察庁幹部などによって構成され、学生、若き教官、助手層などの民主的権利は奪われていた。
とくに、かかる事態は、高度成長時代の理工系ブームの中で、新設された私学に、最も典型的であったが、佐藤前首相、三菱独占と直結していた吉田体制の日本大学はその典型であった。このような私学では「大学の自治」「学問の自由」などは殆んど存在しなかったと言っても過言ではない。
旧来の私学についても、インフレーションの急進と貧困な私学援助の下で、利潤率の低下に陥入り、問題の解決を、学費値上げや他の手段すなわち教官の労働強化、助手や院生、非常勤講師での補充、教育設備の絶対的貧困、マスプロ授業などに転嫁する形で矛盾を深めていた。これは、国独資の下に於ける大学(私学)の機能変化に照応する私学資本の反動的な、必然的運動であった。
このような事態の下で、六十八年東大、日大闘争を頂点として全国学園闘争は爆発した。
そして、その運動が〝下から″ の大衆運動として出発し、それが広範な学生の支持と共感を獲得しえたのは先述した如く、東大の様に民青系執行部が殆んどこのような闘いに方針と大衆運動を提起しえず、全員加盟制自治会を形骸化させていたこと、引き起こされた運動に無為無策であっただけでなく、その道動全体を〝トロツキスト″呼ばわりするというセクト′主義的対応に終止したこと、また日本大学においては、民主的な学生自治会が存在せず、「学友会」は右翼、体育会、応援団が支配する当局の御用組織であり、全共闘自身が真に学生の利益を擁護する自治会確立のための大衆的闘争組織であったこと、従って学生の利益を代表しえたという意味で、必然的であったことを知らねばならない。
すでに前項でのべたように、自治会の特定党派によるひき回しと私物化、あるいは、統一機能のマヒ、崩壊という現実が、全共闘運動を必然たらしめ、また全員加盟制自治会を強化し、遂には民主的大衆的運動に支えられた自治会運動をつくり出した限りにおいては進歩的であった。
だが、全共闘が情勢の困難化に直面した時、全員加盟制自治会=ポツダム自治会と規定し、全共闘を「先進分子」の組織に解消し、闘争の唯一の主体として規定した時、全共闘はかつての大衆的支持と全員加盟制自治会の〝指導的機能″を喪失した。
「全員加盟制自治会は、今やその形式民主主義によって、先進分子を遅れた右翼的学生のレベルにしばりつけ闘いの樫粧、権力による学生管理の一機構に転化した。」(ポツダム自治会論) とする見解は、有利な武器となりうる全員加盟制自治会を一部の「活動家」や「党派」に私物化された状態に再びひきもどす。あるいは、全員加盟制自治会を崩壊させる結果を意味した。
実際に、不可逆的にこのような方向に進んだことは、その後の事実が示している。
全共闘がその初期の段階において、積極的役割を担ったもう一つの事情は、そしてこれが全共闘運動の伸長をより本質的に規定したのだが1彼らの主張がたとえ歪曲されていたとはいえ、現実の大学を鋭く〝告発″していた点にある。
東大全共闘の七項目要求、日大全共闘の五大スローガンに示されるように、それ自身民主主義的改革のスローガンであり、同時に全く抽象的な「大学とは何か」「学問とは何か」「帝大解体--全人民的大学を」に示されるように大学が独占資本の利潤追求の対象に組み込まれていることを〝告発″していた。この点に於て、他の政治グループよりも全共闘は、レーニンの引用を待つまでもなく、〝運動の初期にありがちな種々の自然発生的な弱さ″を持ちながらも、学生全体の気分ilそれ自身、全く正当な ーを反映していた。
この事実は、全ての反独占諸勢力の指導的前衛であるべき団体が、今日の青年∴学生、大学をめぐる諸矛盾を根本的に克服する政策と、運動方針、長期的展望を全く不十分にしか投出しえていなかったことを示している。
われわれは、この問題に関する真剣な総括と反省が要求されていることを知らねばならない。そしてここにこそ全国学園闘争の悲劇的結果の責任と原因を求めなければならない。
