「民学同の10年と青年同盟結成の意義」について

「民学同の10年と青年同盟結成の意義」について
    <民主主義学生同盟第十三回全国大会への中央委員会報告>

 民主主義学生同盟の10年間は、諸外国の青年ー学生運動に比類をみない異常事態と困難な条件の下での活動であった。あらゆる社会的変革の組織的保障となり、労働運動を中心にして、他の一切の民主主義諸斗争を指導すぺき前衛政党と、それに指導される広汎な民主的青年の大衆的政治同盟の不正常な事態という条件がそれである。従って、労働運動と民主主義諸斗争が、青年の豊かな情熱と感情、平和と民主主義、よりよい生活と未来のために献身するという社会進歩にとって欠くことのできない財産に対して確固たる信頼と展望を与えることができないという異常な事態が生み出されたのである。
 小ブルジョア民族主義とセクト主義、分裂主義の業病に冒された前衛党と民主青年同盟が、原則的で戦斗的な労働青年、学生の間でその政治的・思想的権威を失って、すでに10年を越える久しい年月が過ぎ去っている。
 日本共産党(代々木派)と民主青年同盟の指導部は、民族主義的な反米斗争路線のセクト主義的なおしつけによって、日本における平和と平和共存・反独占民主主義のための斗争の重大な阻害者としての役割を果してきた 。
 彼らは、平和運動・原水禁運動を分裂させ日本の平和運動・原水禁運動が国際連帯の旗の下に発展することを妨害していた。彼らは労働運動の統一を常に右翼日和見主義とセクト主義によって分裂させて来た。このような労働運動とその他の民主運動の分裂は、学生戦線の統一を阻害し、分裂の促進要因となって機能し、学生が基本的スローガンとする“平和と民主主義、よりよき学生生活) “大学の民主的改革”のための闘いで労働者階級とともに斗うこと、これらを長期にわたって、事実上不可能にする程の事態に陥れてきた。
 このような条件の下で、戦斗性を維持し、セクト主義的偏狭さに陥らず、広汎で大衆的な、しかも統一した斗争を追求することは、容易なことではなかった。
 だが、民主主義学生同盟は、常に基本的立場と原則性を譲らず、学生運動と一切の民主主義諸斗争の統一のために枯り強く斗い、組織建設を行ない、思想的一致を深め、成長してきた。このような優れた学生同盟の歴史は他の団体や組織にはないことである。だがこのような歴史の中には、常に同盟員の献身的で、自己犠牲的な活動があったことを想起しなければならない。理論的・政治的蓄積とその継承が極めて困難であるという学生同盟の限界は、とりわけ留年という形での同盟カードル層への多大のしわよせを不可避とし、他方では、不断に理論的・思想的水準の低下によって組織分裂という危険を内包していることを銘記しておかねばならないであろう。
 我々は、同盟創立10周年に当たり、我が同盟の諸先輩が同盟結成趣意と規約の中に、第四回全国大会をはじめ大会諸文書の中に、今日の同盟の基礎を築いたことに、敬意と兄弟的連帯の意志を表明する。
 我々は、諸先輩の生み出した財産を継承・発展させ、同盟を真に全国的で、大衆的な、全国一八〇万学友の共有財産としての名に恥じないものに成長させることこそが、同盟諸先輩の労苦に応える道であると考えている。
 我々は、第十二回全国大会で提起され、現在まで着々と準備が進められてきた労働青年を中心部隊とする青年同盟の結成が同盟一〇年の政治的・組織的活動の所産であると考えている。我々は、結成される青年同盟が、わが同盟と兄弟的関係で結合し、日本の青年・学生運動の統一と労働者階級の統一のために活動する歴史的時代の到来を熱烈な支持と共感、万雷の拍手をもって歓迎するものである。


 一九六三年九月十五日、我が同盟の諸先輩は、民主主義学生同盟を大阪の地に組織した。その直接の契機は、当時、民主青年同盟と日本共産党内部で指導部の小ブル民族主義と官僚主義・セクト主義的偏向と斗っていた大阪大学・大阪市立大学・大阪府立大学などを中心とした同盟諸先輩に対する党と民青指導部よる官僚主義的な組搬的俳除であった。
この組織的排除の直接的理由は、60年安保斗争の過程で、社学同、次いでマル学同(現在、革マル派と中核派に分裂)に暴力的に私物化され、破壊されていた日本全学連の再建とその統一をめぐる民青指導部のセクト的、分裂主義的方針の決定=自派のみの、自治会とならんで個人までをも加盟単位とする無原則で、混乱した、いわゆる“平民学連”の結成に反対したことにあった。 「全員加盟制自治会の不断の強化とその地方的ー全国的共同斗争の発展、下からの大衆的支持に支えられた言葉の真の意味での大衆的イニシアチブの発揮によって、学生運動の統一をめざすべきであり、いわゆる『トロッキスト』諸派によって暴力的に私物化され、戦線分裂の極度の進行の中で、学生運動の政治指導部の政治権威が弱化されている現状の下で、 『トロツキスト』諸派に対抗するために、民青指導下にある自治会、サークル、個人まで一切の区別なしに結集していく“平民学連”方式の導入は、京都・大阪・兵庫など強固な統一機能を持った地方学連が依然として存在している条件下では、学生戦線を分断し、分裂を組織的に固定化するだけである」との我が同盟諸先輩の原則的立場は学生戦線統一のための譲ることのできない原則であった。
 民学同は、セクト主義・分裂主義の最も頑固な敵である。 「言葉の真の意味における統一の推進者・擁護者である」という我が同盟の組織性格は、その誕生の歴史に深く規定されているのである。 「我々は、大衆団体の基本的利益に最も忠実かつ独自的に斗い、大衆団体の統一のためにうむことなく斗う政治組織のみが真に民主的かつ進歩的なものであると確信する。我々は、クラス・サークルを基礎に、自治会を全員加盟制にふさわしい真に民主的で自主的な自治会たらしめるようその革新と強化・統一のために斗うo我々は共通の課題の下での統一行動を積極的に追求し、自治会・地方学連・全国自治会の統一の実現のために斗う」と趣意はのべている。


