【投稿】地球環境問題をめぐって
その2 「地球サミット」が問いかけるもの
<「地球環境破壊の責任は先進国にある」>
リオデジャネイロの地球サミット(環境と開発に関する国連会議)に合わせた政府広報紙「今週の日本」(6月8日号)は、「地球にやさしく」という見出しを大きく掲げて、その下に紙面一杯に焼畑農業の写真をこれみよがしに載せて、これが地球温暖化の一因であるとの解説をつけている。
人をあざむくこれほど厚顔無恥な態度はない。 地球温暖化の最大の原因となっている二酸化炭素(CO2)の排出については、実にその四分の三が先進工業国から吐き出されているのである。日本は、このCO2汚染寄与度がアメリカに次いで二位であり、しかも森林破壊についていえば、フィリピンから東南アジア諸国、ブラジルに至るまで、熱帯林を乱伐し、実にその50%以上を丸太として輸入してきたのは日本なのである。焼畑農業が森林破壊とCO2汚染に一定の役割を果たしていることは明らかであるが、日本の汚染寄与度とは比較にならない。ましてやいつのまにか環境先進国をきどり、日本の経験と技術を他国は学ぶべきだといった態度は、途上国側からすれば、資源を買い占め、地球環境破壊の先頭に立ち、公害を他国へ移転、輸出しながら、「環境」を商売道具とする新植民地主義的な傲慢さ以外のなにものでもないであろう。
リオの地球サミットには、日本からはしたたかに「環境族」ポーズをとる竹下派をはじめ、空前の163カ国が参加し、NGO組織もこれに合せて大挙結集、地球環境破壊の責任と義務を問う一大「南北サミット」の様相を呈した。激しい論議の末、そこで採択された「環境と開発に関するリオ宣言」は、「われわれの家」である地球益を守る27原則を明示し、その第七原則では、「各軋ま共通の、しかし、差異のある責任」を負うと同時に、しかし「地球環境破壊の責任は先進国にある」ことを明らかにし、先進副こ技術と財源の分野で「特別の義務」を課している。宣言はまた、「自国の資源を開発する権利が他国の環境に害を与えないようにする責任」(第2原則)、「環境悪化の移転防止」(第14原則)、「有害効果をもたらす自然災害、緊急事態の通報義務」(第18原則)についても確認している。
<無視できぬ「開発」政策への異議>
リオの地球サミットがもう一つ明らかにしたことは、単に南北間の対立のみならず、環境保護政策をめぐる米欧間の対立、それぞれの国家間の利害の衝突に加えて、より重要なことは、NGO、市民運動、住民運動と、政府や世界銀行、淘際的な開発・援助組織との対立が一層鮮明になってきていることである。これまでとは違って、開発途上諸国から多くのNGO組織や住民運動組織が参加し、自国政府や多国籍企業の「開発」政策に異議を唱え、しかもこれらの異議をもはや無視することが出来なくなってきたことである。
インドのナルマダ川流域のダム開発、ブラジルのバルビナダム、エクアドル・アマゾン流域の原油開発計画、フィリピンの脱硫装置なしの火力発電所計画(日本のODA資金による)etc.、これらは環境破壊を広げるばかりか、借金返済のための資源輸出をよりいっそう強制して、さらに環境破壊の悪循環をもたらす、開発は地域住民の主導による民主的なものとするべきだという意見である。
利潤追求と市場コストに専念し、汚染をたれ流し、環境コストを一切顧慮することなく膨張を遂げてきた資本主義経済は重大な岐路に立たされている。環境保護と両立する「持続可能な開発」をめぐっても、もはや政府、企業レベルでの意思・政策決定は、市民・住民レベルの合意、監視、規制なくしては成り立ちえない時代に突入しつつあることを示している。地球環境の悪化は「待ったなし」の状況に近づいていることを全ての人々が肌身で感じてきているのである。
<「最悪の汚染地帯」=ソ連・東欧圏>
そしてこのような市民・住民レベルでの合意、政策決定への民主的参加を無視するような社会システムが何をもたらすかという、もう一つの典型が、いわば自己崩壊せざるをえなかったソ連・東欧の社会主義ではなかったろうか。 その実態がいかなるものかについては、石弘之著『酸性雨』(岩波新書、92.5.20、580円)に詳しく紹介されている。