全共闘運動の誤りは、第一に今日の大学に鋭い批判を提出しながらも、大学を労働者、勤労人民の利益に奉仕するために改革する現実的課題と長期的展望を掟出しえなかった点にある。それは闘争が一定の困難な局面を迎えた時に、「帝大解体」「大学解体」「日帝打倒」「機動隊せん滅」などという極「左」的空文旬で「のりこえ」る最大限綱領主義の誤りである。この責任の主要なものは、全共闘の、ノンセクト・ラジカル″活動家にあるというよりも、むしろ民主主義闘争に「大学解体」「日帝打倒」という空文句をつぎ木したトロツキズム諸派に帰せられるべきである。
第二に、教授会=権力の手先という教官主要打撃論である。教官=管理者、学生=被管理者とする「理論」は、教授会との闘争=国家権力との闘争と理解し、従って教授会解体、教育研究機能のマヒを自己目的化することによって片リケード封鎖=解放区という戦術の自己目的化に陥いった。これは文部省や独占資本がその財政相をテコにして支配を貫徹し、〝教授会の自治″をも全くの擬制に変えてしまっている (講座のボス教授や私学理事会の占決体制に従属させられている。)という事実を見ない誤まりであり、同時にそれは、一部特権者を除いて、大学の研究者や教官がその社会的経済的地位を増々労働者階級に接近させているという(その意識は依然保守的であるが)現実を見失い、本質的矛盾=独占資本と勤労人民との矛盾を隠ペイし教官全体を〝敵″にまわす役割さえ果している。
第三に彼らは、闘う主体を個人の決意や決断に基づく組織=全共蘭に解消し、その他の学生や大学構成員との間に「非和解的=階級的対立」を窓意的に設定した結果全く孤立し、それを戦術の一層のエスカレートと安保沖縄「決戦」、民青との″内ゲバ″(革命的暴力の名の下に行なわれた。)を合理化した。
全共闘運動がトロ諸派の全く非現実的な「革命戦略」耳目衝動的「実力」闘争、あるいは、「反スタ」路線の洗礼によって当初の大衆性を失なった結果は、多くの場合民青、当局ブロックの拾頭=闘争の無原則的収拾をもたらした。余りにも数多くの学生が機動隊の暴力的介入によって逮捕され、戦闘的エネルギーが悲劇的に費されたのである。
全体としての誤まりは-大学の社会的、階級的性格の変化という必然的な方向に依拠するのではなく、いわば〝機械うちこわし″運動としての性格が濃厚であったことである。

三 日本共産党(代々木派) 民青の犯罪的役割
民育系「全学連」のセクト主義と闘わない諸要求主義の路線は、全員加盟制自治会の機能を著しく弱め、東大をはじめ、多くの大学で全共闘誕生の育ての親としての役割を演じた。全共闘を自らの「右翼日和見主義への一種の罰」(レーニン) として生み出した。彼らが大学闘争の中で首尾一貫して主張したことの第一は、「全共闘トロツキスト主要打撃」論(封鎖解除、「暴力学生」追放こそ大学の民主化の前提である、という主張) である。
彼らは、政府・自民党がその手先である〝トロツキスト暴力学生″を「泳がせている」として、〝封鎖暴力学生″を国家権力と同一視した結果、「暴力学生の自主的排除」=封鎖実力解除を学園闘争の第一の課題として設定した。
(全共闘の「教授主要打撃」論と、民青の「暴力学生主要打撃」論、後の全共闘の〝反革命=民青粉砕″に見られる両者の共通性は、学園闘争の基本的任務を独占ブルジョアジーの大学政策や、国家独占資本主義の機能の分析に向けないで、即時的な憤激や怒り、自然発生的な気分に依拠する完全な実感主義である。)全共闘も民青も実感主義(とセクト主義)の故に、其の敵を見失い、①封鎖②封鎖実力解除③流血の惨事④機動導入、常駐化という国家権力の大学支配路線に総体として水路を切り開く役割む演じていた。民青は全共闘運動が!いかに歪曲され、一面的とはいえ1含む鋭い矛盾の〝告発″側面をも全否定し、全共闘に「対立」しょうとすればする程、既存の矛盾をはらんだ大学の秩序や、国家権力の側にますます無批判にならざるを得なかった。この論理の最たるものが京大民主化行動委員会の〝全共闘=ドイツ型ファシズム″論であった。トロツキスト=ファシストに全ゆる反対派勢力を「反ファッショ」で団結させた彼らは、大学当局は勿論、機動隊の侵入にもロをつぐんだのである。この論理の誤りはファシズムとは〝金融独占のむきだしのテロル独裁″と〝熱狂的排外主義″(ディミトロフ)である点を見失った全くの謬論であったし、大学闘争を完全に裏切った民青の右翼日和見主義への転落の姿を示している。