 だが対立は、この問題だけではなかった。むしろ指導部の大衆運動政策の誤まりは、彼らの思想的誤謬にこそ深く規定されていた。それは毛沢東主義に感染していた当時の民青指導部の小ブル民族主義に求められねばならない。独善的で排他的なセクト主義と官僚主義(組織内民主主義の破壊)は、民族主義思想の必然的所産である。彼らは、平和と平和共存・反独占民主主義・反独占統一戦線の政治路線を「フルシチョフ的」修正主義として攻撃した。
 日本の民主陣営内で激しく論争されていたいわゆる 「従属・自立」論争、その後続いて行なわれた「中ソ論争」 は、我が同盟が誕生する決定的な重要な政治的・理論的論争としての歴史的位置を構成している。この問題を巡って、日本共産党・民主青年同盟内部で深刻な論争が斗われた。この論争は、日本における民主主義的・社会主義的変革の戦略と戦術に関する重大問題であり、従って、その論争の、官僚的・行政的ではない、民主主義的解決による政治指導部の統一と団結の強化は、学生運動は勿論のこと、日本の労働者階級と広汎な勤労大衆、反独占勢力の要求に正しく応える不可欠の任務であった。
 だが民青指導部は、すでに述べたとおり、組織内民主主義を破壊し、思想斗争の権利を蹂躙し、反対意見を”分派主義・分裂主義・修正主義”などあらゆる悪質な恋意的レッテルのおし付けによって、青年の先進的部分に対して不当な組織的排除=指導部の分裂を強行したのである。同時に、我々は、基本的には正しい主張を行ないながらも、 “民青内部
に組織内民主主義がない”ことを理由に、組織の内部で当面する政治方針と政治路線をめぐる思想斗争の課題を回避し、自ら組織から離脱した諸君の無責任なサークル主義とモダニズムへの追随路線、無党派主義の思想と明確に自己を区別しなければならない。
我々は、官僚主義に反対し、同時に、それと表裏をなすサークル主義・無党派主義を拒否する。同盟趣意は 「同盟が学生運動における指導部隊としての役割を果たす為には、科学性と戦斗性、なによりも同盟の隊列の強固な統一が必要とされる。組織内民主主義の発展こそ科学的な政策と方針に基づく同盟隊列の統一を創り出し、同盟の指導性をうちたて
る最大の基礎である」と述べている。
 民学同は、学生運動の統一の旗手であると同時に、同盟隊列の統一を瞳のように大切にすることを自己の任務としたのである。


 日本帝国主義の現状規定をめぐる、いわゆる“従属自立”論争、国際的な反帝斗争の総路線をめぐる、いわゆる“中ソ論争”は、我が同盟が困際的に達成された理論的政冶的諸原則を自分のものとする上で重要な貢献となった。
 日本共産党(代々木派)、民青指導部の見地は、復活強化された日本帝国主義を帝国主義と認めず、その被占領・対米従属規定によって、「日本の国家権力がアメリカ帝国主義とそれに従属する日本の独占資本に握られている」という誤まった「ブロック権力」論、ないし結局は米帝の権力の立場に立たざるを得ず、しかも、日本の独占資本が強大なアメリカ帝国主義に完全に従属している条件下では日本独占資本か日本の支配者となることはあり得ないとする日米運命共同体論=アメリカ帝国主義の対日支配の絶対化という、レーニンの帝国主義理論とは、およそ無縁の、正真正銘の民族主義的見地であった。彼らは、国家主権の問題と国家権力の問題を同一視し、帝国主義間の力関係の格差からくるアメリカ帝国主義の対日影響力ないしは政治的・経済的拘束力と対日支配とを混同し、何らの区別もなしに理解しており、日本独占資本と日本の政治権力を植民地従属国における買弁資本家的なそれとして評価するという誤まった見地に立脚していた。この見地からは、日本人民の主敵、すなわち打倒すべき権力を日本の独占資本(とその政治権力)として規定せず、民族独立と反米斗争を当面の第一義的政治目標として掲げる民族主義、日本独占資本との斗争における日和見主義への転落は必然的結果であった。また日本帝国主義とアメリカ帝国主義の間に、前者が成長・強化すればするほど、ますます拡大・発展する両帝国主義間の矛盾と対立の激化廿不均等発展の法則の貫徹という理論的原則は、眼前から消え去り、日本帝国主義との斗争における客観的に利用しうる有利な条件としてこの矛盾と対立を見ることに無関心・無理解となるばかりでなく、日本帝国主義がその独自的志向において軍事力を強化し、新植民地主義的政策を中心とした他民族抑圧を推進している現実に対して無警戒となり、日本の人民と被抑圧民族を裏切ることになるのである。
 我々は独自の利害と政策による日本帝国主義の自立的志向と発展を認識し、それとの斗争を自己の主要な国際主義的任務のーつとしていた。 又、我々は、社会主義世界体制、国際労働運動と民族解放斗争の強大な力によって規定される今日の力関係の下では、日米対立の必然的な激化の過程を通じて日本帝国主義がナチス・ドイツのようないわゆる”自立的帝国主義”にまで成長する展望が社会主義世界体制と日本国内の労働運動と民族解放斗争によって強力に規制されていることを同時に確認し、右の斗争の勝利の客観的な基盤となっていることを正しく評価していた。


