民学同文書 No.13
学生戦線分裂の不幸な歴史と民青「全学連」
—-一九六〇~六四まで—–
大阪市立大学統一会議(発行年不詳)
以下、資料Ⅰ、Ⅱとして掲載する文書は日本共産党(代々木派)、民青の諸君による学生運動の歴史的事実の歪曲を暴露、反駁するとともに、彼らが今尚、全国百八〇万学友の統一と団結の要=ナショナル・センターとなれない歴史的誤謬を明らかにしている。
資料Ⅰは、大阪市立大学統一会議、資料Ⅱは、民学同阪大支部委員会(文責・三田**)によるものである。民青諸君が「全学連」を踏み絵として、新たな分裂固定化の誤りを犯そうとしているとき、歴史の教える真実と教訓を明らかにすることは意義深い。全ての民主的学友が、良青諸君を歴史的犯罪から救出し、学生運動統一へ大きく前進するために、一層原則的立場を明確にして奪闘されることを期待する。
民主主義学生同盟中央委員会新時代編集局
(新時代 第3号 1973年7月3日発行)
(資料1)
学生戦線分裂の不幸な歴史と民青「全学連」
—–一九六〇~六四まで—-
Ⅰ、は じ め に
Ⅱ、分裂の開始と全学連の崩壊
一九六〇/四~六二/八
全学連主流派による組織民主主義の破壊/全自連の結成/全学
連の崩壊/全学連反主流による統一の試みの流産
Ⅲ、大管法闘争と大管法全自代
一九六二/三~六ニ/一二
大管法闘争の開始/大管法全自代と社学同派によるその破壊/
マル学岡「全学連」の分裂と平民学連/大管法闘争の終結
Ⅳ、平民学連の分裂活動と関西学生運動
一九六三~一九六四/八
関西学生連動の昂揚/関西学連再建の社学同派による破壊/平
民学連の伸長と分裂活動/新たな胎動
Ⅴ、民青系「全学連」 の結成
一九六四/七~一二
平民学連による「全学連再建」方針/行動の統一のための聞い
/一〇月全自代と「全学連」再建大会/第二大阪府学連
Ⅵ、ベトナム=日韓闘争と民青系「全学連」大阪大会
一九六四/四~一二
ベトナム闘争/組織統一のための闘いと大阪大会/民青派によ
る統一の決定的破壊/日韓闘争
Ⅰ、は じ め に
安保闘争以後の日本の学生運動の未曽有の分裂は、あまりにも悲劇的な結果をもたらした。単一の全国闘争の不在、全学連の崩壊、ほとんどの地方学連の解体、単位自治会の大衆的基礎の空洞化、大衆の運動からの離反と政治的無関心の進行、諸政治潮流間のセクト的抗争と暴力事件、少なからぬ学園での右翼の進出と大学当局による学生自治会活動の禁圧等々、これらがあの分裂のもたらした悲惨な現実であった。国際的政治危機と国内政治反動の激化〝大学の危機″の全般的な進行という情勢は、一昨年以来、日本学生運動を分裂から統一へ、低滞から高揚へと導く客観的条件を大きく成熟させている。しかし、この統一と昂揚への客観的条件と大衆の志向が存在し日増しに強くなっているにもかかわらず日本学生連動は今なお深刻な分裂のうちにあるという苦々しい現実を我々は冷静に見つめなければならない。一方においては、全学進支持会議(民青派)諸君の「分裂主義者粉砕<全学連>復帰」のセクト的方針が、他方においてはトロツキスト諸派(旧主流派など)の三派「全学連」統一行動というファナティックな叫びが、学友の統一への真剣な志向を愚弄するかのごとく横行している。学生運動は、今、まさに大きな曲り角にきている。激化する支配層の攻撃を前にして一層深刻な分裂の固定化への道をたどるか、それとも一切のセクト主義を打ち砕き真の学生戦線統一と歴史的転換を切り開いていくか—-その選択は一般学友の手にかかっているのだ。われわれ統一会議は、一切のセクト主義に反対し、学生戦線の真の統一という困難ではあるが歴史的な意義をもつ事業のために学友諸君と共に闘っていきたいと思う。そして、そのためにもわれわれは、安保以後の日本の学生運動の悲劇的な分裂の歴史をふりかえり、その貴重な教訓をもう一度、確認しなければならない。なぜなら、今日の分裂は、統一の初歩的原則と分裂の教訓とが忘れられ、踏みにじられていることに大きく帰因するからである。
Ⅱ、分裂の開始と全学連の崩壊
一九六〇/四~六二/八
全学連主流派による組織民主主義の破壊/全自連の結成/全学連の崩壊
/全学連反主流による統一の試みの流産
全学連分裂への第一歩は、安保闘争が歴史的昂揚へと向いつつあったとき踏み出された。一九六〇年二月の全学連二二回中央委員会で、当時全学連多数派であった共産同派(現在崩壊、一部は社学同=「主流派会議」として残存)が、安保闘争に関する意見の相違を理由に、革共同派(現在崩壊)中執八名を、多数の中央委員の反対を押しきって罷免し、自派による中執の独占を強行した。続く三月の全学連臨時一五回大会において分裂は決定的なものとなった。このとき、中執派(共産同派)代議員一八一名(全学新の調査)で定足数二五九名に満たず、反主流派と革共同系を合わせて二三四名の代議員であった。かかる事態の下で、共産同派は反主流派の東京教育大学代議員を加盟費未納を理由に権利停止処分にしたのである。(これは全学連規約一五条第二項に違反するばかりでなく、同じく未納の東大、京大は入場していた。)