支配階級は人民内部の誤りを利用し、人民内部に不団結をもち込むことに延命の道を見い出している。支配階級がトロ諸派の小児病的ハネ上りを最大限利用するのは〝階級的本質″である。このことを見ず、民青諸君が支配階級にとっては〝あたり前″ の政治的態度をことさらに強調し、当局と一体となって封鎖実力解除に狂奔し、大学の本質的矛盾を隠撤し、機動隊導入を助けたことこそ、逆に、自民党に泳がされる自らの姿であったのである。小児病的ハネ上りの原則的な克服の道は、その誤りを徹底的に批判するにとどまらず、真の敵に対する闘いの大衆的な、統一戦線の力である。スペイン共産党書記長サンチャゴ・カリリヨの次の指摘は重要である。「とにかく共産主義者は、真の敵がわれわれの右にいることを忘れてはならない。かくしてのみ我々を『左翼』から側面攻撃をしようとする敵の直接の手引当の仮面を一層容易にはぎとることができるのだ。」
民青譜君ほ、その「最大」の組織力量にもかかわらず、大学闘争の当初から全くのセクト主義的対応に終始した。全共闘主要打撃論は、その典型であるが、我が同盟や多少なりとも民青に批判的なグループに対しては、「反全学連諸派」「挑発者、反革命集団」「反党修正主義者」などというレッテルを貼ることを最大の関心事としていた。運動が長期化するのにつれて、ますます孤立を深めていった彼らは、闘争の早期収拾をのみ自らの主要な方針としていく。「授業再開、学園正常化」という彼らの全く無原則な路線は、高揚する学友の闘うエネルギーを大学の反独占民主主義的改革の方向に組織しえないばかりか、それに敵対し、遅れた学生の意識に追随し、さらには「粉争」の沈静化のみを願う保守的で、無責任な教官連中や学生の運動をたたきつぶさんとする政府・独占資本、大学当局に無批判となり、迎合していった。大学法の実質化に反対する大衆的なストライキでさえもそれを〝挑発〟として公然と反対を表明した。言わく、「大学法の下でのストライキほ、いかなるものでも大学を廃校に導く挑発行為である」として、政府・独占資本の個喝に屈服してしまったのである。
このように日本共産党(代々木派)民青指導部は、諸外国の共産党・労働者党のとった原則的態度、即ち、セクト主義やレッテル貼りでなくフランスの〝五月革命″が示したように労働者階級の連帯と正しい大学問題解決の方向をさし示し、それを闘いとるのではなく、大学間題の発生の責任をあたかも〝暴力学生″の存在に歪曲し、大衆運動の激発と高揚にしりすごみし、全く犯罪的にもセクト主義的、闘争収拾的対応に終始したのである。それは、あの苦渋に満ちた、そして、今尚多くの戦闘的労働者の記憶の中に刻まれている〝四・一七スト中止指令″の再版としてあったと言えよう。
最後に、トロ諸派には同じ論文の別の箇所を捧げたが、レーニンの言葉を日本共産党(代々木派)、民青指導部の諸君に捧げよう。
自然発生的な「非組織的、失敗を運命づげられた「拙劣な形態」での闘争の発生に対して「パルチザン戦争が運動を解体させるという言いぶんは批判的にあつかわなければならない……。われわれの組織が弱く、準備がないために、われわれがある場所で、ある時期に、この自然発生的な闘争にたいする党の指導を放棄するばあいがありうることを、私は理解している。…だが社会民主党や評論家のあいだに、この無準備に対する悲しみの情ではなくて、高慢なひとりよがりと、ごく若い頃にまる暗記した無政府主義、プランキー主義、テロリズムについてのきまり文句のうぬぼれ切った繰り返しをみるときには、私は世界でもっとも革命的学説の卑少化に腹がたってくるのである。」(「パルチザン戦争」一九〇六年)。日本共産党(代々木派)民青諸君は、レーニンの時代とほ違って、もっと有利な組織条件(少なくとも量的多数において)を持つが故に、(もし、レーニンが生きていたなら)この立腹はより一層深刻であっただろう。全共闘のバリケード戦術を武装蜂起に高めよ、と言うのではない。フランスの労働者階級がそうした様に、ゼネストで、もしそれが不可能なら、大衆的示威運動で、学園のストライキで、彼らの誤りをつつみこむだけの闘争が要求されていたし、それは可能であった。諸君が、セクト主義の業病と誤まれる「指導理論」に気付いていたならば‥‥‥。