 中ソ論争の出発点ともなった”八一声明”(八ーケ国共産党・労働者党会議声明、 一九六〇年)は、我々が立脚すべき国際的な反帝斗争の総路線であった。そこで提起された恒久平和の確保と軍縮の過程を推進し、帝国主義戦争を阻止し、平和共存の前進をかち取り、反独占民主主義の達成を通じて社会主義へ前進するという原則的政治路線は、民学同の趣意にはっきりと打ち出されている。 「人類の破滅か『平和共存か 第三の道はない」で始まる同盟趣意は「社会主義体制とともにあらゆる一般民主主義斗争は平和と平和共存の斗いを構成・強化し、同時に、平和と平和共存の斗いは、諸斗争の広範な舞台を準備し、統一と成功の見通しを保障する。 世界平和の共通の敵、ァメリカ帝国主義を先頭とする彼らの核脅迫政策・瀬戸際政策の志向を封じ込め、彼らを徹底的に孤立させ、より安定した平和共存的国際関係を樹立することは人類にとって最も重要な課題となっている。一と述べている。また反独占民主主義について趣意は次のように規定している。
「現代の民主主義 新しい民主主義は、たんに防衛的かつ政治的なものにとどまらず社会・経済における民主的改革をも斗いとる積極的かつ攻撃的な性格をおびている。またそれは、独占資本との対決を通じてかちとられ、労働者階級によって指導される勤労諸階層をその擁護者・推進者とする。我々は分裂している労働者階級の統一を望み、その統一のための事業に協力する。」我々は、ここに提起された思想の原則性こそが、今日の民学同が優れて国際主義的であり不断に日本国内の大衆運動に依拠して斗う中で、他と自己区別し、独自の政治組織として存在しつづけ、前進している基礎があると確信している。
 日本共産党(代々木派)民主青年同盟は平和と平和共存・反独占民主主義の政治路線を中国毛沢東指導部と声をーつにして憎悪し、“修正主義” “右翼日和見主義” “構改派” =改良主義”などの根拠なき政治レッテルによって否定した。彼らは情勢の発展そのものによってその誤りを宣告されている。彼らは「革命的」空文句による誇大宣伝と実践的には反独占斗争はいうに及ばず国際的な反帝国主義斗争の具体的政策を掲げず、待機主義と日和見主義に陥り、全ゆる大衆運動を民族主義的反米斗争路線の押し付けによって分断する分裂主義の悪しき代名詞に転落した。彼らは、全世界の、とりわけ日本の原水禁運動はその重要な構成部分であった部分核停条約の獲得に対してこの成果を認めず、この条約に反対し、四・一七ストに反対した事件は、その象徴的事件であった。我が同盟は、各大学平和委員会活動や原水禁運動の中で国際連帯の立場を守り抜き、六五年・ヘルシンキで開催された平和大会にも代表を派遺し、日本平和運動の民族主義的歪曲と斗った。
 民主主義学生同盟は、小ブル民族主義と斗い、国際的反帝斗争の総括路線に立ち、平和共存と反独占民主主義の原則的路線の下に大衆運動を組織し、主として学生戦線において強固な指導的中核部隊の建設を克ちとり、学生運動を統一すること、分裂している労働運
動の統一を望み、労働者階級の、なかんずく、その指導部隊の統一の事業に貢献することを自己の任務として規定した。


 我が同盟は、首尾一貫した科学的世界観の上に立っている。同盟員の理論的関心と理論水準を不断に高め、古典的諸著作を系統的かつ真剣に研究し、反動イデオロギーや小ブル的動揺 ペシミズムや盲動主義 と断乎として斗い、科学的世界観を学生大衆の中に大胆に持ち込み、政治斗争・経済千争と正しく結合したイデオロギー斗争を通じて学生大衆を政治的・思想的に指導し、獲得するための不断の努力をおこなってきた。このような一貫した理論活動と思想的立場こそ我が同盟の最も輝かしい伝統のーつであり、最大の権威のーつである。我が同盟が氾濫する独占のイデオロギー攻撃やマルクス主義陣営内部の思想的混乱にもかかわらず、また学生大衆へのこれらの混乱の増幅された反映にも関らず、着実な政治的組織的前進をかちとり、また二度にわたる分裂という不幸な代価を払ってではあったにせよ、我が同盟の隊列内に発生した小ブル急進主義、セクト主義的、暴力主義的偏向とそれに基づいて我が同盟を離脱した部分との斗争で国際主義・労働者階級との連帯・大衆運動の統.と前進を雌護しぐ基本的にこれを一掃しえた基礎には、我が同盟のこのような不抜の思想的伝統ーそれは、我が同盟結成に先立つ大阪唯研・大阪学生唯研・及びその後の「知識と労働「を中心とした我が国の戦斗的唯物論者、マルクス・レーニン主義者の長期にわたる原則的理論斗争によっで形成されたがあった。