この暴挙に抗議した前記二三四名の代議員が入場を拒否した際、唐牛委員長は、処分撤回を約束していたが、次の瞬間に、林道義大会運営委員長は二六一名で大会は成立したと発表して入口をピケ隊で固め、他派代議員の入場を暴力的に拒否したのである。組織内民主主義の暴力的破壊と、意見の異なる部分の組織的排除-これこそ全学連分裂の第一のそして決定的な原因であり、その歴史的責任は共産同(主流派)にある。この最も悪しき「分裂主義」は後に述べる如く、マル学同派、平民学連「全学連」 (民青派)によってくりかえされ、学生運動の分裂を拡大再生産していったのである。
一五回大会流会後、安保闘争が最後の頂点へとのぼりつめていく中で、分裂は一層深刻な形をとっていった。全学連機関より排除された東京都の反主流派自治会は、四月二六日中核派が安保共闘統一行動とは別個な行動を組織したのに対して、東京都学生自治会連絡会議を結成して安保共闘に結集した。ここに行動の分裂が発生し、あの歴史的安保闘争のさなかも首都学生運動は、二つの隊列に分断されて闘わざるを得かなった。このようにして切れ開かれた分裂への道は、更に六〇年七月第一六回全学連大会での反主流派の排除—-反主流派自治会による全学連正常化を目的とする全国学生自治会連絡会議(全自連)の結成として進行した。<注1>
安保闘争終結と共に、共産同派の街頭ラディカリズム極左冒険主義、統一戦線からの離反という政治路線の破綻は、共産同内の激烈な分派抗争として爆発した。(プロ通派、戦旗派、東大派など)、「あの時、国会を暴力的に占拠すれば革命が起ったかどうか」などという安保闘争総括をめぐって行なわれた内部抗争、運動の低滞という背景の中で全学連の機能を全くマヒさせてしまった。共産同の不毛の内部抗争と全学連指導の放棄、分裂の一層の拡大(六〇年一〇月の浅沼刺殺抗議の闘争で、東京で同じ日に三つの学生デモが行なわれた)の中で反主流派=全自連は、その政策の優位性のゆえに学生大衆の支持を獲得し、大衆闘争の実質的担い手と統一の母体へと成長していった。(六一年新潟闘争、国立大学学部次長制反対闘争、政暴法闘争など)一方、共産同内部抗争に介入した「反帝反スターリニズムの学生運動」をかかげる革共同全国委員会派=マル学同は、共産同内部の多数を獲得し、ついに「全学連中執」のヘゲモニーは、六一年四月二七日中央委員会において完全にマル学同派に移行した。
このような背景の下に、六一年七月、マル学同派は「第一七回全学連大会」を招請し、反主流派自治会(代議員総数五一〇名中、二七六名代議員で過半数) に「①反帝反スタの学生運動の承認、②全自連の解散と分裂活動の自己批判、③加盟費の上納」を大会参加条件としてつきつけ、大会第一日目と第二日目の両日、大会会場前に集り話し合いを要求していた反主流派代議員を官憲とヘルメットと棍棒で武装したマル学同派「行動派」の厚い壁で入場を阻止したのである。更に反主流排除では一致していた社学同(共産同)派もまた、青腕章と赤腕章に分かれて乱闘、結局、マル学同派の翼賛大会になったのであった。このとき、唐牛「委員長」は反主流派代表に「政治的見解を同じくするものでなければ全学連の組織統一はありえない」と公然と語ったのである。
このように官憲とマル学同行動隊のヘルメットによって「守られた」「全学連大会」は全学連が名実共に崩壊したことを示したのである。そしてこの全学連崩壊という現実に対して、真の学生戦線統一と全学連再建の重大な任務は反主流派=全自連の双肩にかかっていたのであった。
全自連は「一七回大会」後、全学連再建協議会(再建協)を組織し、実質的に全自連を解散した。(われわれはこの「再建協」結成が時期尚早であったこと、充分な全国的討議と条件の成熟を無視したこと、それ故に不要な混乱をもたらし、その後の反主流派解体をはやめたと考えているが、この点はここでは詳しく述べない。)
しかし、当時の日本共産党八回大会(六一年八月)をめぐる党内の分裂(共産党多数による少数派の排除)が反主流派内に波及し、さしもの強力を誇っていた反主流派も急速に分解していったのである。このように、共産同派の組織内民主主義の破壊とマル学同派による赤色自治会主義によって崩壊せしめられた全学連を再建し、学生戦線統一を実現する為の反主流派の試みは流産したのである。政党や政治組織の、綱領的な意見の相違を大衆団体と大衆運動にもち込み、それによって大衆運動を分裂させてはならない–反主流派による統一の試みの失放からみちびきださなければならない教訓である。