もちろん全共闘による、否、トロ諸派によるバリケード封鎖とその自己目的化が、大学闘争の勝利的前進にとって、重大な障害であり、敵=権力の介入の格好の口実であることは言をまたない事実である。
マルクスやエンゲルの引用を行なうまでもなく、バリケード戦術は本来〝受動的″であり、敵に攻撃の契機を与えるものでありましてや、学生だけの、しかも闘争の後退局面における小数のバリケード戦術が余計にそうであることは明日である。従っ、て、我が同盟は、このような戦術には反対であったし、それを自己目的化した戦術や、「バリケード封鎖の思想」にまで「高め」たトロ諸派の小児病的ハネ上りとは真向から対決していた。
だが問題の本質は、そして、政治指導部隊に不可避的に要求されていたのは、敵に反動の攻勢を許さないことであり、それを阻止し、再び攻勢に転ずる政治的条件を拡大することを任務の中心にすえることであった。これを忘れさり、介入の口実バリケードを実力でもってしても取り去れば、支配階級の介入を阻止しうるという論議程、お目出度いものはない。少しでも理性的になるならば官憲の直接介入にとって、封鎖実力解除から生ずる学生同志の衝突、流血(生命の危険) の惨事ほど格好の口実はないことは自明であった。
バリケード封鎖戦術の自己目的化が子供じみた小ブルジョア的な誤りであれば、封鎖実力解除に狂奔した民青諸君はそれに輪をかけた二重の、(政治同盟の第一の任務を忘れさり官憲の直接介入の導火線となったという意味で)誤りを犯したと言えよう。我が同盟はこの様な見地から、バリケード戦術に反対しつつ、同時にその解除は、全体の闘争の前進の中で達成するという迂回戦術をとったのであり、阪大や学大において短期的ではなかったが、それは成功した。

四 第四回大会テーゼの鋭い問題提起
われわれは、前項で見てきた六五年以降の学生戦線の経緯の下で、とりわけ、二つの時期における全学連運動の高揚という伝統にもかかわらず、なぜ、六十年安保闘争以後の学生戦線の分裂を根本的に分裂と停滞から救い出すことができず、その誤りをむしろ深めてしまったのか、そして、この最も混乱した状況の下で何故、全国学園闘争の白然成長的な大衆的爆発が呼びおこされたのか、そして、当然にも政治指導部が、何故この運動を正しく指導できなかったかという根本的原因を解明しなければならない。
わが同盟、第四回大会準備資料「第三期の学生運動と民学同」の次のような指摘は、この問題を解決する一つの手掛りを提起している。すなわち、第二期(55~66)の学生運動を規定する条件とその闘いの性格が「一方では独占資本の復活の『驚威的』急速さの故に労働運動における民同型運動=反合理化を欠落させた一律賃上げ闘争と企業主義的性格=が抬頭し、他方では、その政治反動の露骨さと、この時期における日本の政治過程に於ける議会の比重の特殊な軍要性故に、反動立法をめぐる、防衛的性格の濃厚な、街頭行動を中心として頑強に展開されるのである。」とされ、また50年代の「平和と民主主義の理念」(それは戦後の反ファッショ、反占領の闘争の伝統である)に基づく学生運動が「層意識が学生に固有の教育的、経済的要求に基づくものではなかったこと、労働者指導性の脆弱性もあって、統一戦線の一翼としての意識が強固でなかったこと、すでにあらわれた第二期のこれらの限界性、安保以降のこれらの独占支配に対して学生運動が有効な対応をなしえないで分裂と衰退を余儀なくされていたと言わなければならない。一つの時期にはそれなしではすまされても、次の時期にはそれなしですますことができなくなるということの例証がこれであったし」とされている。ここでは、新たな、しかも、必然的に反独占的性格を帯びざるをえない「大学を基点」とした「教育、経済闘争」に特別な位置が与えられている。