 民主主義学生同盟は大阪府学連を指導し、全国学友に共通の課題にもとづく共同闘争の大胆な呼びかけを通じて、全国同盟への成長の過程を歩んでいった。関西三府県学連の統一行動は、分裂した学生運動の中で、最も大衆的で、戦闘的であり、輝かしき全学連運動の伝統を誇りうるに足る闘いを組織し、大阪府学連は常にその中心を担っていた。この闘いの過程で、原則的な学生運動統一政策を常に堅持していたわれわれの隊列に、京大を中心とするいわゆる京都統一派(民青)の部隊が結集した。それは、関西学生運動の統一し
た闘いに対してとった極めて分裂主義的な敵対政策=ボイコット・分裂戦術(「①京都平
民共闘の統一行動、大学教職組と学生の統一行動とに党の指導する学生運動は、京都都平民学連として参加しても、党の指導する学生は京都平民学連として学生の隊列を別に組織する。②京都府学連の統一行動は、これが反共分裂の挑発行動であり、党はこれをボイコットし、 一切の集会とデモは粉砕し崩壊させる。・・・断固として自治会執行部の多数決に拘束されない」六三年八月二〇日付の日共京都府委員会通達”京部における学生運動の再建統一のために”は、この 「戦術」のセクト的本質をきわめて明確に示している)の破産の実践的帰結でもあった。
 だが同時に、彼らの同盟隊列への合流は、日本帝国主義の評価に関する基本対立を解決することなく行なわれ、後のプロ学同=共労党派との不可避的な組織分裂の深因となったことを想起するならば、同盟の思想統一がいかに重要な課題であるかを学んでおかねばならない。
 白川真澄を代表的イデオローグとする彼らは、いわゆる「従属的帝国主義理論を主張した。同盟内に発生した意見対立は、同盟が依拠する理論的諸原則にかかわる内容をもつものであった。核防条約の評価において対立はまず顕在化した。 「核防条約は、独自核武袋を禁止しているが、核もち込みは禁止していない、当面する現実の危険は独自核武装ではなく、核持ち込みであり、従って、核防条約は日本人民にとって無意味であり、核持ち込みを合法化する危険すらある。我々は全面核禁止をめささなければならない」との彼らの見解は、第一に部分核停条約や平和と平和共存をめざす闘争における原則的立場=恒久平和と全面核禁止に向かう一歩一歩の前進、そのような成果の獲得を積極的に評価し、最 終目標の達成の過程にそれらの段階的成果を 正しく位置付けること、第二に、日本帝国主義の核武装のコースを核持ち込み(アメリカ帝国主義の核のカサの下でのそれ)に限定し、独自核武装にかける危険な志向を過少評価し成てはならないこと、に対する全面的な懐疑を含んでいた。このような態度は、先述の「従属的帝国主義」理論と深く関わっており、 日共(代々本派)の見解に酷似している。
 彼らの主張は、帝国主義の冒険的で反動的なまき返し政策が進む過程で、次々と趣意に 表現された同盟諸原則への懐疑と否定へと突き進んでいった。それは同時に社会主義学生 戦線(フロントー統社同)のとったコースでもあった。彼らは、平和と平和共存の戦略を否定し、社会主義体制への懐疑を拡大し、毛沢東–林の「第三世界」革命論と同種の路線へと突き進んだ。また彼らは、労働者階級を盟主とする反独占統一戦線を通じて反独占民主主義を実現し、社会主義をめざす政治路線は、生ぬるいとして、「反独占民主主義の左転回」を主張し、事実上、反独占民主主義戦略を放棄した。同盟創建後、最初に生じたこの意見対立は、激動する情勢に直面して、危機感・焦操感に表われた小ブルジョァ特有の動揺に基礎をおくものであった。また、それは彼らの従属的帝国主義の主張に示されるように日本共産党(代々木派)の小ブル民族主義と完全に手を切ることができなかったことの必然的結果であった。このことは、最近民主青年同盟内部で発生したいわゆる新日和見主義が、議会主義に反対して議会外の大衆運動の決定的重要性を強調し、現実の内外情勢の客観的発展を反映して、日本独占資本の独占的志向とその危険性を指摘し、アメリカ帝国主義の世界支配における地位の相対的低下と後退を指摘した点において正当性をもちながらも、現指導部に屈服せざるをえなかった真因が、彼らの思想における折衷主義・小ブル民族主義思想にも共通して言えることである。
 森信成と大阪唯研は、帝国主義イデオロギーの基本特徴を次のように規定した。① 方法論 自然科学技術における墳末実証主義によって“技術開発”の要請に応えつつ、かつマルクス・レーニン主義を非現実的非合理的信念体系として排斥して改良主義を擁護し、 しかも他方で、世界観における非合理主義によって社会変革の科学的展望を人民から奪い取り、金融独占体の利害に盲目的に追随せしめ、③ 個人主義・エゴイズムによって人民の組織を解体(第二組合の自由)させ、且つ人民内部に相互敵視(ェリート主義・能力主義)を持ち込みつつ、しかも、④ マイホームのためにはわが社、わが社のためにはわが国という形で排外的ナショナリズムを展開する点にある。また、⑤ 生産関係(搾取と収奪の関係)をインペイして、「生産力が上がれば労働者も豊かになるーと生産力理論でパラ色の未来を約束しつつ、⑥ その裏返しとして、国独資の発展がもたらした諸矛盾を科学万能的考え方のせいにする疎外論、新マルサス主義、地球破局論、 「東洋思想」を持ち出す。
 我々はこのような把握に導かれて活発な思想斗争を展開して来た。
 70年代の国独資の危機の中で現在ハラ色ムードから灰色ムードへ力点が移行し、(トータル・システムアプローチ)の強調から国旗掲揚、青嵐会の抬頭まで、世界観主義の諸形態の新たな展開が見られる。またこの危機の深化の中で、特に青年青年労働者を中心にその戦闘化・労使一体意識・国益意識の急速な低下が見られるが、それが必ずしも労働者の階級的自覚と結びつかず現象的には、「脱政治」意識が広がっている。本来、労働者階級の中に社会主義的意識を持ち込むべき日本共産党代々木派は、社会主義と機械的「段階的」に切断された「民主主義」→階級に先立つ国民・市民・人間→疎外論、 「ヒューマニズム」「人間性回復」論の展開というように、中間者の危機意識の忠実な、表明者となりつつあり、かかる見地からマルクス–レーニン主義の諸原則の系統的な「再検討」「自主独立」「先進国型」マルクス主義の確立を行なっている。
 わが同盟の目指す、労働者階級を先頭とする反独占の深刻な改革が、このような右翼日和見主義の思想や戦術と断乎として対決し克服することなしは、科学的戦略・戦術抜きにそれに基づく労働者階級の強固な組織・規律・政治的訓練抜きにまたこれを指導するまたこれを指導する強固な先進部隊–科学的革命論で武装した–可能であるかの如く考えるのは最大の幻想であろう。(科学的革命論なしに革命なし)そしてこのような部隊を杉戎することは我が国の革命的人民にとって最も重要でかつ真剣な任務である。我が同盟が多くの革命的青年労働者を輩出し、彼らが労働者階級の先頭に立って斗っているのも決して偶然でない。我々はこのような事実を誇りとしつつ、思想上の原則性と党派性という輝かしい伝統を断乎として受けつぎ発展させるであろう。