これ以降、学生戦線は学生運動戦国時代とも呼ぶべき四分五裂の状態に陥いっていったのである。
<注1> 全自連結成に反主流派内で反対したのは、われわれ
の先輩たる大阪府学連の部隊だけであった。共産同派による
組織内民主主義の破壊に対して、真の統一を体現する部分は
行動の統一を保持して、下からの大衆的力でこれを克服する
努力を最後まで追及せねばならないこと、統一の可能性がい
まだくみつくされていないとき、自らの側から分裂を固定化
させるような行動をとってはならないし、まして全学連に対
立するような組織をつくってはならない。これがわれわれの
主張であったし、それゆえに、同じ政策的立場にたちながら
全自連には加盟しなかったのである。その後、全自連は統一
の団体に転化していったが、しかしこの結成における誤謬が
全自連崩壊の遠因となったことはまちがいない。そして、こ
の全自連の誤りは、その後民青派による平民学連によってう
けつがれ、醜悪なまでに拡大再生産されるのである。まこと
に〝歴史はくりかえす″一度は悲劇として、二度目は茶番劇
として。
Ⅲ、大管法闘争と大管法全自代
一九六二/三~六ニ/一二
大管法闘争の開始/大管法全自代と社学同派によるその破壊/
マル学同「全学連」の分裂と平民学連/大管法闘争の終結
一九六二年五月池田内閣は、全学連崩壊と学生戦線分裂につけ込み、大学管理制度改悪法案を発表した。大学の全面国家統制と民主的教育の圧殺を意図するこの大管法に対して、学生は分裂の重圧をはねのけて起ち上った。闘いは安保以降も統一を保持し大衆運動を維持してきた関西三府県学連を中核として開始された。六・二一阪大Cストを中核とする、大阪府学連二七〇〇、京都府学連三〇〇〇、兵庫県学連一五〇〇が決起し、六・二九には市大、阪大、学大のストを中核に大阪府学連二六〇〇が再び起ち上った。
この関西を中核とする先駆的闘争をうけ、秋以降の大管法粉砕の決定的闘いにそなえるため、六二年七月、大阪、京都、兵庫の三府県学連の提議で全国自治会代表者会議(大管法全自代)が開催された。この全自代は、マル学同による「全学連中執」占拠後はじめての全国的な実質をもった自治会代表者会議であった。(全学連代議員の三分の二近くにあたる自治会の代表が集まった。)
そして、学生の死活にかかわる大管法を粉砕するために、大阪府学連、兵庫県学連をはじめとするわれわれは、この全自代において、大管法粉砕という課題で一致した全国共闘会議を結成し、それによって学生戦線統一へ、決定的に踏み出すという方針を実現せんとしたのである。しかし、京都府学連を中心とする社学同派は、時を同じくして行なわれていたマル学同派の自称「全学連一九回大会」に乗り込み、暴力的にでも全学連を奪還する、という方針(?)を対置し、会議三日目運営委員校会議に於てこの方針が孤立するとわかるや否や、会場舞台裏にあらかじめ用意していたヘルメットと棍棒で武装した行動隊約六〇名を会場に導入し、この貴重な全自代を暴力的に破壊してしまったのである。<注2>
この全自代の崩壊を最大の口実としつつ、民青派は自派のみのセクト的組織「平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」を結成した。日本学生運動は、秋以降の歴史的な大管法闘争に、分裂したまま突入せざるをえなかった。全国的統一指導部なきまま諸政治潮流の調整で全国闘争をくまざるをえなかった日本学生運動は、しかし、学友の大管法粉砕の強固な意志に支えられて一〇・三一(関西) 十一・一(東京)一一・三〇という大衆的な闘いを展開し、ついに大管法を流産に、追い込んだのである。この過程で我々が注目しなければならない二つのことがある。第一は、七月に結成された平民学連(民青派)が大管法闘争における行動の統一を徹底的に拒否し、たとえば「分裂主義者の一一・三〇全国ストを粉砕しょう。」(平民学連通信)というおどろくべき統一行動の破壊を行なったことである。大衆運動の利益を一党派(民青)の利益に従属させ、意見のことなる部分と行動の統一を拒否し、運動を分裂させるという民青派の「統一方針」は今日にいたるまで執ように「堅持」されているのである。
第二は、「反帝反スタの学生運動」を唱え、大管法をまったくネグレクトし、「米ソ核実験反対」のみをファナティックに叫んでいたマル学同「全学連」は、大管法闘争の昂揚と彼らの孤立化の中で大きく分解していったことである。一一・三〇の東京銀杏並木大集会(各派連合)に参加すべきか否かをめぐって、マル学同「全学連」はまっ二つに分裂し(革マル派と中核派)、中核派は大管法闘争に合流したのである。この事実は、いかにセクト主義的な一枚岩とみえる組織であろうとも、大衆闘争の論理はその内部に何らかの形でセクト主義をのりこえようとする部分を生みだすことを示している。そしてこのことは今日、民青派「全学連」が露骨な分裂主義とセクト主義によって、学生戦線統一の最大の妨害者となっていることに対して、われわれがいかなる原則的態度をとるべきかに貴重な経験を与えている。