四回大会テーゼほ、私立大学、教員養成制度、医学部、一般教育、教養部、学費・学館問題、など諸分野の方針を検討し、「大学の危機は、大学をとりまく外的諸条件の急激な変化と、政府の文教政策による直接、間接の大学への攻撃によって、そして何よりも大学の無為撫策によって、一層深化している。学生運動は骨の髄までしみこんだ『悪しき政治主義、街頭主義』によって全く有効に対処しえていない。…・‥と同時に、同盟は全てを教育闘争に歪曲し、平和と民主主義の闘争を無視ないし軽視する傾向を断固拒否する。」との立場を明らかにし、また、日本帝国主義の大学と教育への攻撃を「第一の主要な意図は、学校教育を通じて、帝国主義的海外膨張に応じた精神的支柱を植えつけることであり、他方、それは今工業水準の高度化を抜きにしては語れないところの世界的規模での利潤の確保に要する労働力需要に見合った労働力を獲保すること」と規定している。
池田内閣の下で、日本帝国主義が一方では再編された日米階級同盟=新安保を土台にした本格的な帝国主義的海外膨張を追求し、他方で、高度成長の名の下に、旧来の立法措置を中心とした露骨な政治反動にかわる「私的独占のなし崩し的侵透と国家独占資本の総動員による社会生活の全分野にわたる国家の国民掌握を軸にした攻撃の下で、「市民主義意識の近代主義意識への吸収、私生活至上主義、政治的無関心層の増大と自治会活動からの離脱化が連行する。」のであった。だが、これらの資本主義の一定の相対的安定成長期における独占ブルジョアジーの一定の「成功」は決して長つづきはしなかった。
国家独占資本主義の諸矛盾は、もほやおおいつくし難いものとなった。高度成長の生みだした諸矛盾は、学生の社会的、経済的地位む著しく低下させた。労働者勤労人民の搾取の強化、労働条件の実質的悪化、労働強化、日本型低賃金構造に加えて巧妙な労務管理技術の導入、それがもたらす肉体的、精神的災害、自然と環境の破壊、また雇用の不安定化と失業者の大群、侵略戦争への加担と軍国主義強化、部落差別や民族差別を助長する差別と選別の教育制度や法律、露骨な政治反動など諸矛盾—-独占と反独占の間の矛盾と蓄積とその顕在化は学生をして社会的政治的関心を急速に高めつつあった。
まさに、このような時期に、同盟第四回全国大会が開催され、既述のテーゼが打ち出された。その内容規定の不十分性、不徹底性は否定すべきもないが、「八中委・九大会」路線の一面的強調 - すでに述べたごとくの市民主義的な「平和と民主主善」意識に依拠する街頭政治行動中心の闘争–による故治戦略と運動論を止揚する提起がなされた。
政治同盟は、労働者階級を中心とする反独占勢力との連帯、同盟を不可欠とする反独占民主主義的政策とその実現のための闘いを不可避の任務として自覚していなければならなかった。
戦後の学生の大衆化とは、量的拡大の規模においても質的にも異なった高度成長と科学技術革命の進行下におる学生の大衆化の過程、学生及び大学構成員の出身階層の構成の変化、その将来を勤労人民として予定せざるを得ないという意味での学生層の全体としての労働者階級への接近、これらの過程が必然的に生みだす諸矛盾と学生の意識の変化、また大学における他の構成員の地位の変化等に関する明確な理論的規定にまで到達しえていないという点における不充分性は、学生層の反資本主義的志向の高まりや要求を正しく組織するという実践的任務に、また、反戦闘争や政治闘争に広汎に決起する背景の理解において全く不十分であったと言わざるをえない。