 同盟は、プロ学同=共労党派との分裂から生れた痛手を基本的に克服したくまさにその瞬間において、再び同盟内部に当面の学生運動の統一の組織方針、ならびに、大学闘争の政策、全共闘(べ平連・反戦・青年C)運動の評価等、大衆運動の方針とその実践に深く関わる問題での意見対立を同盟内部に生み出した。
 この分裂は、 一連のベトナム反戦斗争でべ平連や反戦青年委員会が生まれ、大学斗争で全共闘運動が生まれ、それらが広範な青年・学生大衆をとらえるという事態の中でひきおこされた。広汎な大衆をとらえた急進的で、無政府主義的な気分と不断の動揺、労働者階級との連帯を否定する市民主義的思想は、科学技術革命の結果生み出された新たな社会的諸矛盾の蓄積と階級斗争の新兵の大量の流人によってひき起こされた。それらは、客観的な発展の過程であるとともに、日本的特殊性(日本共産党・民青の右翼日和見主義とセクト主義による斗争破壊)によって一層拡大された。
 反戦と平和・反独占民主主義的諸政策・大学と教育の民主的改革が問われ、大衆は強大なエネルギーを内包しながら行動した。彼らを獲得するためには、原則的で、粘り強い指導と実例の力による教育が必要であった。だが日共(代々木派)、民青は、それを妨書し、彼らは権力と事実上一体となって排撃することによって、この作業は著しい困難を強いられた。我同盟自身の政治力量ー指導と、彼らを教育するため実践的活動力が問われたのである。
「学生共闘」一派と呼ばれる同盟内分派の諸君は、このような、まさに高度の意識性と組機性がとわれる活動の困難さの前に拝跪し、日本共産党(代々木派)、民青の誤りへと転落していった。それは、京都大学に象徴される特殊な事情ー極「左」主義と右翼日和見主義の潮流のニ極分解現象と小ブル的気分の支配する活動家主義の根強い存在ーの中で、思想斗争の原則的展開が解体され、民学同の立脚する諸原則があいまいにされ、忘れられる中でひきおこされた。それは、いわゆる「新左翼」に対する即時的反発にその出発があり、その誤りはバリゲード実力解除方針に集中して現われた。
 彼らの誤りは民青がかって提起し、同盟諸先輩が断固として斗った平民学連のミニ再生産でしかないセクト主義ー思想と政策の原則性、その旗の下に大衆を獲得すること、抽象的「空文句」ではなく、個々の局面における具体的スローガンの提起によって大衆を獲得すること、こうして広汎な大衆を統一し、誤った政治指導部を孤立させること、これらの任務を放棄し、大衆からうき上った少人数の活動家のみを結集する街頭斗争主義、そのための各大学学生共闘=恒常的斗争委員会の提起をその本質としていた。自己の孤立を合理化し、そこから「主体形成」のみが過度の重点をおいて強調された。その必然的帰結は、同盟内では、露骨な官僚主義と同盟分裂の策動となって現われた。彼らは予定されていた同盟第12回大会を前にして、全国委員会(七名中四名は彼らによって構成されていた。)での多数決をくり返し、代議員を水増しし、彼らに反対する同盟員の推せんする新規同盟員の加盟を拒否しつづけた。それでも大会代議員多数を獲得できなかった彼らは、ついに第12回大会を暴力的に破壊したのである。
 統一会議が結成された。それは、今回の分裂が、プロ学同のときとは異なり、同盟の基本政策の一部、とりわけ、学生運動統一を中心とした大衆運動政策に生じた誤まりであり、とくに科学技術革命によってひきおこされた情勢の新たな発展ーその複雑さに起因していたからである。
 われわれは、思想斗争と実践的活動を通じて、民学同の隊列の再統一を実現することを同盟の諸任務の実現とともに貫徹するということを新たな課題としなければならなかった。「学生共闘」指導部はその誤まりを深めていった。それは、同盟原則の一部であっても、それを否定したとき、それは必然的に全体の誤まりを導くものとなることの証左であった。そのセクト主義は、必然的に無用な党派間抗争を生み出し、内ゲバ・テロル戦術の採用となって、ますます大衆運動を破壊する役割を担うようになった。それ以降の一連の市大における革マル・ブンド系ァナーキストとのヘルメット、鉄パイプで武装しての内ゲバは、その象徴であった。この過程は、また彼らの内部矛盾の深化の過程であった。同盟趣意と彼らの政策・行動が矛盾を拡大し、それは、必然的に指導部への批判勢力を生み出し、高崎経済大支部の同志の統一会議への結集となってあらわれた。
 我同盟は、72年統一会議第四回代議員総会において、 「学生共闘」指導部が民主主義学生同盟の趣意の原則を大きく踏みはずし、同盟の光輝ある名を汚しているとき、同盟の旗を守り、発展させることが、われわれの避ける事のできない任務であることを確認した。第12回大会の開催とその成功へ向けた活動が開始されたのである。
「学生共闘」派は、現在もなお関西において一定の活動定数を維持しているが、彼らは全体として暴力主義的手段を採用することにおいて我々と絶対に和解出来ない潮流である。彼らは政策的には依然として民青との妥協と統一に主要な方向を見い出している部分と急進主義との内部矛盾を内包している。
 われわれの闘いの前進が必ずや彼らの矛盾を拡大し動揺を生み出し、再び原則的思想と政策の優位性によって、民学同の旗をその名に恥じないものとして関西にうちたてる時が来るであろう。
 こうして民学同の真の統一は獲得されるであろう。事態は確実にその方向に進んでいる。