大管法闘争は、大管法流産という勝利をかちえて終結したが、しかし闘いの中でかちとられた行動の統一は強固な組織的統一として結実することなく、運動の終結とともに学生戦線は再び深刻な分断状態におちいったのである。七月全自代において社学同派が恥ずべき暴力的破壊によって大管法闘争を通じての戦線統一という、あまりにも貴重な可能性を破壊したということの犯罪性は、何度糾弾されてもされつくすことはないであろう。
意見の相違があろうとも、行動の統一を実現し強化していくこと、これのみが組織的統一の基礎であること、そして行動の統一の中で真に統一を守る部隊を強化していくことなしには、其の組織的統一は実現できないことも大管法闘争はこのことをわれわれにおしえている。
<注2> 市大で主流派会議と名乗っている関西社学同はこの
大管法全自代をどのように「総括」しているだろうか。「・・・
・・この過程で、暴力が必要とされたのは、周知の事実であ
る。暴力自体が体制内組織を結合する要素であることは、誰
しもが認めている事実であるが、だから問題は、暴力そのも
のよりも、その用い方如何が一切を決定する。決定的な時点
で決定的な方針を貫徹するのは、自己の生命をかけた力の論
理である。」(関西社学同「分派闘争の新たな段階」)とわれ
われの任務この居直りに、我々は何といったらいいのであろ
うか。だが、怒りをこめて次のように叫ばなければならな
い。このような思想が、このような暴力の論理が学生運動を
分裂と破壊に導いたのである。
Ⅳ、平民学連の分裂活動と関西学生運動
一九六三~一九六四/八
関西学生連動の昂揚/関西学連再建の社学同派による破壊/平
民学連の伸長と分裂活動/新たな胎動
大管法闘争以後の学生運動は、末曽有の分裂と低迷によって特徴づけられると共に、その中で関西学生運動を核として大衆闘争の火を守りつづけ、再建と統一に向けての努力が営々として行なわれてきたのである。
全国的な運動の沈滞の中で、大阪府学連を中心とした関西三府県学連を中心とした関西三府県学連は大衆運動を展開し、全学連の光栄ある伝統の火をうけついたのである。六三年六・一五の神戸での原子力潜水艦寄港に反対する、関西四、000名のデモンストレーションをはじめ、六四年六月一九日、阪大、立命の各一五〇〇を中核とし、大阪府学連二、七〇〇、京都一、三〇〇等六〇〇〇近い学友を結集した原潜阻止神戸集会、これらは低迷する全国学生運動の中で苦闘し続けてきた関西学生運動の巨大な里程標としてそびえたっている。この関西での闘いは戦線統一の組織方針として、関西学連再建の努力として集約されていった。全学連の解体と全国闘争の不在、なかんずく東京都学生運動の壊滅的状態という現状の中で、全学連再建への現実的一歩を踏みだすためには強固な指導部をもつ関西学連と連帯し、全学連の械能を一定程度代行すること、それによって戦線統一のためゆるぎない砦をつくることが必要であった。関西学連再建のための努力は全学連崩壊とともに始められ、そして六四年春の関西での憲法闘争の昂揚の中で、関西自治代において七月関西学連再建が決定され、六・一九京都集会六、000の学生のシュプレヒコールによって確認されるに至ったのである。(この時関西学連結成に反対したのは市大の社学同派だけ)
しかし六・一九闘争が終るやいな京都府学連など社学同派は、さきの合意をふみにじり、関西学連再建を徹底的にネグレクトし、これを挫折させてしまった。社学同派はまたしても戦線統一の貴重な可能性をふみにじってしまったのである。
関西学生運動は、関西学連再建を通じて戦線統一の貴重な可能性をふみにじってしまったのである。
関西学生運動は、関西学連再建を通じて戦線統一への巨大な一歩をふみだすことはできなかったが、しかしこの期間、大衆的運動によって日本学生運動の戦闘的伝統を守りぬせ新たな胎動を代表しえたのであった。