わが同盟は、歴史的な大管法闘争を指導し、「教育・経済」闘争の決定的重要性を「学生運動」の転換局面の到来を意識しつつ提起はしていたといえよう。だが、この提起は、池田内閣に続く内閣として登場した佐藤内閣の下で、.その極端な侵略的性格に反対するべ反戦・反軍国主義の闘争に当然にも全力を集中していく中で、ほとんど具体化されずに、われわれもまた、全体としては街頭政治主義に陥っていったと言わざるをえない。平和と民主主義の意識に基礎をおくべ反戦闘争の推進と街頭政治主義–市民主義、すなわち、物質的利害に基礎をおかず、あすの現実の担い手たる労働者階級とは無縁の小ブルジョア的意識によって規定される–とは同義ではない。政治同盟にとって重要なことは学生層をめぐる規定に超歴史的な立場からこれを規定するのではなく、社会的、経済的地位を急激に低下させている学生層の客観的な社会的、経済的、政治的諸条件の変化、従ってそれらに規定される学生層の必然的な要求の変化と拡大i「教育的、経済的」–に応えることを不可欠の任務としなければならないことである。このような見地の徹底こそが、そして、その政策の具体化こそが「未来に再び大衆の自然発生性に対する『指導部』の立ち遅れ、と語ってはならない。」ということを現実のものとできたのである。
国家独占資本主義下におげるとりわげ急速な科学技術革命の下での学生層の特徴、大学と国家権力、独占資本との関係--大学自治論、学生運動論などに関する理論上の立ち遅れや無関心、街頭政活主義は、戦線の分裂を止揚し、全国学園闘争の自然発生的高揚に敏速に、かつ、正しい政策と方針を提出することを妨げたのである。だが、より重大な困難性は、このような変化の非常な複雑性であり、それらの変化がひきおこした新たな闘争の担い手の拡大と広汎な大衆の運動への参加によってひきおこされている。それは、広範な反独占諸階層の要求や具体的利害、共通の利害のとりくみ方等における多様性の存在という現実にもかかわらず、共通の基本的な方向をめざす諸勢力間の関係、すなわち、同盟関係の具体的な方向に関する全般的な立ち遅れの存在 - 理論上の、政治行動上の等々--となって現われていた。これは、特殊われわれだけの問題でなく、国際的な傾向であり、日本の前衛政党におけるこの傾向の深刻さに深く関わっていたと言えるであろう。このことを考慮するならば、四回大会テーゼの提起は優れて先進的な意義をもつものとして高く評価されねばならないし、同盟の歴史のなかに輝かしい理論的成果をしるしていると言わねばならない。

五 全国学園闘争と民主主義学生同盟
68-69年全国学園闘争が束大日大を一つの頂点として拡大した時、我が同盟はプロ学同との組織分裂を基本的には克服しながらも我が同盟が直接東大や日大における闘争を担うことを困難にさせていた。だが本質的な問題はこの全国学園闘争の高揚や全共闘の掲げるスローガンやその「思想的」特質の科学的な分析とそれへの敏感な科学的対応1指導において重大な立遅れが存在していたことである。
この立遅れは当初、明らかに、我々のセクト主義的対応をもたらした。それは、大学をめぐる矛盾の分析に旧来の立場から出発し〝教授会の自治″ 〝大学の教育・研究″ 〝学生に関する重大な変化″を十分把握できなかったことを意味している。又、一時期民青と同様の〝全共闘主要打撃″に陥ったことも事実であった。例えば、〝封鎖実力解除″を学友に呼びかけるべきだという主張に表現されていた。
だが我が同盟は大衆運動に学ぶという見地に忠実であったし、先輩の優れた政治的経験と指導によって、大衆追随とは無縁の科学と民主主義の立場に立つことができた。誤りや不十分性を克服し広範な大衆をひきつけ、全国学園闘争を最後の局面まで最も戦闘的に戦い抜くことができた。
全国学園闘争の高揚の中で、学生のみならず、その置かれた劣悪な地位生活研究条件の下で生活している大学院生、助手、助講会(助教扱、講師)の人々が極めて重要な役割を果したが、それは我が同盟の卒業生においてもそうであった。
例えば、阪大七院協、青医連のストライキ闘争などはその典型であり、大学当局の反動的収拾策動と学生の孤立化策動に楔を打ち込み、大衆団交実現の決定的な力となったことは特筆される必要がある。彼らの活動はこれらにとどまらず、その理論的思想的活動、全般的な政策の立案作業においてを積極的な役割を演じている。