 一九七三年三月に開催された民学同第12回全国大会は、同盟一O年間の歴史の中で第四回大会に匹敵する特筆すべき意義を有する大会となった。第12回全国大会は、第一に、統一会議結成以来の政治的・思想的統一の作業をおし進める重要な貢献を行った。第12回全国大会テーゼとして提出された文書は、われわれの大衆運動と密接に結びついた理論的・政治的活動の成果である。それは同盟趣意の諸原則をひきつぎ発展させるという原則的立場に立って準備された。そこで提起された理論と思想は、民主主義学生同盟の旗を守り、発展させているのは誰であるかを疑う余地なく示している。だがわれわれは、このテーゼをさらに深め、不充分点を補い、さらに深め、理論的正確性を更に獲得する作業の必要性を認めておかねばならない。なぜなら、そのテーゼがわれわれ自身の理論上の、政治経験トの未執さに加えて、 ーケ月間という短期の間で準備されたものであり、分析対象の外におかれた課題や規定における不徹底性、国際的な論争の課題で未解決の問題も含まれているからである。この様な理論と思想に対する謙虚で真剣な態度こそか不断に同盟の理論的・思想的統一を強化し、同盟の真の組織的・政治力量を深部において規定する。
第十二回全国大会の第二の意義は、右に提起した成果を基礎にして中央委員か新たに創設され、規約十も民主集中陛の組織原則を獲得し、政治同盟としての組織的機能の強化を獲ちとったことである。それは全国機関紙・誌の質的・量的強化によってもその後の国際活動も含む政治活動の大衆的展開によっても証明されている。この大会を契機に同盟力量も全体としては強化される方向を着実に前進し始めた。
 第三の意義、それは、同盟10年の歴史の中でも、とりわけ重要な意味を第12回全国大会に付与している。それは初代全国委員長を始めとして、現在ずでに職場の労働者として、或いは、労働組合の専従活動家として、現代イデオロギー・修正主義の思想と対決し、マルクス主義の原則的思想を擁護・発展させながら理論活動の分野で、民学同の掲げる原則的な理論と思想・組織活動の経験を生きた指針として活動されている同盟諸先輩からの青年同盟結成の呼びかけであった。だがこの呼びかけは労働青年をはじめ同盟OBから突然行なわれた性格のものではなかったことを併せて確認しておかなければならない。それはプロ学同=共労党派との分裂の教訓から当初提起され、大学闘争の嵐のような高揚とその敗北ー「掌生共闘」派との分裂によって開始された統一会議の三年間(七〇年三月ー七三年三月)を通じて民学同自身によっても真剣な現実的課題として提起された。
10年前には解決できなかった課題を解決しうる時が到来したのである。