「一九八○年代末になって、東欧各国で次々にカーテンが開け放たれるや、最悪の環境汚染が目の前にさらけ出された。そのあまりのひどさに世界は慄然とした。」「酸性雨は森林も、湖沼も、建造物も蝕ばんでいた。とくに、チェコスロバキア、ポーランド、旧東ドイツの三国にまたがる国境地帯、通称「黒い三角地帯」は、酸性雨の集中攻撃を浴びて、生態系は壊滅状態だった。」
「旧東ドイツにいたっては、一人当り日本の四五倍もの大量の硫黄酸化物を浴びていることになる。」
「旧東ドイツ最大の化学工業地帯、ビターフェルト。この都市は統一ドイツ政府と環境保護団体グリーンピースによって「世界でもっとも汚染された町」との烙印を押された。だが東欧開放後、老朽化ゆえに西側との競争力を失って、次々に繰業停止を余儀なくされている。九万人いた労働者の半数が職を失った。皮肉なことに、それにつれて大気汚染も好転してきた。」 「旧ソ連は世界最大の硫黄酸化物の排出固で、国連の推定(一九八九年)では年二五00万トンに上る。」 「社会主義が本来求めていたのは、新しい人間による新しい社会の建設であったはずだ。だが、現実には政治的な腐敗と官僚主義がはびこり、社会はいたる所で機能がマヒして、誰もノルマだけが関心事となり、工場の生産設備の更新や公害防止設備の設置に責任を持つものはほとんどいなかった。環境関係のデータは「国家機密」とされて、都合のよい数字しか外部に発表されなかった。」
また、熊谷徹著『ドイツの憂鬱』(丸善ライブラリー、92.3.20.、620円)によると、「ケムニッツ・ライプチヒなどの工業地帯では、空気中の有害物質の濃度が、基準を大幅に上回っている。最も汚染がひどいのが、ライプチヒの南側にあるボルナという町。ここでは、一九八九年の時点で、空気中の二酸化硫黄の濃度が東ドイツ政府の基準値の四○倍、塵挨の値が二○倍に達していた。東ドイツ全体で、一九八八年に空気中に放出された二酸化硫黄の量は、五百万トン、西ドイツの五倍にのほる。これらの数字は、旧東ドイツの社会主義政権が環境と健康に対する配慮を、全くと言っていいほど怠ってきたことを裏付けている。一九八九年の東ヨーロッパ革命がもたらした最大の功績の一つは、西ヨーロッパ諸国が、東側の深刻な環境汚染に歯止めをかけるチャンスを得たことだと指摘する学者もいる。環境汚染は、統一ドイツに社会主義政権が残した「負の遺産」の筆頭といえるかもしれない。」という事態である。
<「環境破壊」のツケ>
問題はこのような社会主義の名にはばかる深刻な事態を抱えていたにもかかわらず、一切それが自国民にさえ明らかにされず、対外的には「国内には環境汚染など存在しない」などと主張し、国際的な環境汚染の規制に反対してきたことである。
たとえば、前掲書『酸性雨』によると、「スウェーデンは、一九八二年に人間環境会議の一○周年を記念して「環境の酸性化に関するストックホルム会議」を主催した。ここで「長距離越境大気汚染条約」の早期批准を各国に訴えるとともに、具体的な汚染物質の削減計画を要求した。そして翌八三年の条約締約国会議で、他の北欧諸国とともに、八三一九三年に硫黄酸化物の排出量を八○年レベルより三○%以上削減することを目指す提案を行なった。同時にオーストリア、スイスなどが、窒素酸化物の三○%削減を提案した。これに対して、英、米、フランスが反対にまわり、窒素酸化物の削減に抵抗する東欧圏もこれら三国に同調した。当時、東欧諸国は国内に環境汚染は存在しないとして、三○%削減の必要性を認めなかった。東欧欧諸国はこぞって、科学的に不明確な点が多いことを理由に規制に反対した。」これが実態である。
現実の社会主義に理想の環境保護政策を求め、少なくともそれが追求されているのではないかという期待は、明らかな幻想であったといえよう。実態とかけはなれたこうした幻想が、環境問題を軽視することにつながってきたことが深く自己反省されなければならないであろう。
こうして戦後だけでもソ連・東欧圏の社会主義が四十数年間にわたって放置してきた環境汚染のツケは、あまりにも大きい。ゴルバチョフの人類的課題の優先性、情報公開、もっと民主主義をという叫びは、ここでも社会主義者としての当然の悲痛な叫びであった。 (生駒 敬)
【出典】 青年の旗 No.176 1992年6月15日