又われわれはレーニンの古典的著作に学ぶことを通じて誤りから解放された。「運動を解任させるのは、パルチザン行動ではなくて、これらの行動を掌握することのできない党の弱さである。…いかなる歴史的条件がこのような闘争をよびおこすかを理解する能力がないために、われわれはまだこの闘争のわるい側面を麻痺させることができないでいる。だが、それにもかかわらず闘争は進んでいる。それにもかかわらず闘争は進んでいる。それをよびおこしているのは、強力な経済的および政治的原因である。」(パルチザン戦争)
大学立法反対闘争への大衆的決起(理大はこの過程で理工自治会選に勝利)を実現し、(政府・独占資本の立法実現化に対しても、大学の民主的改革実質化阻止を掲げて、六十九年十二月までも長期にわたるストライキ闘争を闘い抜いた阪大、阪市大、阪学大等)だが、労働者階級の支持と連帯が実現しえず、勝利の基本的条件が不在であったこと、全体としての力関係の悪化-立法実質化に対するトロ諸派の極「左」的(=敗北主義的)対応と民青の学園正常化、授業再開路線によって–の下で、二年間のこの闘争は後退を余儀なくされた。
しかし、全国闘争が我が同盟に与えた教訓は偉大であった。それは今日に至るまで我が同盟として最も困難な時期にもかかわらず、学園における闘争を闘い大衆運動の前進とその統一のために貢献させた。その理由の第一は全体としての運動が、全共闘 -民青の不粍な対立の中で敗北したにもかかわらず、学生が全体として反独占闘争に決起したという事実を目撃したことであり、学生がますます労働者階級、勤労諸階層の基盤を拡大せざる得ないとの確信である。第二に、一つの典型的七反独占民主主義闘争を、教育と学生生活をめぐる聞いとして組織し得るという確信である。第三に、この過程を通じて国家独占資本主義の下における科学的技術革命と、その大学及び学生に与えた重大な変化について科学的な理論的分析をなしえたことである。(勿論、未だ不十分な問題も残している。)このことは、今日、トロ諸派や民青、学生共闘諸君と我が同盟を区別し、その先進的な性格を際立たせている。
第四に、全国学園闘争は、今日の闘争が一貫した反独占的改革の政策「プラン」と労働者階級、反独占諸勢力との連帯が不可決のものとして要求されており、また、大学の教官層や学外の反独占諸階層との連帯をかちとりうるような闘いが学生によって組織されない限り、根本的な勝利を聞いとることができないことを示したのである。
世界の舞台における平和共存の前進と反独占民主主義闘争の前進は、再び、我が同盟の趣意の基本的立場の正しさを確信させ、深刻な大衆運動の爆発によってそれは豊富化された。
だが我々は、この全国学園闘争の高揚の過程で(同時にそれは、沖縄--安保闘争の高揚の時期でもあった。)学生「共闘」派を自らの隊列に生み出した。それは基本的には我々が大学闘争の初期において犯した誤りの固定化--全共闘運動に対するセクト主義的対応と理論的立遅れの「原則」化、セクト主義的対応の合理化と街頭政治主義への逃亡–としてあった。(詳しくは学共批判参照)
この事実は、我が同盟が日常的に提起される諸問題に真剣な理論的、政治的分析を追求する態度を堅持せねばならないことを教えたのである。

六 七〇年以後の学生運動
七十年は、大学闘争と十一月佐藤訪米阻止闘争が結果として敗北した、という事情の中で、又、全体としては、自然発生的な高揚に特徴づけられていたという事情で、大学には敗北感が漂っていた。そして六・二三闘争の一揆的(自然発生的)高揚の後、学生戦線の沈滞が続き、トロ諸派は、少人数の極「左」爆弾路線に傾斜し、隠惨な内ゲバを繰り返してゆく。これは彼らの極「左」路線が破産したことの逆証であった。