六二年七月に結成された平民学連は、民青-共産党という全国組織をフル回転し、徹底した右翼的大衆追随主義によって、地方を中心としてその勢力を伸長させていき、統一の最大の妨害者はトロツキスト派から平民学連へと移っていたのである。平民学連は、表面ではだれでも、どこからでも参加できると言いながら、事実上は民青の見解を認めるもの以外はすべて組織的に排除するというセクト的組織であった。(六三年の平民学連の三月と七月集会には、大阪を中心とした自治会代表および個人を政治的見解の相違を理由に排除し、会場前でビラを配布することさえ暴力的に妨害した。)平民学連は、自治会でもサークルでも、個人でも参加させるという組織であったが、これは、まったく性格のことなる部分を一つの組織に集めているが故に、どのような指導部の方針をも決定することができないにもかかわらず、実際はそれが決められているという驚くべき組織であった。即ち政党による組織的引きまわしが組織的に保障されていたのであった。彼らの論理はこうである。①まず自らと見解の異なる部分を「分裂主義者」とのレッテルを貼る。②次に「分裂主義者」との行動の統一は敵との統一であり、絶対に行なわない。③「分裂主義者」を打倒することなしには統一と運動の発展はありえない。④従って「分裂主義者」を切りはなし、打倒するためには別個の運動・組織を対置しなけれはならない。
平民学連はこのボイコット=分裂戦術を全面的に展開し(大阪府学連に於ては六二年秋以降)、そしてその基礎の上に六三年七月に「全学連再建」を行うとの方針をうちだした。しかし、我々を中心とする真の統一をのぞむ部隊と平民学連内部の批判派の合流をおそれた彼らは、突然方針転換を行い、七月に「平和と民主主義を守る学生自治会連絡会議」 (平民学連) への改組を行い、一段とそのセクト性を強めた。
当時の平民学連派内において唯一ボイコット=分裂戦術を拒否していた部分が存在していた。それは京都を中心とする京都統一派(民青)であった。彼らは、京大、同大自治会–京都府学連指導部を掌握している社学同派に対して、自治会と府学連の下に行動の統一守りながら、それを通じて社学同派の誤った方針を克服してゆくという原則的に正しい立場を堅持してきたのである。(京都府学連の大衆的戦闘的運動が安保以降の日本学生運動の最先端に位置しえた理由の一つは、厖大な活動家を有する統一派=民青がボイコット分裂戦術をとらず、自治会の統一した運動を下から支えていたという点にある)しかし、六三年七月新自治会連合=平民学連結成以後平民学連=民青指導部はこの京都統一派の「統一戦術」をボイコット分裂戟術に転換させるため、あらんかぎりの圧迫と組織的シメツケを行い、遂に京都学生運動の分裂を強行したのである。<注3>
六三年九月以後、「二つの集会、二つのザモ」という目をおおうばかりの分裂の中で京都学生運動はかって保持していた大衆的性格を急速に喪失していたのある。
そして同年12月の同大暴力事件こそこの分裂のあまりの悲痛な帰結であった。
平民学連派によるボイコット=分裂戦術の採用によって開始された京都学生運動の分裂は、社学同派の極左冒険主義とセクト主義がからみ合う中で悪循環的に拡大再生産し、今日に至っている。伝統ある京都府学連の運動を事実上解体にみちびいた民青系のこの分裂路線は、現在においても全国大学で一層露骨に継続されているのだ。民青=全学連支持会議のこの分裂路線を大衆的に克服することなしには学生戦線の真の統一はありえないのである。
<注3> 日本共産党京都府委員会は六三年度六・一五関西学
生統一行動の参加を禁止したあと、八月二〇日、次のような
決定を行った。
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一九六三・八・二〇
京都における学生運動の再建統一のために
日本共産党京都府委員会
第一一回京都府委員会総会は、当面する学生運動の願争戦術
について次の方針を決定した。①京都平民共闘の統一行動、大
学教職組と学生の統一行動とに党の指導する学生運動は、京都
平民学連として参加しても、党の指導する学生は、京都平民学
連として学生の隊列を別に組織する。②京都府学連の統一行動
ほ、これが反共分裂の挑発行動であり、党はこれをボイコット
し、一切の集会とデモは粉砕し崩壊させる。
…………反共集団の指導する学生運動が大きければ大きい程、
それは民主勢力と学生大衆にとってますます有害である。彼ら
は自治会や府学連の「統一行動」 「大衆団体決定に従え」と善
意の大衆を拘束し、われわれを分裂主義者として攻撃を強めて
くるのであろうが、彼らこそ京都の学生戦線と民主勢力の団結
を破壊するスパイ挑発分子であり、断固として自治会執行部の
多数決に拘束されない。学生大衆の総意と全京都学生自治会及
び民主勢力の立場に立つという基本的姿勢で闘わなければなら
ない。
**********************************************************
この文書に〝ボイコット=分裂路線″の全内容は凝縮されてい
る。現在、市大自治会おいてもこのような路線が全学連支持会議