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 第12回大会テーゼは、すでに、青年同盟間題に、学生自身の任務として結論を由す必要を提起している。 「諸外国の青年・学生組織の形態は必ずしも一様ではないが、学生と青年労働者がその指導上の組織的一体化を基本的原則としている点では無条件に一致してしる。われわれは、日本青年ー学生運動の現状とわれわれの現実的力量を正しく考慮して学生同盟のもつ歴史的限界を克服する原則的組織形態を考慮しなければならない。一 (新時代創刊号・53ページ)
 こうして、それまでの民学同の10年にかち取られて来た同盟活動の歴史的成果として、青年同盟結成が提起され、それは当然ながら多くの人々の支持と共感・強い関心を呼びおこしていった。 (この数年間には、日本共産党(代々木派)の第12回大会があり、民主青年同盟内部で“新日和見主義”の反抗があったことも併せて考慮する必要がある。)
常に、アブクの様に生まれては消えていく他の政治的潮流が多かったことに比べて民学同は、はなはだしい思想的・組織的混乱の中で原則を守り、深く大衆の中に依拠しながら成長してきた現実は、日本の民主主義的・社会主義的変革に関心を寄せ、活動を続けてきた多くの民主団体・政治組織の支持をかちとった。彼らから第12回全国大会に寄せられた支持と期待は、まさにその証左である。
 民学同は、創建された中央委員会の旗の下に団結し新たな歩みを開始した。民青「全学連」の身の回り要求主義と度し難い議会主義的改良主義への転落の中で新たな政府・独占による大学攻撃・筑波法案反対闘争に全国大学の先頭を切って同盟の指導する阪大・市大・阪学大・関大・東理大・東洋大などの自治会その他の団体が決起し、唯一学生大会でストライキ闘争の成功を獲ち取り、六月二三日首都に一五〇〇名の大衆的デモンストレーションを実現した。これを端初として、原水禁世界大会への大衆的結集ーモスクワ平和勢力世界大会代表派遣、戦後最大の危機に直面する日本帝国主義による人民大衆へのインフレとデフレ攻勢に対抗する学費値上げ阻止・学費凍結・奨学金制度の民主的改革のための闘争、狭山公判闘争への数派の決起など斗いのめさましい前進を獲ち取って来た。 
また新たに、 「学生共闘」派の指導を拒否して、天理大学と続いて桃山学院の同志が多大なる自己犠牲を顧りみず、正しい路線を守る為に民学同の真紅の旗の下に結集したことは、 「学生共闘」指導部のセクト主義と親民青的路線の実践的破産を深く刻印している。
 これらの闘争は、青年同盟の結成を準備していた同盟OB・労働青年との兄弟的な協力と連帯の活動の下に推進された。中でも日共(代々木派)、民青による選挙目当ての露骨な反ソ・反社会主義の民族主義をその思想とするところの、自己の国際的孤立を日本平和運動の対外的な窓ロを独占することにより、隠ペイしようという悪質な政治的意図をもって行なわれた核政策の「転換」、原水禁運動の無原則な組織統一策動、モスクワ平和勢力世界大会の窓ロのセクト的独占・私物化の謀略との斗争は、同盟OB・労働青年との密接な協力連帯の活動に支えられて強化され、多大の成果を収めた。
 同盟創立一O周年記念集会(九・一五、大阪)首都・大阪のモスクワ報告集会の開催もまたその良き一例である。
 平和運動における国際連帯の精神的擁護の立場は、六五年のヘルシンキ世界平和大会への参加にも見られた同盟の一貫した伝統の所産でもある。我々はモスクワ平和勢力世界大会の成果の歪曲と断乎として斗い、この大会で克ちとられた成果を幅広く、日本の人民に広めていく任務を達成していく決意である。
 民主主義学生同盟の国際主義的立場は、 一貫して不変である。

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 民主主義学生同盟は、10年という歴史の試練に耐えて成長し、その組織活動の成果として、既に大量の卒業生を労働運動を中心とする民主主義斗争の諸分野に送り出している。
 既に経営・あるいは産業別にそのような同盟卒業生の組織する研究会や政治的サークルが民主的に選出された。この政治的中心から指導される政治同盟への発展を可能にするような、またそれを要求するような一定の組織力量の蓄積を達成しているという段階を迎えている。この要求は、労働青年の間で数年来、現実的な要求となってきた。また民学同同盟員にとっても卒業した後の、学生時代とば異なる政治的・社会的条件の下で新たに活動を開始するに当たり、豊かな政治経験を生かした系統的な規律と責任の自覚に基づく組織的指導の存在は、我が同盟を勇気づけ、現在及び招来の活動をさらに確信あるものにするだろうという点で量り知れない期待を生み出して来た。
 だが青年同盟結成を意義づけるこの側面は現実的な要請であり、重要な構成要素であるが、それだけが、青年同盟桔成の主カる契機であると断言すれば、それは事柄の一面的評価となるであろう。
 事柄の他の側面、それは現情勢の発展が国家独占資本主義の危機の下で社会主義の実現を目ざす反独占民主主義を斗いとる政治的変革を要求するような階級斗争の発展、その下で日本においては、そのような客観的要請に応えるのではなく、前衛党を名のる勢力とその指導の下にある青年の政治同盟が正真正銘の第ニインターナショナル的日和見主義の潮流に転落したという深刻な事態の存在にこそ求められなければならない。
 我々は、マルクス・レーニン主義の諸原則を断固として擁護し、戦斗的な民主的労働青年・学生を組織することを通じて、真の前衛党の再建と労働者階級の統一の実現に協力し貢献するという政治的・組織的任務が客観的で現実的な要請となっているのである。当面している情勢の発展そのものが民学同が一O年前に出発した時よりもはるかに困難な課題を我々に課していることは疑う余地がない。だが問題は任務の困難性にあるのではない。いかなる原則的かつ現実的な道を通ってそれを解決するかである。 「任務の困難なことが問題なのではなく、任務の解決をどの道に求め、とうやって解決を達成しようとするかが問題なのだ、ということを忘れてはならない。革命の展開力を強力不敗なものにすることが容易であるか困難であるかが問題なのではなくて、この展開力を強めるためにどう行動すべきかが問題なのであるし意見の不一致は、ほかならぬ活動の基本的性格に活動の方向そのものに関係している。我々がこのことを強調するのは、不注意で不誠実な人がこの二つの違った問題ー道の方向の問題、ずなわち二つの違った道のーつを選ぶ問題と、ある決まった道を通って目的を実現することが容易であるかどうか、あるいはその実現がま近いかどうか、という問題とーを混同する場合があまりにも多いからであるに (レーニン 「民主主義革命における二つの戦術」)
 問題は現在の情勢と日本の労働者階級が、なかんずくその先進的部分が何を提起しなければならないのか、そのような任務に対して現存する政治指導部がどのように行動しているのか、それは誤まっていないのか、その誤まりは部分的で許容しうるものなのかどうか、その誤まりは、彼らの内部的力によって克服可能か我々は何をなすべきか、等々、とたてなけらばならない。

