【本の紹介】現代科学をめぐる20の対話

【本の紹介】現代科学をめぐる20の対話

『デカルトなんかいらない?カオスから人工知能まで、現代科学をめぐる20の対話』
ギタ・ペシス・パステルナーク著 1993.7.29.発行、産業図書、3296円

この本の冒頭に、ドストエフスキーの「生きる思想は、それが破壊されるまさにその融点で維持できる思想だけである」という引用が掲げられている。果してマルクス主義は、あるいは社会主義思想は、過去の歴史的遺物としてではなく、「生きる」思想として維持されうるのであろうか。
ここに紹介する、フランスの科学ジャーナリストによる科学者20人へのインタビューは、その点で多くの示唆を与えてくれる刺激的な問題提起である。問題の出発点は、17世紀デカルト以来のヨーロッパ合理主義の伝統、方法論、その決定論的思考方法はもはや完全な壁にぶつかっているのではないかということである。ニュートン力学の確立は、その決定論的思考のピークに符合していたとも言えよう。しかしその後のアインシュタインの一般相対性理論の登場、ニールス・ボーアの量子力学、ハイゼンベルグの不確定性原理、等々が明らかにしたことは、これまでの伝統的で決定論的で可逆的な法則は、一定の条件付きの、限られた状況にしか通用できないものであることを明らかにしてきたと言えよう。

<ランダムなものによる形成の豊かさ>
ノーベル化学賞授賞者でブリュッセル自由大学教授のイリヤ・ブリゴジンは、「ランダムなもの(量子力学からマルコフ連鎖に至るまで)による形成の豊かさや利益を強調する人々のことを敵前逃亡よばわりすることはできないし、決定論の獲得だけが科学が唯一目指すものとすることもできない」と述べる。「古典科学が安定性や決定論を主張していたのに対して、今日では、いたるところで不安定や、ゆらぎや、分岐といった話題が見られます」、そして「この新しい考え方について同じようにとても面白いと思われるのは、そう考えることで自然の豊かさが理解できるようになるということなんです。自然は、黒体放射のような秩序のない系と、生物学的系がすべてそうであるような平衡からはずれた系からなっています。どうしてもこんな問いを立ててみたくなりますね。どんな必然性があって、物質がこれほどの豊かな構造をもって姿を現すことになるのかということです。これは素粒子や原子や分子の運動が規則的な軌道に制約されるわけではないという事実のせいです。宇宙が基本的に不安定な動力学系からできているということですね。このように宇宙を予測できず、複雑なものと見るのは、欠陥なのでしょうか。それとも人間の精神の勝利なのでしょうか」と問う。
そして、決定論の図式とランダムの図式を対置することは、そこから二つの対立する教条主義の可能性を導き出すものであって、それに対しこの科学の領域に目新しいものが存在するとすれば、これら二つの自然についての見方が、対立するよりも補完するようになるのだということを強調する。しかし同時に、現代科学で表される宇宙では、ランダムな面が演じる役割が段々大きくなっていることを明らかにする。

<「知の相対性」と「相補性原理」>
医学者であり生物学者であるアンリ・アトランは、「知の相対性」というものを重視し、科学技術によって引き起こされた倫理や社会の問題を取り上げ、「組織化する偶然」、「ノイズによる秩序」というテーマを提起している。彼によれば、「我々は不確定や予測不可能な状態」から抜け出すために、「我々の周りに環境を組織する」、しかしそれは歪んだ効果を持っている。なぜなら、「不確定や予測できない状態がないというのは、新しさや創造性というものを抑庄しているということですからね。そこでは、最初こそ秩序は自然のランダムさから我々を解放するにしても、自分で組み込んだ秩序によって我々は窒息してしまうという危険」を生み出してしまうわけである。
カリフォルニア大学の物理学者、フリツチョフ・カプラは、「現代物理の大きな発見の一つは、独立した物理的実態は存在しないということに気づいたということです。現実は相関関係の集まりというか、相互につながった事象の組織というか、観測する側と観測される側の接触する領域だ」ということを強調する。そしてニールス・ボーアはすでに波と粒子を「相補性原理」で統一し、今では「散逸構造」という新しい理論がイリヤ・プリゴジンによってもたらされ、「またシステム論は生命をあらゆるレベルで包括的に理解することを強調していて、対立物の統一でことを進めています。我々が今科学的思考の劇的な革命と呼べるものを観察しているのは単に物理学だけでのことではない。これはデカルトやニュートンの普遍主義的で機械論的な見方から、プリゴジンの全体論的でダイナミツタな見方への移行を表している」ことに注意を向ける。

<「純粋」というのは「貧弱」の同意語>
環境・遺伝学者であるアルベール・ジャカールは、「我々の集団としての豊かさは我々の多様性からできていて、個人であれ社会であれ、「他者」が自分と似ていなければそれだけ、我々にとっては貴重なのだ」という視点の重要性を明らかにする。そして、「人間や集団の間には、不平等はなく、ただ差異、つまり相補性がある」こと、したがって、「知能指数のような尺度や遺伝といった概念に依拠して社会的不平等を正当化するような試みは、科学の成果の不正利用」であるとして、科学的、哲学的、政治的レベルでの活発な論争に身を投じている。
その意味では、「純粋」というのは「貧弱」の同意語にしかすぎないわけである。さらに言えば、アインシュタインの言っていたように、「歩調を揃えて歩くのに脳は要らない。脊髄だけで十分」なんであって、「複雑さ」、「相互作用」というような概念こそが、人間にとって本質的であることを強調する。そして「我々の複雑な世界では、自分の能力を代議士だとか、学者だとか医者だとかに委ねてしまうという習慣が多すぎますね。そうではなくて、一人一人が自分で理解するようにして、一人一人にその手段を与えなければならないでしょう」と述べている。

<創造的精神と「新しい知」>
以上に紹介してきたことは、この本のごく一部の内容である。後半には、コンピュータによる人工知能の可能性について興味深い論争が展開されている。ランダムの創造性、科学における偶然の決定的役割、カオスと不確定性などと聞けば、拒否反応を示される向きもあるかもしれないが、「新しい知」は、こうしたことの積極的な位置づけの上に展開されている。一見、マルクス主義や社会主義理論とは無関係に見えるかもしれないが、私には決定的な重要性を持っているように思える。残念ながら公式的マルクス主義は、マルクス以降の人類の科学的成果や遺産を無視し、その本来持っている創造的精神と多様な発展を圧殺してきたのではないだろうか。自らを窒息させ、その発展を押しとどめてきた、いわば決定論的思考は、前衛党思想やメシア主義、ヘゲモニー主義、指導党思想などに如実に現れている。しかし、そこから抜け出て、克服するチャンスは幾度もあったのではないだろうか。ソ連史をとっただけでも、レーニンのネップへの移行論、1935年の反ファシズム組一戦線理論、フルシチョフのスターリン批判と社会主義への移行の多様性理論、そしてゴルバチョフのベレストロイカ、これらは創造的で新しい思考を目指すものであったが、すべて未完の内に押し潰されてしまった。いずれもある意味で「多様性」と「相補性」を目指すものであった。今、あらためて問われているのは、マルクスやレーニンの字義解釈や正統派継承論ではなく、現代の科学の発展に照応した多様性の積極的擁護と創造性ではないだろうか。その意味でここに紹介した対話集は、実に刺激的であると同時に、挑戦的でもある。 (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.191 1993年10月15日

カテゴリー: 思想, 書評, 生駒 敬 パーマリンク