の諸君によって執ようにおしすすめられているのだ!! 真の分裂
主義者は一体誰のことであろうか。
Ⅴ、民青系「全学連」 の結成
一九六四/七~一二
平民学連による「全学連再建」方針/行動の統一のための聞い
/一〇月全自代と「全学連」再建大会/第二大阪府学連
平民学連は六四年七月「すべての自治会の参加のもとに全学連を再建する」という方針をうちだした。このことは、何よりも統一と全学連再建を望む学生大衆の声が関西を中心とした少なからぬ自治会と地方学連の真の統一のための努力の結果であり、露骨な「分裂主義」というレッテル貼りを部分的にでも修正したものであった。それゆえこれは、平民学連のこれまでのボイコット=分裂戦術については口をぬぐっているものであったとしても、その限りで正当に評価しうるものを含んでいること、「組織的統一が可能ならば、まず今行動の統一を行なう。その基礎の上た共同の努力で組織的統一(全学連再建)を達成しょう。」という形で平民学連派の形だけの積極性を実質的なものに転化させてゆかねばならなかった。
このような立場にたって、われわれは全国的な行動の統一の実現のための闘いをおしすすめ、一〇月二七、二八日平民学連自治会がよびけた全自代に、統一のための独自な提案をたずさえて参加した。
一〇月全自代は一四七自治会の正式参加をえたが、平民学連派指導部は、深刻な分裂の経験から教訓をひきだし、いかにして各地方及び全国的な行動の統一を回復していくのかを全く考慮せず、従来のボイコット=分裂戦術の延長線上に「一二月全学連再建」を提起した。これに対し阪大七学部自治会は共同提案を提出し、「(1)意見のちがいを当然の前提とした行動の統一の回復こそが分裂を克服しる方向である。(2)全自代に、この期間運動を防衛してきた数少ない地方である京都、兵庫、九州のほとんどの自治会が不参加であることは、平民学連のこれまでの分裂主義方針に対する批判を示しており、従って共同行動を回復し、それに基づいて再度全自代を開催すべきだ」と主張し、そのための具体的提案の一環として一〇・二九原潜阻止全国学生統一行動を統一して闘いぬく特別決議を提案した。この阪大提案に対し、前京都平民学協の議長であった京大経済自治会代表は、京都におけるポイコット=分裂戦術を痛切に自己批判し、何よりもまず行動の統一を回復することを訴えた。全自代に参加した平民学協自治会代表の中にもこれらの統一の呼びかけに動揺する部分があらわれたが、しかし、平民学連指導部は、一〇・二九闘争をどこが呼びかけたのか問題だとして強引に行動の統一を拒否し、また討議も再建の具体的方向ではなく、全学連再建の一般的抽象的必要性の強調におしとどめ、ついに多数で阪大提案を否決し去り、阪大、大阪工大、大阪学芸大、東京教育大、神大教育、京大経済など一四自治会の再度の統一を呼びかけた緊急提案をも否決し、平民学連派単独で、二一月全学連再建とそのための準備委員会選出を決定した。<注4>
一〇月全自代以後、広汎に存在していた平民学連に批判的な自治会をも含めてゆく努力は何らなされないままに、それもきわめて非民主的なやり方で準備され、一二月「全学連再建大会」を強行した。この大会のセクト性と不当性は次の事実に示されている。
(1)全ての自治会参加を口にしながら、大会前日の予備会議におい、阪大四学部、近大二学部、名城大二学部、宮崎大、東京教育大などの正式自治会代表、オブザーバーを意見の相違を理由として一方的に排除した。
(2)「再建大会」参加自治会は一二八で、一〇月全自代参加自治会を大きく下回り、また、大会成立基準も明らかにされなかった。この一二八自治会のうち、四〇の未加盟自治会を含んでいるため、六〇年当時の全学連加盟数二六四のわずか三分の二前後しか存在せず、従ってこの大会は明確な継承関係をもった正規の「全学連再建大会」としては全く認められない。
(3)東京、九州、中国地区のほとんどの大学の未参加の中で強行された。
(4)代議員の明確な資格審査もなく、大阪府大、東大経済、同志社大文、茨木大文理などの如く、デッチあげ、もしくはそれに近い代議員を含んで強行された。<注5>
(6)最後にきわめて重要なごとは、この「再建」が平民学連のボイコット=分裂戦術の継承の上になされていることである。これは、大会討論およびその決議「規約についての申合わせ事項」にも示されており、大阪、京都、九州等の地方の結集実現とその民主化ではなく、目標と課題の一致にもとづく行動の統一の努力を放棄し、〝分裂主義者〟〝修正主義者″という窓意的なきめつけの上に「分裂主義者が支配している地方自治会では、地方協議会、全学連支持会議を」という方針を確認したのである。だがこうした路線こそが、輝しい伝統をもつ日本学生運動を破壊した当のものではなかったか!!