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 我々は今や日本共産党(代々木派)=民主青年同盟の真剣な評価を迫られている。
 日本共産党(代々木派)は、その思想と政策において、もはや労働者階級の党としての基本性格を失ない、労働者階級の利害を代表しえなくなっている。民主青年同盟は、宮本指導部に組織的に支配され、その評価は、日共(代々木派) に基本的に一致する。我々は 彼らの第11回・第12回大会、及び民主連合政府綱領について原則的立場からの評価を行なう必要がある。これらの文章から容易に判断されることは、日本共産党(代々木派)のプロレタリアートの指導性を放棄し、小ブルジョア的・議会主義的改良主義を一層強化しただけでなく、「経営と営業を守る日本共産党」というスローガンの採用に典型的に見られるように、没落しつつある小所有の“経営”と”営業”と“財産”を無条件に擁護する正真正銘の小ブル的立場に転落しているということである。彼らの提起する“民主連合政府”綱領は変革のヘゲモニーと、変革の内容に於いてブロレタリアートの独自性・指導性と社会主義的変革の展望をあいまいにし、欠如させているという点に於いて、とりわけ ブルジョアジーに対する労働者統制と、銀行金融機関の国有化の提起を回避している点について、プロレタリアートの利害を代表していない。国家独占資本主義が社会主義の物質的条件を完備している現段階においては、社会主義を目指さないでは、社会主義へ前進するを恐れては、 一切の民主主義的変革は、内容のともなわないニセもの、大言荘語とならざるをえず、したがって、それはたとえ実現されたとしても長続きしない不安定なものにとどまるのである。
 日本共産党(代々木派)のこれらの諸文書は、彼らの国際主義の放棄と、社会主義世界体制への段階を明確にうち出している。彼らは、平和共存のスローガンを「米帝美化論」であると批難し、 「ソ連邦を超大国主義」というレッテルで中傷し、社会主義ソ連の着実に果たしている大きな役割とその権威を破壊し、独占資本主義の反ソ・反社会主義の宣伝に唱和している。そのスローガン 「自主独立」はプロレタリァ国際主義=前衛党に無条件に要求される原則的立場の放棄を隠ペイし正当化する“イチジクの葉”にすぎない。
彼らの民族主義の党への転落は、「北方領土」返還要求に見られる自民党顔負けの主張と行動、日本プロレタリアートの任務を第一義的に「米帝からの独立」におくところの小ブルジョァ民族主義と日本帝国主義美化論、マルクス主義国家論の原則の修正に典型的にあらわれている。このような彼らの主張は、日本帝国主義がアメリカ帝国主義への依存と従属からの自立と独自核武装・独自的経済進出の志向をかってなく増大させている現在、それを容認し、裏口から支持し、客観的にそれに手を貸すところの明らかな日本帝国主義擁護論である。
 彼らの第12回大会における“規約第一条”改正ー党員義務としての党決定の積極的実践の削除はー日本共産党(代々木派)の第ニインターナショナル的党組織・議員政党への転落を決定的なものとした。又同時に、このことは、彼らがブルジョア議会主義的政治とのゆ着関係の自主的再生の能力を持たない党に転落したことを意味している。

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 前衛の不在と、それにとってかわる部隊の弱体という条件の下ではあるが、反資本主義的・反独占民主主義的な政治意識、戦闘的で活動力に富んだ意識と組織が前進していること、労働組合主義の枠をぬけ出る条件と展望が成熟しつつあること、従って、今日の情勢は、社会主義をめざす反独占民主主義の思想的政策の側に、その最もすぐれた担い手を復活しうるし、しなければならない任務を提起している。
 結成される青年同盟は、民学同と兄弟的関係で結ばれ協力し合いながら、同時に、二つの組織的任務を達成していくであろう、それは、労働運動の中で強固な部隊を建設し、マルクス・レーニン主義の革命的理論と原則の擁護・発展を通じて前衛政党の再建に可能な限り貢献するであろうこと、そしてその過程で青年同盟を本来の意味での大衆的政治同盟ーその中核は労働青年ーへの成長をかち取ることであろう。

出展:「新時代」誌 第6号 1975年10月 

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