一九七二年二月の連合赤軍の販北を示したのである。大衆運動の後退は諸党派は自己的論理の破産を自治会の暴力的私物化戦術の一層のエスカレートで「解決した」のである。学「共」派もこの例外ではなかった。民青諸君は、より一層、トロツキスト主要打撃の偏向を深め、大衆運動を放棄し、その議会主義とセクト主義は深刻となってきた。(新日和見主義の発生ほ、民青の誤りに対する即時的反発としてあった。)こうした情勢の下で、政府独占は国公私学の学費値上げ、中教審答申の実質化=大学の寡頭管理体制を強化し学生連動への弾圧を強化してきた。
相次ぐ学費値上げ阻止闘争の高揚は、今日、私立大学学生の最も深刻な課題として存在し、大学の反動支配資本主義的合理化=中教審策申の実質化と結びついている。しかし、七十一年七十二年全国学費学園闘争は、全学生に共通な利害に関わる問題として存在しながら、全く自然発生的、短期間の急速な高揚と後退という弱点をさらけ出している。われわれが存在する大学においては、一定の長期間に渡る闘いとして、粘り強さと大衆性を獲得してきたが(理科大、関大、市大、阪大、etc)全体としての力関係の転換を未だかちとりえず、学費値上げの強行を許すという事態を招いている。七十一年学費闘争は、民青系「全学連」が、全国一八十万学友の行動統一の中心として機能しえないことを再び暴露している。又同時に、このことは、かかるセクト主義と闘争放棄を許しているという原則的な闘争部隊と全国的大衆連動の弱さとしても理解されねばならない。七十年以降幾つかの大学における典型的な大衆闘争は、未だに一大学の枠内にとどまっている。大阪教育大学の「自主」実習 - 同実組運動、解放教育確立の闘い、大阪市大の三・一六闘争、私学学費闘争など一大学のレベルでの闘争は、着実な前進をかちとっている。かかる闘争の前進は、トロ諸派、民青、学「共」などの誤まれる「指導」を拒否し一つの統一した大衆運動の方向をさし示してきた。全般的な政府・独占資本の学生弾圧の強化策動は、自然発生的な、又我々をはじめ目的意識的な全員加盟制自治会の民主的再建運動をよび起さざるをえない。早大四万学友の昨年十一月以降の闘争は、内ゲバや暴力的恫喝とテロによる自治会私物化に反対し、同時に政府・独占資本の大学支配に反対する大衆闘争の典型をなすものである。
このように全国学園闘争の敗北にもかかわらず大学の民主的改革学生生活擁護、自治会建設の闘いは、不断の高揚を示している。労働者階級をはじめ反独占勢力の闘争が未だ大学と教育の問題を闘いの中心にすえていないという現実を正しく考慮した現状打開の方針が検討される必要がある。政府・独占資本の中教育答申の本格的具体化が日程にのぼっている。学生戦線が全員加盟制自治会の再建と強力な統一行動の中心を形成し、反独占民主主義闘争の前進をかちとらねばならない。
レーニンは一九〇八年十月、ストルイピン反動の中で、ペテルブルグ大学の学生ストライキを評して次のように教えている。
「プロレタリアートはぐずぐずしていない。彼らは懇親会や合法団体や、代議機関の演壇では、しばしばプルジョア民主主義勢力に演説の先をゆずることがある。だが、大衆の真剣な偉大な革命的闘争では、彼らは決して先を譲ってはいないし、またこれからも譲りはしないだろう。この闘争の爆発のためのすべての条件は、われわれのだれかが欲するほどはやく、またたやすく熟しない。けれどもこれからの条件は、たえずかわりなく熟しており、また近づいている。小さな学園粉争の小さな始まりでも、偉大な発端である。というの唱そのあとには1きょうでなければあす、あすでなければあさって、偉大なつづきがあるだろうから」(学生運動と今日の政治情勢、国民文庫「青年論」)
われわれは、常に、全国闘争を準備する覚悟と、目的意識的活動をもって現情勢の諸困難を克服しなければならないし、着実な前進によって、又、急速な前進の過程へ進み出る条件の成熟の下で、それは可能である。
(ここでほ、原水禁運動、七十一年の沖縄闘争、七十二年の反戦-相模原闘争の総括は割愛した。七十一年沖縄闘争の中、十・二〇全国集会の成功が首都における我が同盟の影響力を拡大する契機となったことを付言しておく。)

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