とりわけ最後の点については、大阪における平民学連派による第二府学連のデッチあげの中に象徴的に示されている。
六四年一一月に行なわれた大阪府学連第二七回大会をボイコットした彼らは、二七回継続大会の成立を認めながら大会で選出された府学連執行委員会の不信任を主張し、民青系「全学連」が結成された後においては「大阪府学連は〝全学連に結集していない〟からもはや府学連ではなくなった。従って府学連を〝再建〟する」といって、六五年三月、春休み中、学友から隠れてコッソリと府学連「再建」大会を強行した。<注6> 府学連評議会満場一致の決定をもってこの分裂組織結成を糾弾し、平民学連派自治会への府学連への結集を呼びかけるため平民連派「大阪府自治代」(二月)に話し合いを要求しに行った府学連執行委員会と自治会代表に対して、民青=平民学連派は「俺たちは、やるときめたら必ずやるのだ」と言ってピケットと暴力でもって話し合いを拒否した。ここに安保以後、日本学生運動の戦闘的伝統を守り続けてきた大阪府学連は、分裂の最悪の形態=組織分裂にまでおとしいれらたのである。
<注4>
彼らの統一の叫びの真の意図がどこにあるのかを次の文書
が明確に教えてくれる。「『今年中に全国学生自治会総
連合を建しよう』という『よびかけ』を分裂主義者に私物化
されている自治会にも呼びかけたことを、分裂主義者との
『統一行動』として理解する一部の意見があるが、このよう
な理解は全く誤りであり彼らの影響下にある大衆への呼びか
けであり、分裂主義者を学生運動のなかから孤立させ、大衆
的に追放する一層有利な機会と条件をつくるものとしてとら
えねばならない」 (日本共産党京都府委員会通報より)
<注5>
多くの代議員が正式な自治会の機関で決定されたもので
ないということは、手続上のミスであったのでは決してない。
「例えば(イ)再建大会代議員、評議員を平民学連結集自治会は
必ず早く登録すること。今これが遅れている。選出をできる
だけ民主的にやろうということで選出が遅れているところが
多い。もちろん民主的にやることは大切だけれども、ほどほ
どにやることも大事だ。代議員、評議員が選出されなければ
元も子もない。」(平民学連書記局通信NO・三九より)
これは原文のままである。「全学連」支持会議の諸君が「き
わめて民主的に再建された全学連」とすまして語るとき、我
々は次のように叫ばざるをえない。「君たちがどのように語
ろうともそれは君達の自由だ。ただ『民主的』とか『全学
連』という偉大な言葉に泥を塗ることだけはやめてくれ!」
と。
<注6>
大阪府学連第二七回継続大会をめぐる経過については、さ
きに発行した資料集「全国全自治会を包含する単一全学連実
現のために」を参照。
Ⅵ、ベトナム=日韓闘争と民青系「全学連」大阪大会
一九六四/四~一二
ベトナム闘争/組織統一のための闘いと大阪大会/民青派によ
る統一の決定的破壊/日韓闘争
アメリカの北ベトナムへ爆撃によって質的に新たな段階にはいったベトナム戦争を中心とした国際的政治危機、高度成長の破綻と戦後最大の不況、佐藤内閣による帝国主義的上部構造構築のための国際政治反動の全面的帝国主義的対外膨張の本格的展開〝大学の全般的危機の進行″と各大学での学園闘争の激化、という65年春以降全面的に展開した情勢は、安保以後低迷のうちにあった日本学生運動の昂揚への胎動を規定した。65年4月以降のベトナム闘争は、学生戦線が分断状態にあるにも拘らず、一定の全国的昂揚をかちえ、大管法以後の大衆運動が全くといっていいほど沈滞していた地方の各大学においても運動が開始しはじめた。そして又、高成長期に蓄積された大学教育の矛盾が、不況期への突入とともに耐え難いまでに深刻化し、かかる矛盾の独占的「合理化」教育支配の攻撃、学生の経済生活の圧迫と破壊は、〝大学の危険なまがり角″と称せられる危機的拡張を作りだし、そしてそれに対峙し、対決する激烈で大衆的な学園闘争が展開されていったのである。
このような情勢の巨大な変化の中で、セクト主義の泥を全身にまとって誕生した民青系「全学連」は、大衆の統一への深刻な志向と大衆運動の鉄の論理によって、その指導部の旧態依然たる分烈主義にも拘らず、学生運動統一の組織的母体となりうる可能性を開示したのである。即ち、我々が民青系「全学連」の結成に際して評価したごとく、それが確かに民青派の私設「全学連」であるとしても、それが学生大衆の統一の志向の屈折された一定の反映であること、又、それが平民学連という私的組織から「全学連」という公的組織の形をとることによってある程度全学連規約の抱束を受けざるをえないこと、最後に「全学連」として何らかの形で全国的運動を行うことは、指導部のセクト主義、分裂主義をのりこえようとする部分を自らのうちに生みださざるをえないこと、ボイコット分裂戦術は全学連という形式と不可避的に衝突せざるをえないこときこのような民青系「全学連」がもつ矛盾がベトナム闘争と学園闘争の中で展開し、わずかではあるが戦線統一への可能性をつくりだしたのである。
我々は、この可能性に正しく対応し、五つの原則(①批判の自由と行動の統一、②「全学連」大阪大会へ、全ての自治会に無条件で門戸を開放する、③全学連規約の遵守、④関西三府県学連の組織的統一の回復、⑤単一都学連実現への努力)が受け入れられるなら、「全学連」に加盟し、真の学生戦線統一のために共同の努力を行う、という方針をうちだし、65年7月に開催される民青系「全学連」大阪(16回)大会に向けて統一のための活動を強ガにおし進めた。阪大、神戸大、立命館三自治会の緊急アピール、「全学連中執」への提案と話し合いという我々の組織的統一のための努力は、民青系「全学連」指導部による露骨なセクト主義、分裂主義によってふみにじられてしまった。彼らは真剣な統一のための話しあいを追求した我々に対し、「君たちは、ペテン師、サギ師、ペテン師だ」 「自治会決定は尊重するが抱束されない」「全学連が損をするようなものは入れない」等々の暴言を吐き、更には、事実の経過を大会参加者に知らせ、統一を呼びかける六自治会連名の文書を配布しようとした自治会正式オブザーバーを暴力をもって大会から排除したのである。余りにも貴重な戦線統一の可能性を破壊してしまったのであろうか! <注7>
巨大な歴史的意義をもつ日韓闘争に、学生戦線は分断状態のまま突入せざるを後なかった。そして、あの果敢に闘われた日韓闘争の中において、日本学生運動はついに統一への具体的糸口を見いだすことができず、今日に至っているのである。
7月大会において、自らの手によって分裂主義の環を閉じてしまった民青系「全学連」は、日韓闘争にあっても(その傘下自治会大衆の戦闘的エネルギーにも拘らず)唯一の全国組織として果すべき任務を犯罪的に放棄し学生戦線の一層の分断化を促進していった。10・29闘争における「統一戦線への結集」(!!)の美名に隠れた全国ゼネストの中止は、そのことを雄弁に立証した。唯一の実質的な全国的組織である民青系「全学連」は「自立的」全国闘争の展開の否定-府県学連単位における露骨な分裂活動と分裂組織-単位自治会における統一の破壊(「全学連支持会議」などの第二自治会的組織)という分裂主義の論理の貫徹によって、自らを巨大なセクト集団として固定化していったのである。
我々は次のことを結論せざるをえない。-現在民青系「全学連」は学生戦線の組織的統一の母体とはなりえない、と。
<注7>
民青系「全学連」大阪大会について詳しくは前記「資料
集」の資料を参照。
市大自治会中執も、この大会へ正式オブザトバーを派遣し
たが、これを民青派の諸君は暴力的に追い出したのであっ
た。この「実力行使」に市大の全学連支持会議の諸君が加わ
っていた。ことに何をかいわんや、である。